深き眠り
一方、ペシャとシイタはフールメイ自身が施した強力な魔術によって、深いふかい夢の中に沈んでいた。
シイタの夢は幸せなものだった。
時や場所はめまぐるしく変わったが、捉えどころがないとはいえ、幸福に彩られた夢だった。夢の中のシイタは子供であったり、現在の自分だったりした。そのくせ苦い過去の経験から抜け出せないといった、自分の限界を思い知らされるお決まりの悪夢はいっさい現れなかった。
ただ、右腕だけが時折、疼いた。
右腕は吹雪のなかに取り残されたように急に寒くなったり、遮断石を動かそうと奮闘した後の震えが右腕だけに残っているように重くなったりした。それが幸せな夢の邪魔をした。まるで右腕だけが別の夢を見ているようだった。
シイタは右手をじっと見つめた。
太陽の光によって赤い血潮が透けてみえる。どくんどくんと鳴っているようだ。
どくんどくん、どこんどこん……。
シイタは、荷ボートの船尾に座っていた。ボートは大湿地の浅い水路にさしかかり、それを引っ張る黒河馬が水底を力強い脚で蹴りつけた。どこんどこん、ごとんごとんとボートは揺れた。
デッキに積んである藁に寄りかかり、シイタは船べり越しに景色を眺めながら一本の藁をもてあそんでいた。隣ではアカガネが、気持ちの良い藁のにおいに満足して寝そべっている。
湿地には平和が満ちていた。岸辺に近づかない限り大型の肉食動物とはめったに出くわさない。もちろん河馬が縄張りと認識している範囲には、鰐ですらおいそれとは寄り付かない。この湿原の王者である黒河馬は怒らせると非常に獰猛になるのだが、舳先に繋がれた三頭はおとなしく船頭の指示に従い、泳いだり歩いたりしながら舟を運んでいた。彼らは夫婦と子供からなる家族なので、仲を邪魔さえしなければ比較的従順なのだ。
一見、ボートの動力源は別にあると思われた。彼らの巨大な図体のほとんどは水面下に隠れており、巨体に比べて小さな三組の目と鼻と耳だけが、船首の波切板の少し先に突き出たり沈んだりした。
迷路のような水路は、野性のカバやゾウなどの大型の動物が気ままに歩いて作ったものだ。シンゴウ国の三分の一は、雨季になると水に沈む。乾季の草原と雨季の大湿原の両方がシイタの故郷だ。
乾季には小高い丘となる小さな島々は、この時期、パピルスに囲まれた水路で繋がれている。この主要な交通網である水路を覚えて正しい道を辿るには、鳥のような俯瞰感覚が必要だが、シンゴウ国の人々は生まれながらにしてそれに長けているらしい。でなければ、いつの季節でもシンゴウでは迷子になってしまうだろう。
シイタにはこれが家路であるのが分かっていた。あちこちに自生する睡蓮も夜に向かって花を閉じ始めており、夕暮れまでには間があるものの、太陽の光は先ほどよりも少しずつ弱まっている。頭上の木の枝から垂れ下がったホイップクリームのような蛙の卵は、翳り始めた日の光にきらきらと反射した。
舳先の操舵席で船頭のとなりに座る父が振り返り、何か話しかけてきた。ところが、声はシイタの耳にまで届かない。耳にとどく寸前に、風に吹き千切られて飛んでいってしまうようだった。
父上がいる。なんという安堵感だ。
亡くなったと思っていたなんて、自分はどうかしていたらしい。そのときの喪失感が甦って胸を刺したが、気の迷いか、そうでなければただの勘違いか。父はちゃんとこうしてそばにいるではないか。こんなにはっきりとその存在が感じられるというのに。どうして惑わされているなどと思うのだろう。何度疑えば気が済むのだ? かすかな不安を払いのけ、シイタはあっさりと納得した。
彼はそばに寄り添っているアカガネの豊かな毛並みの中に、右手をうずめ撫で回した。アカガネはうっとりとして撫でられていたが、しばらくすると顔を上げ、怪我を負った時にするようにシイタの右手をぺろぺろと舐めた。
父がまた話しかけてきた。
いったい何を言っているのだろう。逆光で顔は暗く、表情は読めない。何か大事なことを伝えようとしているという思いが募ってくる。それなのに、もどかしいほど聞きとれない。シイタは右手を上げて、まぶしい光を遮った。
急激に右手の血管に血が流れ込んだ。痺れるような痛みに、右腕を取り戻した喜びが被さった。
同時に、右腕を失った記憶が甦り、父親を失った現実を悟った。
