宿屋
「ご亭主! 済まないが、ご亭主、起きてくれないか」シイタは森の中に佇む山小屋の扉を叩いた。「預けものをした旅の者だ。ここを開けてくれ」
「な、何事でございますか」
森の外れに何代も続く旅籠の亭主は女房の傍らでひそかに知り合いの若い後家さんの出てくる夢を楽しんでいたのだが、遠慮のない物音にたたき起こされ戸口に立った。
「おや、旦那、ご無事でお帰りに。はは、まさか、幽霊や物の怪ってぇことはないでしょうね」
「この森にはそんなものまで現れるのか?」シイタは疲れてはいたが、純粋に好奇心にかられおもわず質問した。
「いやー、旦那。魔女様の治めていなさるここには他の異形の棲む余地はないやね」
「では安心してくれ、わたしは見た目通りのただの人間だ」シイタは宿屋の粗末な土間に足を踏み入れた。
「起き抜けにすまぬが、すぐに出立したい。用意をしてくれ」
亭主はシイタの顔を眺めまわし、心配そうに云った。「また急でございますな。少し横になられたほうがよろしいのでは? 夜道は危のうございますよ」
「ご亭主も存じておられよう、わたしの乗り物は道を通ったりはしない」シイタの身体は旅籠の亭主が勧めるように休憩を欲していたが、神経は張りつめたままでこのまま休んでも仮眠など取れそうもなかったのだ。
「それに、もう夜明けだ」
「はあ……旦那がそうおっしゃるんなら」
亭主が心配そうに渋っているところへ、寝巻きにガウンを巻きつけながら大柄な女房が顔を覗かせた。血色のよい頬にはくっきりとまくらの跡がついている。彼女は寝癖のついた髪を撫でつけながら起きぬけと思えぬほど豪快にまくし立てた。
「旦那! よくご無事に戻られましたねえ。心配していたんですよ、魔女様にとって食われるんじゃないかと。こう言っちゃあ何ですけど、ときどき無鉄砲な他所者なんかがあたしらの忠告を無視して行方不明になることが多いんでね。秋の収穫祭に旦那の腐った死体なんか発見したかないですからねえ」
「お休みのところを起こして申し訳なかったですね、女将さん」
「いいえぇ、もうすぐ畑に行かなきゃなんない時刻だもの、いつまでも寝てなんかいられませんよ。そらあんた、何をぼさっと突っ立っているのさ、さっさと外の仕事をしにお行きよ」
旅籠の亭主も世の大半の男と同じく女房の尻に敷かれているらしい。シイタの故郷でも女たちはよく働き、威勢がよかった。彼女はお客のマントを否応無く脱がせてドア横のクイに引っ掛け、夫を仕事に追いたてたのと同じ要領でシイタを二階の浴室に追いやった。
彼が大急ぎでシャワーを浴びて出てくると、はやくも階下には良い匂いが漂っていた。かまどに火をおこした台所から女将は顔をわずかに覗かせ、散らかってはいるが気の置けない食堂のテーブルに着くよう指図した。
「それで魔女様への御用はお済みになったんですか?」彼女は陽気に話しながら紅茶の香りとともにあらわれ、ミルクティをなみなみと注いだ大きなカップをシイタの前に置いた。
「いえね、あたしは噂話や詮索なんざ、好きじゃないですけどね、魔女様んとこへ単身乗り込んでって無事帰ってきたおひとはめずらしいんでねぇ。もっともこんなところのお宿だもの、めったに人なんざ来やしませんけどね。なにしろ滞在客があるだけでもめっけものなんですから」
彼女はシイタの濡れた髪に目を留めると後ろに廻りこみ、タオルを手に取ってお客の頭にごしごしと擦りつけた。その手つきは乱暴なようでいて優しく素早かったので、シイタに逃げるすべを与えなかった。夫婦はシイタを一人前の大人の客として扱ってくれていたが、彼らの末息子よりも年若のシイタがどんなに背伸びをして振舞おうとも思わず世話を焼いてしまうのまではやめられないようだった。
「旦那さんは東方の国からいらっしゃったみたいだけど、あちらにも魔女様みたいな方はいるんですかね?」女将はタオルをシイタの肩に戻し、テーブルの前に戻ってお盆を取りあげると云った。その口調には自分の生活の一部になっている魔女のことが恐ろしいながらも自慢であるのが窺える。
「おい、おまえ、余計なことは訊かんでいいから、台所へ行って、鞍上でも食べられるものを作ってさしあげな」カンテラを持ったまま、屋外にいた亭主が引き返してきて口を挟んだ。
「あんたこそずいぶん早く戻ってきたじゃない。ちゃんと御用を足したんだろうね」
「こっちは旦那と大事な相談があるんだよ」
女房が奥に引っ込むのを眺めながら、亭主は申し訳なさそうに小声で囁いた。「旦那、例のあれなんですがね、目を覚まさないんですよ。いかが致しましょう」
シイタが魔女の森にむかう前に預けていった乗り物は、外の馬小屋で世話されていた。
「問題なくすごしていましたか」
「はぁ、たいがいは寝とるようでした。終日、耳をそばだてとりましたけど、厩から物音が聞こえてくるようなことはなかったですよ。夕方飼い葉桶にたっぷり汲んどいた水は、いま見たところあらかた無くなっとりました。だけんど、あれが一週間やそこらは何も食べずにいられるっちゅうのは確かなんですか?」
シイタも本当のところは知らなかったものの、自信ありげに肯くしかなかった。
「それが一ヶ月でも平気だそうだ」
「そうですか」亭主はとりあえず安堵したらしい。彼は彼の妻より小柄で肝っ玉も同様に小さかったが、それを恥じている様子はなかった。「旦那の頼みとはいえ、あれを三日もお預かりするのはなんとも気が進みませんでしたよ。いやあ、旦那さんが早く戻っていらしてよかった。そうそう、頂いといた三日分のお手当てですが、残りをお返ししときやしょう」
「いや、それは取っておいてくれ。女将さんに何か買ってあげるといい」
シイタはざっと髪を束ね、熱い紅茶を飲み干すと厩に向かった。