閉じた本
シイタは、静かな暗闇のなかに浮かんでいた。
漆黒の闇に包まれた極寒のなか、上下も無く、内外の区別も無かった。焼かれた瞳が再生し、徐々に視界が回復してもなおも、墨のような暗闇は続いていた。
月星のない真夜中に、塩湖の真ん中でぷかぷかと浮いているようだった。わずかに潮流があるらしく、さざなみに押されたり、引かれているような気がした。
「ああ、やれやれ、しっぽの先が焦げちまった」ペシャが云った。
彼はもう頭の上には乗っていなかった。声を頼りに振り返ってみても、黒猫が目を瞑ってしまうとその姿を見分けるのは難しかった。
「ここはいったい何処なんだ?」
「さあてね」黒猫の声はどこか空ろだった。
「宇宙空間なのか? 星がまったく見えない……」
「知っているはずだろう。きみの世界なのだから」黒猫の声は真綿に吸い込まれるように消えていった。
「ああ、そうか。ここは黒い星なのか……」
シイタ自身の声も、何かに吸い取られるように発するそばから消えてゆく。それは声だけではないようだった。なにもかもが圧縮され、引き伸ばされ、シイタもペシャも崩壊してゆくようだった。
「きみの希望する世は、こういうのなのかい?」
「そう、暗黒の天体を望んだことがある。だけど……」
すうっと猫の爪のような小さな水色の亀裂が、漆黒を切り裂いた。
しばらくすると一本の筋だったものが少しずつ広がっていった。ほどなくそれは涼しげな水色の球体となった。
「これは地球だね」
「そうだ」
「――自分がちっぽけ過ぎて、わけが分からないよ」
「なんだ、大きさでものの価値を測るのかい?」
「……そんなんじゃないさ」
「きみが僕より大きいのは、その間抜けさぐらいだよ。忘れたのか? 想像力で宇宙を包むこともできると言ったのを」
「自分のことですら持て余し気味なのに、そんなの考えも及ばない」
「感傷的になるな」ペシャがピシャリと云った。「この宇宙はきみの一部なんだぞ。目の前の地球もそうだ。そしてこの青い水溜りは、フールメイの一部でもあるんだ」
「フールメイ……」
暗黒の世界のなか、全天に星が生まれ、黒猫の瞳のきらめきに同調して瞬いた。ふたりはいつのまにか穏やかなうつほの中に戻っていた。
「いそげ、フールメイは先刻、森から切り離され、連れ去られようとしている!」
「どうやって彼女のもとに行くんだ?」
「僕にも案内ぐらいならできる」
そう言うとペシャは、シイタの右腕を咥えた。細く鋭い牙が右手に食い込み、針に刺されたような鋭い痛みにシイタは跳びあがった。
と思ったら二人は夜の森を疾駆していた。黒猫の意識と、シイタの右腕とそれに連なるシイタの意識が、光が闇を切り裂くようにして森を進んだ。
瞬きをする間もなく、黒猫はブナのくぼ地に到着した。彼はぽとりと右腕をフールメイの足元の地面に落とし、フールメイの足に身体をこすり付けた。けれど異国の神もフールメイも、魂だけのペシャたちに気づく様子はない。
シイタは異国の神のマントの中からフールメイを取り戻そうと、右腕を忍ばせた。それなのに右腕は〝古井戸の書〟を求めているようだった。すぐさま右手は、異国の神の懐から〝古井戸の書〟を探し当てた。
フールメイの内部ではいましも悲鳴と狂喜が錯綜し、身体中の血管のなかを駆けめぐっていた。
男の唇は喉下をすべりおりる。両手はフールメイのドレスを鷲摑みにし、肩から引き下ろした。男の唇からわななくような吐息が漏れ、うめくように名前を呼んだ。二度目のとろけるようなくちづけに、男は我を忘れたようだった。
