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黒猫のペシャ

 シイタは深々と頭を下げ、魔女に別れを告げた。そうして森の薄闇にむかって黒猫を探すべく目を凝らす。夜更けになっているとはいえ、そこは来る時に惑わされた罠の吹雪とはまるで違う季節にもどっていた。凍りつくほどの真っ白な冬景色から、穏やかな香りがいちめんに漂う涼やかな夏の夜の森だ。さきほどの吹雪は幻を見せられていただけなのか、それともやはり魔女が使えるといううわさの時空移動なのか。


 大量の雪に覆われていたはずの植物たちは鬱蒼と茂り、暗い草影の隙間に黒猫の尻尾の先がわずかに見え隠れしていた。シイタは黒い尻尾を追って何歩か進んでから、うつほを抱いた大木を振り返った。入り口は閉ざされ、深いしじまに包まれている。そこに扉があった気配は微塵もない。ただ、大木の梢が重々しく揺れていた。


 杉ではない?


 シイタは木の先端で揺れている葉が杉のものではないことにふと気が付いた。重く垂れ下った枝を手に取るとそのことがはっきりした。アヒルの足のような形の葉、これは銀杏の葉か? けれど、その横に揺れている枝からは確かに杉の葉が生えている。寄生しているのか、宿り木のように。シイタは辺りを見回し、杉の大木だと思っていたものが様々な木の寄せ集めであるのを知った。


 その時、うしろから心の声が響いてきた。


『この森は豊かに見えるかい』


 声のした辺りに、黒猫の金の瞳があった。

 シイタは考えをゆっくりと頭に浮かべた。


『……ここは何万年と育まれた深い森のはず。清涼な水も流れている』

『確かに。だけど元々この土地は痩せていてね、火口岩の堆積したところだもの。普通だったらまともな植物などほとんど生育しない』

『魔女の力というわけか』

『ふん、これだから人間の考えることといったら浅はかだな。魔女は植生を変えるなどという大それたことに力を使ったりはしない。それをやり遂げたのはこの巨大な杉さ』猫は巨木を見上げるようにシイタの足元をうろつきながら云った。


『彼らは水も土中の養分も乏しい岩のうえに根付いたため、著しく成長を阻害された。だから何十年かで成長するところ、何百年もかけて少しずつ古代杉は大きくなっていったんだ。それしか栄養が無かったのでね。それがため、硬く強靭で濃い樹液を留めた大木ができたのさ。そうした大木は枯れても他の植物の苗床になり、この深い森を形成していった。……まるでなにか他のものを連想しないかい、未熟な人間?』


 そう問い掛けると、人間に答える暇も与えず黒猫は身を翻した。シイタはあわててそのあとを追った。


 猫は気紛れに人をもてあそぶ。しなやかな身体をひらめかせながら跳んだり撥ねたり、長い優美な尻尾をからかうように動かした。シイタが追いつきそうになるとフイと姿を隠し森の暗闇に溶け込んでしまう。そのたびに月明かりだけを頼りに必死に探し回らねばならない。そんなことが幾度となく繰り返され、シイタはとうに道順を覚える努力を放棄してしまった。


 黒檀の身体は森の闇より一段と暗く、ほんのときおり月光がその絹のようにつややかな毛皮から滴り落ちた。


 かさつく葉むらに気をとられ案内者の尻尾を見失ったと焦っていると、光る羽虫を夢中になって追い駆けている猫につまずきそうになる。木の枝の上で毛皮を舐めている黒猫をやっと見付け一息つこうと地面に腰をおろすやいなや、飛ぶようにいってしまって休ませてはくれない。


 二人の追い駆けっこはかなり長いこと続き、シイタはかすかな水のせせらぎに誘われて緑の緞帳のような木々を掻き分けた。


 そこには小さな段差があり、清らかな水がちょろちょろと流れる小川があった。降りてゆくと細流に沿って小さな足跡が転々と残っている。小さな足跡は川というよりも粘土質の窪みにできた水溜りのような場所で喉の渇きを潤したようだ。シイタもつられるようにして足跡の横に膝をつき、夜空を映す揺れる水面に直接口を寄せた。


 息継ぎもせずに水を味わい満足して顔を上げたシイタは、猫がすぐそばの下生えばかりになった空き地の平たい石のうえに座っているのを発見した。木々の間を縫って月光が木漏れ日のように降っている。猫はずっと前からそこに座っていたかのように、微動だにしない。よく光る黄金の瞳も閉じられていた。


 シイタは口を拭いながら静かに立ち上がり、なるべく音を立てないように息をひそめて近寄った。いま少し黒猫にはおとなしくしていてほしい。近頃の机にはりついた生活のせいですっかり身体がなまってしまい、動物を追って一晩中狩りをするような体力は残っていない。その上、あの猫は普通の猫並みに人を手玉にとって遊ぶのが好きときている。虫や夜行性の小動物を捉まえようとする姿は遊び好きな猫そのものだ。


 シイタはペシャから目を離さずに考えた。魔女の飼い猫で人語を解するのだから普通の猫であるわけはない。それどころか黒猫は魔女の言い付けに逆らって本当は自分を森の奥深くに迷わせるつもりなのではないか。こんなことをしていて森の出口に着けるのだろうかという疑いは、幾度も心の片隅をよぎっている。


 シイタは動かない猫に用心しながら木の根元に寄りかかって座り、じっとりと浮かんだ汗を拭った。彼の耳に、自分の息遣いのせいで今まで押しやられていた夏の虫たちの鳴き交わす声が大きく聞こえてきた。その中には彼の里にある突塚山の高地にしか生息しないといわれる風鈴鳥の侘しげな忍び音もまじっていた。


