少年と銀の森
フールメイは手にしていた盆を床にそっと下ろした。
器とうつわが触れて音が響き、静まり返ったうつほ内部を幾重にもかけ巡った。若者ははっとしたように目を覚まし、慌てて居ずまいを正した。
「食事をしておしまいなさい」
前に置かれた盆には大きなバターを浮かべたシチューとチーズ、パン、焼きたての分厚いハムなどがならび、シイタは芳醇な香りのする葡萄酒が入った陶器のゴブレットを取り上げた。
「あなたは召し上がらないのですか?」
「おまえの……おまえの話しに興味が湧いて食欲どころじゃないわ」
彼はわずかな仮眠だけで疲労がうそのように消えていることを訝りながらも、温かいシチューを味わい、自分がいかに腹をすかせていたかに気が付いた。その食べっぷりに、フールメイは黙ってパンやシチューのお代わりを持ってきてやるのだった。
若者が人心地ついたと思われたとき、彼女は口を開いた。
「さて、そろそろ続きを聞きましょうか」
「まず、なにから? 八人の証言ですか?」
シイタは魔女が焦らすように犯人の名を明かさずとも、彼女の次からつぎへと繰り出される謎への好奇心を満足させることが自分が代価として与えたものの一部であるのだから仕方ないのだ、と諦める心持ちになっていた。
「それより現場検証の結果は?」
「わかっているのはほんの僅かです」シイタはシチューの最後のひと雫も残さずパンにすくい取って口に放りこんだ。
「はっきり言って成果はほとんど上がっていません。あの部屋のなかで魔法が使われたのは確かですが、たいした手掛かりは得られませんでした。視覚魔法でさえかなりの分量の軌跡を残すはずなのに探査装置によって微量の残留物が採取できたのみです。その程度の量では出所を突き止めることも種類を特定するのさえ困難ということでした。
ユートン社の最新式の警報装置は極小魔粒子さえ見逃さないというのがウリで、警報がなった一瞬のみ魔力を感知したようです。ですがそれ以前も以後もなんの反応も現れておりません」
「確か、図書館はかなり強固な防御を施されていたわよね」
「ええ。特に一級室は全面、遮断石により完璧に囲われていますから外からの干渉は不可能と思えます。
調査にあたった者たちが申しておりました、これは魔法絡みの密室事件だと。だれも出入りせず、だれも外から手出しできない密閉空間から忽然と一冊の本が、それもかなり分厚く重いはずの大きな本が消えてしまったのですから」
「それも手掛かりに申し訳程度の魔粒子だけを残してね……」魔女は気に食わないらしく眉間に皺を寄せ、椅子を前後に揺り動かした。
「そうなるとやはり手始めとしては、盗難騒ぎの舞台となった部屋が魔力に対して本当に密室かどうか探ってみるべきね。
シイタ、おまえにわたくしの目の役割を果たしてもらうわ。現場で感じたことを詳しく描写してみてちょうだい。……ヒタカには鷹の目の術ができたけどそうもいくまいから」
「その術なら一度、掛けられたことがあります。白昼夢をみているような、自分が大祖父に乗り移られたかのような奇妙な体験でした。
実は……この森へは子供の頃に訪れたことがあるのです。いや、そのような気がするといったほうが正しいですね。七つの罠の抜け道を伝授された時、大祖父はここへの道順をわたしの頭のなかへ、まるで現実に見ているかのような完璧な映像として映し出しました」
シイタは頭に刻み付けられたものを本物の記憶より不思議と鮮明なものとして、子供の頃から何度もくりかえし思い返していた。それは郷愁や憧れにも似て一種の哀しみをともなっていたが、いまでは自分の記憶とともに二重写しのようなシュールさを帯びていた。半分凍りながらも魔女の住みかに辿り着くことができたのはそのおかげであるといえよう。
シイタがもうすぐ三歳の誕生日を迎えようとしていたある日の午後、幼い彼は、邪魔をしてはいけないという大人の言い付けを忘れ、遊び相手の子狼を追いかけて大爺の部屋に入りこんでしまった。シイタの名付け親でもある大祖父ヒタカは痩せ衰えた身体で座禅を組み、何日も前から瞑想を続けていた。
彼は自分の入滅の時機をはっきり悟っていたようだ。
ヒタカは小さなシイタを抱き上げ自分の膝の片方に乗せた。