ああ、またか、なぜ俺はこうもやすやすと騙されてしまうのだろう。簡単に安きに甘んじてしまう。それは自分が弱いからだとシイタは思った。弱いから何度でも繰り返し、誘惑に負けてしまうのだ。現実から顔を背け、いとも簡単に安らかな世界に墜ちる。
失ったはずの右手に視線を落とすと、その存在はだんだんと薄れていくようだった。しかしながら薄れてゆくのは右腕ではなく、それを見つめている視線の側であるのに気がついた。実体を失くしつつあるのはシイタ自身のほうであった。右腕以外のものも灰色に包まれていった。最後には、右腕だけを残してシイタは消え失せてゆく。自分を失う怖ろしさに戦慄を覚えた。
誰かの泣き声を聞いた気がして、シイタは目を覚ました。
薄闇に包まれた部屋で、かすかに猫の吐息が感じられる。黒猫のペシャが苦しそうに身体中を小刻みに震わせていた。その隣で自分自身がベッドに横たわっているのが分かった。フールメイのベッドだ。
おかしなことにシイタは身動きできなかった。目覚めているはずなのに金縛りにあっているらしく、起き上がることも指一本動かすこともできない。その上、見開いているはずの目にも何も映らない。月光が明るく射し込んでいるというのに。
自分の状況を感じることはできるのだが、なんとももどかしい。まるで不透明な繭に包まれ、身動きできないよう拘束されたようだった。
自由が利かない。自分を失うさっきの感覚は夢ではなかったのか‥‥。
シイタは身体の自由を取り戻そうと必死になった。狭苦しい場所から逃れようとして両腕を振り回そうとする。すると今度は強い力に身体中が引っ張られ、突如、別の場所にいた。
ところが一瞬そう勘違いしただけだった。傍らにはさっきと変わらず黒猫がいた。彼のぬくもりが肌に感じられる。意識を研ぎ澄ますと、ぼんやりとだったが周囲を見渡すことができた。
ペシャの他にも誰かがそばにいた。フールメイ? いや、男だ。男がすぐそばで寝ている。
ああ、不思議だ、見知った顔だ。
それは自分の顔だった。眠っているようだった。はじめて見る自分自身の姿は赤の他人のようによそよそしく、鏡や水面に映る虚像とはまったくの別物で馴染みがない。おそるおそる自分自身の顔に右手を伸ばそうとした拍子に、右腕はぐんっと伸び、頬をさっと掠めた。
やにわにシイタの意識は反発し、弾かれてしまった。手ひどい拒絶に合い、シイタは代わりに隣に寝ていた黒猫の尻尾につかまった。
「おい、その手を離せ!」
ペシャが怒って尻尾を振り、シイタの右手の中から尻尾を取り返した。いつの間にか、黒猫はシイタの傍らに立っていた。そのくせ二人の身体はいまだ、自分たちのはるか下のベッドの上に横たわっている。
「あなたはまだあそこに寝てるのに!」シイタは驚いて叫んだ。
「きみだってそうだろう」
「これは夢なのか?」
「夢かうつつか幻か、その区別が付いたからって何になるんだい」
「ああもう、夢は夢、現実は現実じゃないか!」シイタはいらいらと云った。
黒猫は現実の時そのままに、耳のうしろ側を後ろ足で掻き、その動作にいっとき集中しているようだった。ついに足を下ろすと、知性的な目をシイタに向けた。
「夢とうつつの違いを、まるで知っているような口ぶりだな。まあ、そう願えばこれは現実となるだろうさ。どっちにしろ、こうして魂は抜け出しているんだし、あんな抜け殻が現実と言えるならばだけどね」
「なんだって? いったい、どうなってるんだ!?」
「おいおい、パニックを起こすんじゃないよ、人間。こんなのさほど珍しい事態じゃないさ。単に魂がその器から分離しているだけだ」
「どうしてこんなことに……」
「ふむ、不思議だな」ペシャはさっと視線を走らせた。人間には感知できない物音を捉えたように虚空を見詰めた。一瞬後、何事もなかったようにシイタをふり返った。
「どうやら僕らは千年の眠りにつかされていたらしい。フールメイも強力な魔法を掛けたものさ。この眠りはフールメイ以外に簡単に破ることができないものだ」
「なぜフールメイはそんなことを?」
「もとより僕たちを守るために決まっている。とは言っても僕らはこうして目覚めている。まあ、きみの場合はかなり異様ななりをしているわけだが。自分でも気づいているのかい? その珍妙な姿に?」
ペシャは人に懐いた普通の猫よろしく、柔らかな肢体をくねられてシイタの足元に8の字を描いてまとわり付いた。
