古井戸の書
静かなうつほのなかに、暖炉の炎の爆ぜる音が響く。
魔女は指を一振りしてそれを冷たい灯し火に変えた。シイタの身体はとうに乾いて暖まっており、大木のうえには夜の闇が迫っていた。森では早くも夜行性の生き物たちが今晩の食事を求めて活動をはじめていた。
ペシャは人間の肩に鋭い爪痕を残しながら踏み台代わりに炉棚から飛び降り、フールメイの膝に音もなく移った。彼女はうわの空で猫を撫ぜたが、彼はすぐにその手から逃れ暗がりにむかうと闇に溶け込んだ。
「……あの魔術は、前にも一度盗まれたわ」フールメイは呟いた。
「存じております」シイタは布地ごと引き裂かれた肩の痛みに眉をしかめながら云った。
「西の魔王が古墳の聖柩から術を盗みだし、危険な実験を試みた。それがどういったものかは知りませんが、その時は危うく世界が死に瀕したそうですね。大祖父のヒタカはあなたの力をお借りして、なんとか魔王の手より術を取り戻したと聞いています。
あなたは魔術の全貌を一冊の本に描き込み、二度と開かないよう封印した。またどんな魔法も本にはかけられないようにし、大祖父に託されました。彼はその後、アカシヤの都の王立図書館が改築されたのを機に、魔法書を寄贈したのですが――わたしはそこで学費の足しに司書のアルバイトをしています。そういった経緯から今度の事件が起こったとき、この森に遣わされたのです。あなたの協力が得られることを期待して」
「……協力ね。魔女の助力を得るには、見返りが必要なものだけど。おまえは何を差し出すつもり?」
シイタはここに遣わされるにあたって、治維卿から魔女の割高な要求については聞かされていた。彼の腰の内側に結わえ付けられている袋の中には、アカシヤの都王から託された粒揃いの見事な真珠が、魔女のほっそりとした首なら二巻き出来るほど入っていたが、このうつほ内部に入った瞬間から、そんなもので彼女が喜ばないのは分かっていた。この居間を見たかぎりでも華美な装飾は好みではないようだったし、魔女自身も宝飾品はひとつも身に付けていなかった。
「あなたも古井戸の書の行方は気になると思うのですが?」
「確かにね。だからといってそれで魔女の力を借りられると思っているならすこし虫が良すぎるわ」
「……そうでしょうか? あなたにとって解かれていない謎ほど興味をそそる代価はないと思うのですが」
シイタは腰から袋をはずし、彼女の足元へと押し出した。「これはアカシヤの都王よりこたびの礼へと渡されたものです」
魔女は鹿革の袋から何粒かの真珠をこぼし、手の平で転がした。「ふん、綺麗ね。瑠璃の壷に押し込めるものの代わりぐらいにはなるかも」
「なんですって?」
「こちらの話、ペシャには変わった趣味があるの。……まあいいわ、あの本を盗まれたのはわたくしの不手際ともいえるのだし、値下げも已む無しだわね。知恵を貸すぐらいの協力はしましょう。それで構わぬなら契約成立よ」
シイタは治維卿からできれば魔女を森から連れ出すように言われていたのだが、それは無理な要求なのだろう。
「分かりました、それで結構です」
フールメイはシイタの顔に薄く笑いかけた。「おまえの片方の目玉を刳り貫くことも考えたのだけど」
「目玉、ですか?」シイタは多少ギョッとして呟いた。
「古井戸の書に伝説のとおり、全世界を滅ぼすほどのものが隠されているのならそれも惜しくはありませんが。ただ、あの本を開くことが出来ぬならさほどの心配はないのでは?」
「残念ながら二度と開かない本などというものはこの世に存在しないのよ」
「それではやはり封印を解く鍵があるのですね。治安維持卿はその可能性を懸念しておられるのです」
「――〝古井戸の書〟にどんな魔術が書き込まれているかを解きあかした者に、扉は開かれる」
フールメイは気短に付け足した。「鍵というほどの呪文ではないわね」
「それではもしも書物がまた、魔王のような者の手に渡ったならば‥‥」