ヒタカのことでシイタが覚えているのはその時のごつごつした膝の温もりと、大きな手の感触のみだ。顔や声などはあのとき嗅いだお香の匂いの向こう側に靄がかかったように覆われはっきりしない。あの特別の日に何を言われたかも思い出せない。ただ楽しそうに大爺の顎ひげをひっぱる幼い自分の姿と、一七、八歳ぐらいの、ちょうど今の自分に面差しの似た少年の姿だけが記憶の底にこびり付いている。
あれは誰だ、ヒタカなのか。
――既視感とも違う、もっとリアルで鮮明な記憶。
いや、あれは自分だ、あの少年は……。
彼は鬱蒼とした暗い森をなにかの軌跡を追うように足早に進んでいた。その先に何があるかはもう分かっている。孤独な風がカラカラと吹きわたる大きなうつほに一人住む、美しい銀の少女だ。
「……なるほど、ヒタカがおまえに鷹の目の術をね」
魔女の呟きにシイタはいくつかの言葉を聞き漏らしたのを知った。どうやら彼は数秒ほどボンヤリしていたらしい。彼は幼い頃の思い出に現われる少年の夢の少女がこうして目の前にいるのが俄かには信じられない気がした。
「努力はしてみますが、あのようなマネは当然ながら、自分の五感で得たものをどこまで正確に描けるかというと……」
現実に彼の前にいる魔女はずいぶん強引で実際的である。
「そんなのは構わないの。ヒタカだってすべてを完璧に記憶していたわけではないのよ。無意識に仕舞いこんだものを取り出し、映像として相手に送ることができただけ。大事なのは思い浮かんだことを素直に述べること。
その際、わたくしが知っているかとか、話が脱線したかなんてことには頓着しないでね。そこにこそ秘密を解く鍵が隠されているのかもしれないから。さあ、時間が惜しければ早くやることね」
シイタはほんの少し躊躇ったが、深く息を吐き出すと目をキツく瞑った。そうして数少ない一級室への入室経験を思い浮かべ、逃げ足の速いそのイメージの端っこをなんとか捕まえるのに成功すると目を明けた。
「そうですね……。まず、一級魔法書室の内部に入ると広く奥行きがあり、寒々としてまるで洞窟か石窟院にいるような錯覚を覚えます」シイタは僅かにうねったうつほの床を見つめながらとつとつと話し始めた。
「王立図書館はアカシヤの都でも皇居と並び称される荘厳で流麗な建物ですが、一級室はその中心にありながらかなり異質な存在と言えます。図書館というより危険な魔法書を管理するための保管室という意味合いが強いからでしょうか。
それがため、周囲はすべて最高級の遮断壁である黒芙石で分厚く囲まれています。図書館の床にはどこもこの石が敷き詰められていますが、壁から天井まで覆われているのはこの部屋のみだそうです。唯一の出入口にある扉さえこの石が使われており、重たい扉石はいつも司書が四、五人掛かりで開け閉めします」
シイタはいったん口を閉じ、魔女に視線を送った。ところが魔女はぼんやりと暖炉の灯りを眺めるばかりである。
彼は再び話しはじめた。
「この出入口以外には窓さえなく、自然の光が射し込まれる余地はありません。巨石と巨石の接着面や扉のパッキングには微量の魔力も入り込めぬよう不可侵布が隙間なく埋め込まれています。それによって内からも外からもエネルギーの流入は食い止められ、転送魔法さえ効かないようになっているわけです。
図書館の改築案が出たさいには壁一面この不可侵布で覆う計画もあったようです。真っ黒に鈍った黒芙石はどうしても重苦しい雰囲気で図書館利用者からも不評ですし、遮断壁が魔法を跳ね返して通過させないのとは違い魔法を吸収する物質である不可侵布のほうが室内での魔力の誤使用にも跳ね返りのない分、対応できると思われたのです」
「いくらなんでもそれは無理というものだわ」フールメイが独り言のように静かに口を挿んだ。
「不可侵布というのは高天原の河原石を薄く引き延ばして天空箔にし、それをさらに糸に撚って織り込んだ布のことでしょう。あれを加工した人間の手腕には感心するけれど、高天原石は非常に完成度の高い結晶石だもの。ほどけているか、結んでいるか、どちらにしても反発しあって二つ以上を繋げることなど叶わないはず」
「ええ。組み合わせるのは無理ですし、どんなに熟練した職人の手によっても一粒から生成できるのはせいぜい四十センチ四方といったところ。結局、最初の計画は没になり、繋ぎ目と濾過システムのみに不可侵布は用いられるようになったわけです。当然ながら部屋に備わっているライフラインのすべてもここを通る仕組みになっています」
「空気や水に乗せて魔法を送るわけにもいかないと。かなり厳重ね」魔女は椅子にゆったりと身体を預け、しばらく考えに耽っているようだった。