 銀の森はカザフ国の西の端にあり、本来は温帯地方のはずだったがこの森は驚くほどの多様性に富んでいた。針葉樹林のエゾマツがあったと思えば、南のソレイユ名産の棕櫚の木が生い茂った一帯もある。ほとんどはブナなどの落葉樹と、シンゴウ国にも多い椎の木、樫の木などの常緑樹だが、生育可能範囲を大幅に超えて高山植物や熱帯植物がところどころに交じり合い、奇妙な森を形成しているのだ。


 シイタはしばらく虫たちの合唱に聴き入っていたが「ほんとうにここは変わった森だ」と呟いた。


「ヒタカはここが気にいっていたようだけど」


 シイタはギョッとして声のするほうに目をやった。猫はさっきと変わらず石の上に前足をたくし込んで箱座りしている。宝石のような金の瞳がシイタのことをまじろぎもせず見つめていた。


 瞬かない視線が不気味である。


 彼はほんの少し躊躇ってから猫に話し掛けた。「あなたはしゃべることもできるんだ」


「きみよりはましにね」猫の声は鳴き声よりも一オクターブほど低かった。


「それにあなたはヒタカのこともご存知だ」今度は確信をこめて呟いた。


「きみよりは確かにね」猫は瞬き、答えた。


「ヒタカは僕らの仲間だった。よくこの森で一緒に獲物を追い駆けたものさ。やつは上空から僕は地上から、なかなかいいコンビだったよ。森もヒタカのことをたいそう気に入っていた。ヒタカは時折、長いこと姿を消してしまうのだが、それは森に溶け込んでしまっているからだった。彼の身体は木や土中の昆虫やはたまたバクテリアなどと同化し、水とともに縦横に流れ森の一部になってしまう。本来の姿を取り戻したあとでも彼の本能は自然と一体になっていた。

 ……今でも森はヒタカがお気に入りらしい。彼が森を捨て僕らを見捨てて行ってしまったというのに。森というのは寛大にできているよ」


 シイタは黒猫をじっくり観察し、やおら顔をしかめた。


「それは違う。わたしは彼の心に触れたことがあるから分かるんだ。彼はずっとここに戻りたがっていた、戻れるものなら。しかしそのすべはなかった。もうとっくにあなたがたから繫がりを断ち切られ、排除されていたから」


 猫はひらりと石から跳び降り、シイタのすぐそばに近寄った。「やつが自ら決めたことだ。僕が反対しなかったとでも? 人間などにその身を捧げることを」


 シイタには黒猫の怒りが感じられた。


 ペシャは物憂げに尻尾を振るとすぐに瞳をそらし、草むらから出てきたカマキリに興味を移したようだった。


「――きみはヒタカに似ているな。遊び心が少ないところや、性急なところなど」猫はぽつりと呟き、虫にちょっかいを出してから持ち上げていた前足を丁寧になめあげ、爪の中に詰まった砂を器用に掻きだした。


「僕ら魔法族は気が長い。物事をじっくり考えるものだ。だからこそ先を見通すことも出来る。ヒタカはそれを怠った。人間界に行き、あまつさえ人間の子孫などをつくり、身も心も人間になってしまった……」


 猫は何の抑揚もつけずに話していたが、彼がそのことを苦々しく思っているのがヒゲを震わせる神経質な動作からも読み取れた。ヒタカへのこだわりを自分にぶつけられても迷惑な話しである。シイタは森の迷宮の案内者に戸惑いをぶつけた。


「それがあなたの答えですか? わたしを外界に案内してくれない」


 猫はあきれ果てると言いたげな一瞥をくれ、背中をそらして気持ちよさげに欠伸をした。皮が剥けそうに大口を開けたその顔を二方向からの月光が陰影をつけ、どことなく人間めいていた。


「いいかい、人間。これは僕ら猫の本能なんだ、じらしたり、からかったり、遊んだりするのは。猫が他人の思惑通りに動くことなんかないからね。だから僕に何かを教えてもらいたいなら、それに付き合うぐらいの礼儀は心得ておくべきだ。でなければいつまでたってもこの森から抜け出すなんて無理なことさ。たとえ気に入られていようがね」


「……どういう意味です?」


 猫は無視して答えない。

 

 シイタはうまくかわされたようで納得がいかなかった。さらにいくつもの疑問が浮かび、自分が打ち切ろうとした話を続けたい気さえした。ところが今は得体の知れない生き物との問答で時間を潰す時ではない。彼は立ち上がり、ズボンについた埃を払った。


「オーケー、猫どの。あなたにとことん付き合いましょう。わたしだって屋外で遊ぶのは大好きなんだから」

「それでは僕を捕まえてみたまえ」猫は挑発するように座り込み、自分の股の間を舐めはじめた。


 シイタもこれには少なからず頭にきて、ペシャを油断なく見つめいきなり跳びかかった。けれども猫のほうがはるかに素早い。身をくねらせるようにその場から飛び起き、一瞬にして草むらに走りこんだ。


 シイタはやれやれと頭を掻き、猫との追い駆けっこを再開した。


 じきにかれらは森を抜け、見晴らしのきく草原に辿り着いた。そのさきには東雲の空を背にぽつんと、シイタが前夜泊まった鄙びた宿の黒い輪郭が浮かんでいた。


 朝まだきの空は白々と明るさを増してゆく。シイタが辺りを見回しても、先刻、黒猫の姿はどこにもなかった。



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