「え?」シイタには、黒猫の言っている意味が分からない。
「その原因がきみの右腕だ。覚えていないか? その右腕をどうしたか?」
シイタは右腕をじっと見下ろした。「そうだった……、わたしの右腕は深淵の狼に喰われたのだった……」
「やっと思い出したか。その喰われた右腕は、異国の神の使徒である狼の口には合わなかったとみえる。吐き出され、銀の森に吸収されながら浄化されたんだろう。うずら木がいやにうるさく癒しのうたを聴かせやがると、妙に思ってたんだ。きみの右腕は、銀の森に溶け込みながら実体を持った。その右腕だけはフールメイの呪縛からも自由だった。そのおかげで夢の中でも目覚めることができたようだ」
「でも、身体は眠ったままだ」
「ああ。その他は魂だけの存在さ」
「フールメイ……、そうだ! 思い出したぞ、彼女が危ない!!」
シイタは突如、右腕が自分を無理やり起こした理由に思い至った。フールメイの、助けを求める呼び声を聞いたからだった。
「くそ、時間がない!!」
「いや、まだある。夢のなかでは時間など存在しないに等しいからだ」
「けど、魂だけでは何の役にも立たないじゃないか!」
「まあそうだが、きみの右腕がある! それだけでも希望がないわけじゃない」
シイタは、一度は失ったはずの右手に再度目をやった。考えなかったときには苦も無く動かせた手は、命令されるのを嫌うように応じない。指はギクシャクして生来のなめらかさを欠き、わずかな動作をさせるのも一苦労だ。血が通わなくなった痺れた手のように重く、シイタは右手をぶんぶんと振り回して血を送り込もうとした。
いや、血など通うわけは無い。右腕だけが実体をもったということが、彼にはうまく理解できなかった。
「自分の身体を操縦するのに何をてこずっているんだ」
シイタは情けない思いを味わいながら、惨めに喚いた。「どうしたら良いか分からないんだ!」
「きみには想像力の欠片もないのか? 想像力を駆使すれば、この広大な宇宙を包み込むことだってやれるんだぞ、一瞬で宇宙の果てにさえ飛んでいけるというのに」そこまで言って、猫はちょっと考え込むように首を傾げた。「まあ、宇宙の果てを想像できればだけどね」
ペシャは爪をたててシイタの身体をよじ登り、頭頂部に前足を乗せ、肩の上に陣取った。細長いしっぽをぶんぶんと大きく左右に振るため、ときどきシイタの鼻を打ち、思いのほか痛い。
「きみのオツムでそれが難しいとしても、あの月までならどうにか飛んで行けるんじゃないか? そら、あの真ん丸いチーズのような美味しそうな月を見てみろよ」
その途端、ふたりは見たことも無い、荒涼とした風景のなかに浮かんでいた。地平線上には巨大で黄色いもう一つの月が覆いかぶさっていた。
「ここは月面なのか? あれは女月、なんて眩しいんだ……」
自分から命令をしたくせにペシャはえらく驚いたようで、跳び上がるようにしてシイタの頭上に危なっかしく乗っかった。シイタの頭に玉乗りの曲芸よろしくへばり付いたまま、黒猫は云った。
「気をつけろよ、想像力を野放しにするな!」
「太陽の光さえ違って見える……」
「ああ、馬鹿、何にも考えるな!」黒猫は身体中の毛を逆立てて唸った。「想像力を間違って使うととんでもない場所に行っちまうんだぞ。おい、待て! コントロールするんにやああぁぁ」後の言葉は、甲高い猫そのものの鳴き声になっていた。
次にふたりを包んでいるのは太陽フレアだ。
「それ以上、近寄るなってば! あの炎だけでも惑星よりもデカイんだぞ!!」
「わたしじゃない! なんにもしてやしないんだから」
「空想しなかったとでも言うつもりか? 太陽を見上げて、近くに行けばどんなだろうと思っただろうが!」
シイタは改めて考えないことの難しさに舌打ちした。心して掛からないと、どうしたって見たものに影響されてしまう。
「きみはもう何にも見るな!」頭上のペシャがシイタの両目に尻尾をきつく巻きつけ、視界を遮った。
「いまさら遅いよ。無我の境地にでも達しなければ、こんな光景を目にして何も感じないわけにはいかないじゃないか」
「感じるだと! 感じる暇などあるものか!」ペシャがするっと尻尾を落とした。
そこには超大なエネルギーが燃え盛る恒星の世界が広がっていた。
巨大な火の玉である太陽は、一目見ただけで瞳を焦がし、一瞬で燃えカスも残さずに猫と人間の魂を焼いた。