〝古井戸の書〟が男の懐から草地に落ち、足元に転がるのがフールメイのうっすらとした視野と脳裏を横切った。
なにも考えられなかった。ただ男の昂ぶりに応えるように、ひとつの言葉を宙に放った。肉欲の極みに発せられた叫びのようだった。
〝古井戸の書〟が静かに開く。
空間のゆがみがゆるゆるとあらわれ、時間が止まるほど遅くなった。特異点が形成されていた。
顕れたのは、古代アカシヤの始皇帝そのひとだった。初代皇帝は〝古井戸の書〟の皮装丁から開放されて、いっとき自由をあじわった。かれはフールメイを見つけると、満足そうに頷いた。とはいえ、時間軸が隔たっているので、始皇帝からは静止しているように感じられた。
彼はフールメイの周りを、渦を巻いて幾周か廻った。彼女には一度、逢うている。我が墳墓の聖櫃に、一緒に埋葬されていた古井戸の魔術が姦計によって盗まれ、怒りの亡霊として漂っていたときだ。魔女は墓を暴いた盗人を捕まえ、褒美として、我が地下宮殿で数日気ままに遊んでいった。そのとき魔女に古井戸を封じ込める手伝いを請われ、干からびた我がミイラをくれてやったのだ。
やはりまた逢うたか。もし古井戸がふたたび開くことあらば、そこに銀の魔女も居合わせると思うていたのだ。
おや、こちらは懐かしい友ではないか。エローバ・ゴートのぐるりを巡り、始皇帝は小首をかしげた。それとも懐かしい敵であったか。古い記憶なので、思い起こすのも容易ではなかった。
おやおや、こちらの御仁にも見覚えがあるぞ、とアカシヤの始皇帝は気ままに旋回しながら考えた。それは新しい印象だったのですぐに思い出せたのだ。
「その節は世話になったな、ペシャ殿。なにやらおヒゲが粋な姿になったものよの」
ペシャは猫になっててよかったと思いながら返事した。皇帝にだろうと、堅苦しい礼儀作法に煩わされるのは御免だったからだ。「久しぶりだね、皇帝陛下」
「そちも元気そうで何よりじゃ。で、となりの珍妙な輩は何者かの? 美少年なのに惜しいことよ。右手と身体が別々の階層に属しているとは」
「そりゃ、変わっているともさ、あんたの子孫とも言えるんだから。アカシヤの皇太子の地位を受け継ぎたくないと駄々を捏ねてるらしいけどね」
「おやおやおや」と、口癖なのか始皇帝はまた云った。
〝古井戸の書〟を守護する精霊と化している古代アカシヤの初代皇帝に、シイタはなんと挨拶して良いかわからず無言で会釈した。
シイタが戸惑っている間に、エローバが動き出しそうな気配を見せる。「おやおや、残念だの。どうやら時間切れのようじゃ」始皇帝は古神エローバの腕を掴んだ。
「みな、達者で過ごせよ」
「ったく! 挨拶なんかで一瞬を無駄にするからさ」ペシャは尻尾をゆらゆら揺らして別れの挨拶の代わりとした。
魂となった者以外には、すべてはあっという間の出来事だった。
時空が歪み、凍りつく。
エローバの瞳も大きく見開かれ、凍りついた。
エローバという事象は、始皇帝に押されたため、バランスを崩して井戸の縁から落ちていった。そうして事象の地平線のむこうに飲み込まれてゆく。古き神は彼の望みどおり、永遠に漏斗のような古井戸のなかを落ちてゆくのだ。密度も歪みも揺らめきさえも無限大の特異点に向かって、永久に落ち続ける。
フールメイはへなへなとその場に崩れ落ちた。彼女はおののきながら〝古井戸の書〟をぱたりと閉ざした。何が起きたかは理解していた。
あの男を永遠に失ったのだ。
喉から一声洩れる。深い安堵のため、いや、純粋な悲しみに満ちた嗚咽だった。