「たとえその危険があったとしてもお前たち人間が古井戸の原理を発見する場合に備えてあの本は残されたの。それが初代アカシヤの都王の望みでもあったのだから。
この世界に一切必要ないものなら最初から燃やしてしまっていたでしょうよ。そのほうが安全に違いないわ」
シイタは都ではだれも答えてくれなかった疑問を口にした。「あの本にはいったい何が書かれているのです?」
その問いに、魔女の蒼い瞳はシイタを通り越して遠い世界に向けられたようだった。すると彼女の白い肌がうっすらと透き通り、北国の花嫁が被る雪の結晶に見立てたベールのように夢のように霞んでみえた。だがシイタがまばたきすると、その姿は残像だけを残して一瞬で消え去った。
「――古井戸の書にはひとつの星が隠されているの」
「星!? この大地のような?」
「いいえ、こことは全然違うところよ。そこはとても人が住めるような世界ではない。それどころか全てのものを呑み込み、光さえ抜け出せない暗黒の天体だわ」
自分が生まれ育った国でさえ手に余るほど広く感じているシイタにとってそれは理解の範疇を越えたものだ。太陽系ひとつ認識する力もないというのに。暗黒の天体? その質量といったらどのくらいなのだろう。エネルギーのほんの一端でも本から洩れ出たら、地球ばかりではなくこの辺りの宇宙空間が消し飛んでしまいそうではないか。
古井戸の書が今まで内容も知らぬ人間の手によって管理されていたことを思い、シイタはぞっとした。
「そんな危険なものを出現させる術を後生大事にして、いったい何の役に立つのです?」思わずぽろりと本心がこぼれ出た。
その言葉にかすかな非難を感じ取り、フールメイは目を細めて生意気な人間を睨めつけた。
「……おまえたちのような未熟な生き物が先達の行為に意見するなど千年早いわ」
冷たい、突き刺すような視線を受け、シイタはゴクリと後悔の唾を飲み込んだ。さっきまで僅かにあった温かみも凍てついた空のような蒼い瞳からは完全に消えてしまっている。自分の不用意なひと言が魔女の逆鱗にふれたのかと恐ろしくなる。
ある意味、古井戸の書の中身よりそれを制御できる彼女のほうが恐ろしい。人間とはまったく異質の、不気味な存在と改めて思い知らされた。しかし無知で矮小といわれようが人間としての誇りが、この美しい女性に怯えた様子を見せるのを許さない。
彼は顔をあげると真っすぐに向き直った。
「失礼いたしました。批判するつもりなどはなかったのです」
フールメイは沈み込んだ椅子のなかから若者の凛とした瞳を見つめ返した。彼女は突然疲れを感じ、自分の老齢が思い出された。それに比べ人間たちはまだ若く脆い、芽吹いたばかりの萌え木やこの少年のように。
それゆえ自分自身を滅ぼしかねないほど危険な存在でもある。さりとて彼のような惑わない瞳はフールメイたちの希望でもあった。魔女は花を手折るように人間を殺すことになんの躊躇も覚えない冷酷な女であったが、花そのものを愛していないわけではなかった。だからこそ危険で豊かな古井戸の書のような魔術さえ託す価値が生まれる。
「その星のおかげでこの銀河が生まれたといっても過言ではないでしょうね。加えて……わたくしたち魔法族は遠い昔、その星から吹き出るジェット気流を手がかりに数多い銀河の中からこの奇跡に満ちた珍しくも美しい地球を見つけだしたのよ。お前たち人間だっていずれは自分たちのルーツが知りたくなるはずだわ」
「……わたしたち人間はこの地球で生まれたのではないのですか?」
「そう、ある一面においてはね」フールメイは椅子の背に頭を預け、しばし考えると促した。
「何が起こったのか詳しくお話しなさい」
この大陸を収めていた大国アカシヤが分裂すると、いくつもの小国が群雄割拠する戦国時代が訪れた。幾世代にも渡って小国同士の小競り合いや内紛、海を隔てた強国との諍いが絶えず、魔女や魔法使いを、時には神々さえも巻き込んでの大規模な戦争がしばしば行なわれた。