「いっけん完璧な密室のように視えるわね」フールメイは目を細めるようにしてどこかを見詰めた。「容疑者たちもそこに?」
「そうです。あれほど堅固な牢屋になりうるところは他にありませんから。彼らは事件後、一歩も外に出ていません。食事や長椅子などは要望により運び込まれているようですが」
「なるほどね。シイタ、あなたの話しぶりは当を得ていてなかなかいいわ。続けて」
シイタは魔女の評価に気を良くした。
あたかも女神と木こりの昔噺のようではないか。椅子から身を乗り出すようにして聞き入っている女性は、好奇心に瞳を輝かせている。お噺のなかでは、木こりは家を建てるためや畑をつくるために沢山の木を切り倒していた。それに怒った森の女神が男を殺そうと身分を偽って木こりの家を訪ねてゆく。木こりはそうとは気付かず女神を自宅に招き入れ、自分の小さな息子とお客のために炉端で取っておきの楽しい噺をいくつもするのだ。
嵐や吹雪に降りこめられた夜など、幼かったシイタに母親が幾度も繰り返し囲炉裏の前で語ってくれた昔語りのひとつだ。細かい部分などはきれいに忘れてしまったが、それでも嵐の高揚感をともなってワクワクしたのを覚えている。最終的に女神はお噺を全部聴き終わると何も言わず何もせず木こりの家から去ってゆくのだ。
シイタは自分が物語上の木こりになったような不思議な気分を味わっていた。
「扉前では司書がひとり、人の出入りを照合しています。図書館への入館時にも登録された素性との確認がありますから部屋の入り口とで二重チェックがなされるわけです。外出は原則として昼休みまで禁止ですが、この日は事件が起こるまで誰も部屋から出ていませんでした。
さらに入り口では機械的な検査も行なわれています。扉わくが検査機能を備えていてそこを通った魔法物質に反応するようになっているのです。もとより魔法石のような魔力を内包したものを携帯したままでの入室は許可されません。以前、心臓病の治療のために体内に刺激石を埋め込んでいた者が入室を許され、ある書物が混乱状態に陥ってひどい騒ぎになったことがあるんです。一級室には未知の書物が多いですから。それからというもの、一級室の入り口は魔法物質を帯びたままでは通り抜けできないよう厳重に管理されています」
魔法物質とはなんらかの呪文や合図がスイッチとなり、魔力を放出したり吸収したりするもののことである。それには自然のままはじめから力を秘めた鉱物と、後天的に魔法使いなどが力を封じ込めた物とに大別することができる。黒芙石や天空箔は前者であり、魔女の水薬などは後者の代表格だ。共通点はともに能力を失うまで特殊な波動を発し続ける点である。
「だけどそれは、自分たちの安全のための検査よね。知らずに禁制品を図書館に持ち込んで危険な羽目に陥らないための」魔女は確かめるようにゆっくりと言葉を継いだ。
「だとしたら厳重といったとて、ぜんぜん意味が違うわね。計画された魔法を締め出すものではないのだから」
「ええ……まあそうですね」
「とすれば盲点はあるわ。いまもひとつ思い付いた」
「本当ですか?」
「お前の話がヒントになった。昔から密室の犯罪といえば透明人間の仕業とされるのが常識よ」
「透明人間というと光学魔法の目眩ましのことですか? それだとて、検査をくぐり抜けることはできませんよ」
「二重三重に包んでしまえばいいのよ」
「透明人間を?」
「本のほうをよ」魔女はきっぱりと云った。
「古井戸の書には、魔力は通じないのでは――」
「それはひとえに何らかの魔法が働くとそれとはマイナスの魔法が自動的に発動する仕組みになっているからなの。ヒタカに頼まれて不用意な人間が引きずられぬために施した予防措置であって、本自身の防衛力では決してないわ」フールメイは一瞬黙って象牙色の眉をしかめた。
「にしてもあれを盗む理由がわからない。あの本の真の名前や内容を知り得る者ならば、また逆にあの本がいかに危険で利用価値などないことは知っていたはずよ。その上この犯人はあまり巧い手を使っているとはいえない。盗んだことがたちどころに知れたり、囚われたりするなんて間抜けもいいとこ」
シイタは魔女の言葉に業を煮やした。
彼女は自分だけさっさと結論に達し、答えを明かしてくれる気配がないのだ。彼がここまで訪ねてきたのは知恵を借りるためであって、魔女にたんなる気晴らしの種を与えにきたのではない。