表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/22

古き神

 静かな森に扉の蝶番の音が響いた。フールメイが銀の森に姿をみせると、今宵の月は一段と明るさを増した。


 森の動物たちは何かに怯えているかのように、一匹たりと姿をあらわすことはなかった。魔女は月光ににぶく輝く小石や木の又に飛び移りながら、森の奥深くへと進んだ。


 人間の若者も黒猫のペシャも、彼女が無事に戻ってくるまで洞の中で眠りつづけることだろう。うつほ全体にかけた呪文は強力で、生半可な魔法使いの力では緩めることなど叶わない。彼女が万が一戻らなかったら二人は長い永い眠りに付くことになる。だがフールメイは二人のことをこれ以上心配しないことにした。怖れは力を削ぎ、彼女を身動きとれないようにしてしまうだろう。


 大の月から月光柱が長く降りたった。


 吸い寄せられるように秘密のくぼ地にむかい、魔女はふたつの月のあいだを飛んでいった。


 彼女の向かう先は、魔女の身内しか足を踏み入れたことのない場所である。そのあたりには付近に住む村人たちも動物たちも、けっして足を踏みいれることはない。彼女自身も大地の力を最大限に引き出すような強力な魔法を呼び出すとき以外には、近寄ることはなかった。


 彼女にとってもそこは禁忌に近かった。代々の銀の魔女はそのくぼ地で生まれていた。彼女の母親も彼女を生むために呼び寄せた強力な魔法使いと、そのくぼ地で一夜かぎりの契りを交わしたのだ。そこは魔女たちの秘密の閨房であり、次代の魔女を産み落としたさいの胎盤と羊水を吸収した土は、古神から続く魔女たちとのあいだに血脈となって深いつながりを宿していた。そこはフールメイにとって幼い思い出をおぼろげによみがえらせる揺りかごであり、同時に、力の全てを娘にあたえて亡くなった母親の墓場でもあった。


 彼女はくぼ地にむかってまっすぐ突き進んだ。それほど最前より彼女を呼ぶ静かな声は力を増し、絡みつくように執拗であらがいがたかった。


 フールメイは、のたうちまわるように歪んだブナの枝が縦横に大地に横たわっている薄暗いくぼ地のへりに降り立った。それは新緑が生い茂る今の時期には面影も無いが、冬になるとそのくぼ地に豪雪がなだれ積もり、その地に根付こうとしているブナをたわめ潰してしまうことを物語っていた。


 フールメイはくぼ地の中心部へゆっくりと歩み寄った。


 彼女が闇を見通すように目を凝らすと、くぼ地の周囲を巡りながら少しずつ忍び寄ってきたものが間もなく姿を現した。それは消音された空気のように何ひとつ気配を発しない。とはいえ、先よりフールメイを呼ばわっていたものに相違なかった。それは異物の進入を阻止しようとするくぼ地の結界に触れるたびにぱちぱちと火花を散らしたが、そのつど姿かたちを変えてやり過ごし、歩みを止めるまでにはいたらなかった。


 最初、漆黒のマントを頭からすっぽりとかぶった醜い老人と見えたものは小柄な少年の姿になったり、この世のものとは思えぬ奇怪なけものになったりと目まぐるしく変化した。だがそこには首尾一貫したある種の美しさがあり、強大な力と同時に皮肉なウィットのセンスを感じずにはいられなかった。


 人間の姿に三度なろうとした暗闇は、一歩進むごとに不安定に揺れ動いていたが、フールメイの手前で足を止めた時には堂々たる美丈夫に落ち着いた。


「ようよう、お会いすることが叶いましたな、フールメイ殿」

「‥‥そのようね」


 フールメイは用心深く答えたが、見知らぬ男の計り知れない力は如実に感じることができた。


 これほどの魔力を秘めた存在と、かつてフールメイは接触を持ったことがなかった。静けさをたたえる死海の底で、マグマが力を蓄えているような不気味さが男にはあった。男の瞳は深い翳りを持った緑色で、この出会いを面白がっているような光を宿していた。彼は凄まじい力を有していたという古い神々の生き残りなのか。そのような神は大昔に滅びたものと思われていたのだが。


「最近この森の周辺をちろちろと蠢いていた者があったけれど、どうやらあなたの仕業だったのね」

「そう。何度も我がしもべ達を放ったのだが、見事にこの森の迷路に跳ね返されてしまったのだよ。なかなかすばらしい森を形成したものだな、銀の魔女のフールメイ殿。地球はたいした力を秘めておるよ」男はぐるりと銀の森を見渡しながら云った。


「‥‥馴れ馴れしく人の名を口にする前に、名乗るべきではありませんの?」

「これは失礼した。されど名前などに何の価値があろうか。そなたは我が力を存分に感じることが出来るだろうに」そう言いながらも男は腰をわずかに屈め、挨拶した。

「我が名はエローバ・ゴート。お聞き及びかな? 長年にわたってさまざまに呼ばれてきたものだが、この名前の通りが一番良いようなのだ」


 それは古き神々の中でも、もっとも古い第一世代にあたる有名な神の呼び名であった。その名を聞いたのは随分昔のことだが、彼は神々の一番好きな遊戯で、無敗を誇っていたといわれる。