まもなく拮抗した力を持つ三国間で同盟が結ばれると、この地にも均衡が保たれ落ち着きを取り戻した。
三国とは北西のカザフ、東のシンゴウ、南のソレイユだったが、そのなかから選ばれた者がアカシヤの都王の称号を受け継ぎ皇帝として統べることになった。王の膝元であるアカシヤの都では学問が奨励され、貿易による経済発展とともに内外からの優秀な人材が集まり富や知識を増やしていった。その象徴が魔法大学と王立図書館である。
「ことの起こりは今から五日ほど前に遡ります。いつものように王立図書館の一級魔法書室への入室希望者は長い順番待ちのリストになっていました。その日も先頭から八番目までの人物が入室を許可され、彼らはめったに拝むことのない貴重な書物の宝庫へと分け入ったのです。
数時間は何事もなく過ぎたのですが、突然、警報システムが作動しました。ご存知のように魔法書室では魔術の使用がかたく禁止されております。とくに一級室にはまだ封印を解かれていない鍵の掛かったままの本が数十冊あり、どんな些細な力に共振するか知れたもんじゃありませんから。最初は八人のうちの誰かがうっかりその禁を破ったものと思われました。ですが室内には何ら異変が起こる兆候は現われませんし、ひとまずは安心だと皆が胸をなでおろしたとき司書のひとりが気付いたのです。古井戸の書が紛失している事態に」
「そこには何冊ぐらいの本が置いてあるの?」
「一級室には約二千冊ほどですね。中でも特に危険性が高いとされる特Aランクに指定されたものは、長く連なった陳列棚に年代別に収められ厳重に保管されています。古井戸の書はそのなかでももっとも有名な一冊と言えるでしょう。
もちろんここに入室した者には自由な閲覧が許されていますが、チェックの入る昼食時、閉鎖時には全部がいったん棚に戻されます。書棚自体が収められた書物に個別に反応するようになっており別の本や偽物が置かれるのを防いでいるのです」
「ふん、保管体制は整っているらしいわね。以前よりずいぶん冊数も増えたし。一度訪ねるべきかしら、まだ見ていないおもしろい魔法書が見つかるかも‥‥」天井を見上げながらフールメイは呟く。
「で、だれもが魔法の使用を否定しているのね?」
「頑なに」
「八人の身元は?」
「確かな者ばかりです。まず二人は特別常連の方で空気魔法の権威であるシュバイク博士と、緑地魔法の実地研究家であるスメーズ教授です。わたしはお二人ともに教わったことがあります。誤って魔法を使うほど粗忽な方々ではないですし、古井戸の書が世に出たときの危険性も充分認識してらっしゃいます。
それから魔法大学への留学生である黒の穴蔵国のオータン王子。その学友家臣のルックン・トランゼンとエテン・ヘロン。オータン王子は気難しくわがままな方ですが、トランゼンは同じ専攻ということもあり割合親しくしています。あとは地元の学生で四回生のカイ・ヒサ。卒業論文の仕上げのために連日図書館に通っていたそうです。えー、他には写本画家のムーク・ソル。彼女は都を訪れるごとにリストに名を書き加え、年一回の割合で一級室に顔を出しています。
残る一人はエスプッチの宗教家で、高位の僧侶アムガスト殿です。彼の信奉している教えは輪廻転生と慈悲の心を絶対視していると聞き及んでおります。彼は長年アカシヤの都に滞在なさって、他宗派の人々からも尊敬されているようです。
彼らはいまも拘束中なのですが、不当監禁とあちこちから非難が沸き起こっています。すぐにでも何かしらの手掛かりが見つからない限り、未解決のまま釈放せざるをえないでしょう」
「焦らないことね。犯人は判っているのだから再び捕らえることも出来なくはないはずよ」
「犯人が判ってるですって?」
「たぶんね」
「でも……どうやって? まだ何も、捜査状況さえ話してはいないのに」
「わたくしの手柄なんかじゃないわ。犯人自ら告白しているからにすぎない」