魔女は夜空に向かって顔をあげた。天の川が流れ、男月と女月からなる二つ月は、今にも重なり合おうとしている。天のあらゆる現象が音楽のように律動していた。
そのまましばらく身動き一つしなかったが、ふらつきながらも立ち上がった。胸の露わになったしどけないドレスをわななく指で整えると、彼女の指先から銀の炎がほとばしった。
〝古井戸の書〟が一気に燃え上がる。
書物から立ち昇るけむりは、因襲を打破する風穴のように銀の森を一直線に貫いた。それは古き神の失踪を悼んで行なわれる喪葬の儀式のようでもあった。
「さあ、帰りましょう……、ペシャとシイタが待っているわ」銀の魔女はひっそりと呟いた。
うつほでは、ふたりが首を長くして自分の帰りを待っていることだろう。扉を開ければ、きっとふたりは黙って彼女を抱きしめてくれる。そうして、何百年か先には齢を重ね、死んでゆくことができるのだ。
魔女はけむりの筋に最後の一瞥をくれると、くぼ地を後にした。
怯えたように隠れていた動物たちがそろりそろりと姿をあらわし、敬畏をこめて魔女の後に続いた。
月明かりのなか、シイタはゆっくりと目覚めた。
今度こそは、本当の目覚めである。
となりで寝ていたペシャも、同時に目を覚ましたようだった。シイタは手を伸ばし、初めて黒猫のビロードのように艶やかで滑らかな頭を撫ぜた。ペシャは身体を触られるのを許し、おまけにゴロゴロと気持ちよさげに喉を鳴らした。
なんと右手は身体に戻っていた。
黒猫はシイタの右手の匂いを胡散臭そうに嗅いでいたが、仕舞いにはペロペロと舐め、気を許したようだった。彼はシイタに向かって声にならぬ声でニャーと鳴いた。まるで人語を忘れたかのようだった。そうしてベッドを飛び下り、部屋から出て行った。
その後ろ姿をだまって見送ると、シイタもベッドから足を下ろした。すぐに黒猫の後を追おうとしたが、すっかり足が萎えているようでいうことを聞かない。高熱のため何日も寝たきりだったので、体力の衰えは激しかった。足がもつれて倒れそうになる。
慌てて右手で身体を支えようとしたが、右手は霧散したように消えてなくなり、肩を壁にぶつけてしまう。驚いて右手に意識を集中すると、ほっとしたことに空中に散じてしまった右手の粒子がしだいに集まってきた。
小さな虫がひとつの塊になるようだった。徐々に人の腕の形を成してゆく。ほどなくして完璧な右腕が、切り株のようだった肘の先に現れた。
上下にひっくり返してみても、完全に元の姿で産毛から手首の古い傷跡まで再現されていた。それは見た目だけではなかった。そっと壁に手をつくと、今度はきちんと身体を支えた。試しにドアノブを廻してみたが、普段どおりに機能するようだった。
慣れないうちは気を付けないといけないな、と考えながら足を引きずるようにして、ようやっとシイタは見慣れたうつほの居間にたどり着いた。
居間の暖炉には暖かな炎が灯され、黒猫のペシャはすでに戸口近くの絨毯の上に陣取っていた。彼は玄関扉に向かってきちんと座っており、外の様子を窺っているようだった。真剣な表情で、耳とヒゲを正面にピンと向けて待っていた。
すると戸口からホトホト音がする。
シイタは戸口にたった。
そこには女が立っていた。シイタはしばらく彼女を見つめていた。
「おかえりなさい」
シイタはそう云うと、躊躇うことなく魔女をぎゅっと抱きしめた。ペシャは挨拶代わりに、ゴロゴロ喉を鳴らしながら二人の脛に身体を擦り付ける。
「ただいま……」フールメイは抱きしめられたまま、これまで味わったことのない安心感に包まれて吐息のような返事をした。
終わり