 神々の好む遊戯とは、すなわち、人間への支配力を競うための盤上ゲームだ。


 造物主たる神によって遊戯の駒に見立てられた人間たちの生き残りの数を競う戦略ゲームは、自らの意志を持つに至った人間に、どれほどの影響力を及ぼせるかを試みる絶好の機会だったのだ。彼は自分を唯一神として崇める民に試練を与え、苦しめながらその信仰心を試すようにして、最後には逆転勝利を収めるのが好きだったと聞く。


「その古き神が魔女一人殺すのに随分回りくどい手を使ったものだわ。〝古井戸の書〟を人間の手から盗み出し、犯人探しの真似事をさせて」

「そなたを殺すとな? そのような手間はかけぬよ、始末する相手には」


 男は真っ白いマントを翻し、倒れ伏したようにくねった太いブナの木を爪先で蹴ってから腰を下ろした。


「もっともそなたをより深く知るうえでも、〝古井戸の書〟は十分盗み出す価値があったがね」男はそう云ってじっとフールメイを見詰めた。

「おかげでこうしてそなたに邂逅するのも叶い、手間隙かけただけの成果はあったというものだ。――久しぶりに策を凝らし、知恵を絞り、大いに楽しいひと時を味わったよ。

 そなたの住まいへの抜け道を知っていたらしい唯一の人物は残念ながら既にこの世になく、さすがのわしにもこの銀の森へ招待なく侵入するのはなかなか難儀だったのでね。一方、ほとんど人間であるとはいえ、そやつの子孫ならもしやと思ったのだ。案の定、あの若者が流した血の臭跡のおかげで、しもべ達もついに森の棲家への道筋を辿るのに成功したというわけだ」


「そのためにシイタは苦痛を長引かされ、死の道行をさせられたというのね‥‥」

「わしの使徒は見かけによらず、あまり鼻の利くほうではなくてね、たっぷりと血を流してもらう必要があったのだ。ちなみに彼の命をもたせるのはそなたの洞の扉を叩くまでと思うていたが、どうしてしぶとく生き延びたようだな」

「これ以上、彼に手出しはさせないわ!」

「――ほう、冷酷という噂も当てにはならぬな。もしくは恋にのぼせた若者にほだされでもしたか、銀の魔女よ。ここへの進入路を知る者には、消えてもらうほうがそなたにとっても好都合だと思うが」


 魔女は咄嗟に怒りに任せた発言をしたことをはやくもに悔いていたが、放たれた言葉を今さら引っ込めるわけにもいかなかった。


「たといそうであったとしても、彼の命をわたくしの許しなく奪わせはしない」フールメイは我知らず固い決意を込めて云った。

「――たとい、わしと戦うことになっても、かね?」エローバは、魔女を推し量ろうとするように、フールメイの額に視線を漂わせたまま優しく訊いた。

「戦う? あなたと――」魔女は躊躇い、乾ききった唇を湿らせた。古き神に戦いを挑んでいささかなりとも勝ち目などあるのだろうか? とはいえ彼の目論見は解からないながら、今すぐこちらの命を奪う意図はないようだ。


「人間の命は儚く脆いわ。わたくしたち魔族が彼らの形をなぞって大地に根付いたからこそか、余計にその短い命はか弱く、取るに足らないもののように思える。それでも――彼の命は守る価値があるように思えるのです」フールメイは感情が声に現れるのを怖れ、思わず顔を背けた。

「なぜならわたくしは、彼の声の響きも‥‥彼の瞳に宿る色も覚えてしまったから。彼はまっすぐにこの世を見据え、すでに失望してしまっているとしても、人を愛し、この世界を愛している。きっと人間界ではかけがえのない者であるはずだわ」


「‥‥そなたこそ、かけがえの無い存在であろうよ」

 フールメイはまっすぐに見詰め返すことでほめ言葉を受け流し、云った。「なにが目的ですの? 古い神がなにを望んでこの不法侵入を企てましたの?」


 だが質問をしている最中に、とうにフールメイは男の目の中にその答えを見出し、慄然とした。


「そう、そうなのだ、魔女よ‥‥。わしはここ何十年というもの、わしの息子の母となるべき女神を探して世界中をめぐっていたのだ」

「だったら、ここからずうと西の国に、美しい女神や仙女たちが幾人もいるそうよ、そちらに向かったらいかが?」フールメイは自嘲ぎみに言葉を返した。しかるに、その声はかすかな震えを帯びている。身体が自然にぐらつくのを悟られまいと、両腕で自身を抱きしめた。


「わしの妻となるべき者は本物の女神だけだ。当節、神と名乗っておる輩がどのくらいいようが、人間の血がまざった紛い物などに用は無い」


 エローバは一度押し黙ると夜空を漫然と眺め、再びフールメイに視線を戻した。魔女に自分のそばの倒木を指し示して命令した。


「掛けなさい」


 フールメイはだまって従った。彼女が他人の意思に従うなど、ついぞなかったことだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