「ですがわたしはまだ容疑者たちの証言さえ話してはいませんよ。いや、それより犯人は誰なのです?」シイタは半分腰を浮かし、興奮気味に云った。
「お待ちなさい。犯人が誰かよりもどうやったか、犯行の手口を知るほうが先決だわ。本当の素性や盗みの目的を探るヒントになるでしょう。でもその前に……」
魔女はおもむろに立ち上がった。「ペシャの夕食の時間がとっくに過ぎているわ」
シイタははやる気持ちを飲み込むようにして押し殺した。何百年と生きてきた魔女に、この焦りを理解させるのはどだい無理な話なのかもしれない。
「それにおまえも何か食べたほうがいいようね。よく煮込んだシチューがあるし、焼いたばかりのパンもあるわ。他にもなにか精の出るものを作ることが出来るでしょう」
「あなたが?」
「わたくしだって摂取するエネルギーによっている生き物なのよ」
「お手伝いします」シイタは立ち上がりフールメイの後を追おうとする。
「わたくしの料理の腕を信用しないの?」彼女はからかうように云った。「おまえは夜を撤して早打ちしてきたのでしょう。少し休むといいわ。それに……その傷」フールメイはシイタの肩に触れ、猫の爪に裂かれた服の布地を持ち上げた。
「手当てすべきね」
台所でペシャのミルクを用意していると黒猫は音もなく戸口に現われた。軽い身ごなしでテーブルに飛び乗り、お皿に顔を埋めミルクを美味しそうに飲みはじめた。さっきまで心を閉ざしていた彼の意識がゆっくりと流れこんでくる。
『ずいぶんあの人間に肩入れするんだな』
『彼にじゃないわ、彼の運んできた謎に興味があるのよ』
『赤い椿の件はどうなったのさ』
『その計画は延期してもらうしかないわね』
『ふん』
魔女は木杓でシチューをかき混ぜていた手を止め、ペシャの形のよい頭に眼をやった。
『あなた、リラサカのヒタカとはとても仲が良かったじゃない。彼の子孫なのよ、あの人間は』
『たしかにヒタカとはいっしょに狩りをした仲さ。だが奴の半分はまだ我々の同類だったが、奴の子孫とやらはまるきり人間じゃないか』
魔女は鍋からあがる湯気のむこうを透かし見ながら、少し言いよどんだ。
『……彼の一族は人間と同化する道を選んだのよ、その選択が間違っているとは言えないわ』
黒猫はプイッと身を翻し、そのまま自分専用のドアから外の暗闇に出ていってしまった。フールメイはその後ろ姿を見送りながらほっと吐息を洩らした。
彼女が食物や飲み物を盆に載せて居間に引き返してみると、よほど疲れていたのか若者は片膝をたてた格好のまま後ろの幹に寄り掛かって眠ってしまったようだ。暖炉の火灯りに照らされて、若々しい膚にも目の下にうっすらと隈が出来ているのが窺える。ペシャに傷つけられたところには有機繊維シールが貼り付けられていた。
この少年にはヒタカを彷彿させるものがあるとフールメイは思う。
顔を合わせた瞬間に思い出せなかったのが不思議なくらいだ。ヒタカとは三年間、この洞で暮らした。進む道が決定的に違うので別れなければならなかったが、その時の苦みはいまだに心の奥底に残っている。
物思いに耽るフールメイの体内で、不意に何かが体液を沸騰させ揺さぶった。
驚いて我にかえると内耳迷路に幽かに聞き覚えのある音楽が響いてくる。大樹のこずえが風をはらみ、幹と根に抱かれたうつほが共鳴し震えたのだ。
「まあ、珍しい。うずら木が曲を奏でているわ」魔女は呟いた。
樹液と地中の水が混じりあい波立ち、波紋を広げている。その音色で森のあらゆる生命が揺らぎ、大地が沸き立っている。これは癒しのうた……。
それは魔女でさえ数えるほどしか聴いたことのない杉の大木が魂を響かせて奏でる歌であった。厳しい吹雪や嵐のさなかには山守の歌を発することがある。また春には生を讃える喜びの楽の音を奏でたりもする。
けれども苦しみや悲しみを受け入れる癒しの歌が囁かれるのは非常に稀だった。森の生き物たちが歌に惹かれて闇世のなかをあちこちから大木のまわりに集まってくるのが感じられた。
うつほのなかに一陣の風が吹き渡った。