恋と熱
闇の帳が世界を覆い尽くし、朝はまだ生まれる気配も見せていない。
魔女は暗い窓辺で長いあいだ物思いに耽っていた。眠気が少しもおきなかった。ふと、玄関からの密かな物音を耳にし、魔女は髪をかきあげた。
少し待ってみたものの、その後は静まり返っている。壁やテーブルにかかげてある黄水晶が彼女の考えに呼応するように輝きを放ちはじめた。窓から射しこむ雲間の月光は僅かばかりで、真っ暗だったうつほ内部に黄水晶によるほのかな温かみと明るさが宿った。
彼女は立って確かめることにした。
扉を開けるとさっと冷たい風が吹き込み、昨日のちょうど今ごろ元気に送りだした若者が開けた扉の影からずり落ちるように姿を現した。
「シイタ!」
「今晩は……銀の魔女どの。約束を果たしに参りました……」一言かすれ声で囁くと、シイタはフールメイの腕のなかに倒れこんだ。彼女の手に生暖かい血が触れた。
「なんてこと!!」
苦しげに若者は瞳をひらいた。その目は朦朧とし、虚ろだった。
「フールメイ……なんだか心配しているようだ」
魔女は無視して云った。「なにがあったの!?」
「あなたに……お知らせしなければならないことが………」言葉を途切らせ、彼は苦痛に口もとをゆがめて歯をくいしばった。
青ざめ、痛みのため皺が刻まれた顔は十も年老いたようにみえる。魔女の袖を強く握り締めていた左手が、がくりと垂れた。
フールメイはシイタの時々ひきつって震える身体を支え、暖炉の前に戻った。昨夜、彼が座っていた絨毯の上にシイタを横たえ、ショック症状を和らげるために足の下にクッションを押し込んだ。
「氷の女王……」シイタは痛みにうるんだ瞳でフールメイを見上げ、囁くように云った。「それなのにあなたの瞳は暖かい……、気付いていますか、あなたの美しさは若者には毒だ……まるでこの森のように、危険で清らかで美しい……」息は浅く乱れていたがシイタは普段より饒舌だった。
「しーっ、いい子だから、もうお喋りはやめて」
シイタは、フールメイの子供をあやすような仕草ににっこり笑い、内緒話をするようになおも言い募った。「わたしの望みはひと目あなたにお逢いすること……、なぜならあなたをお慕いしているからです……お笑いになりますか?」
「いいえ、笑ったりしないわ。だから――」
シイタの心臓は、過度の疲労と多くの血液を失ったことにより動きを止めた。
「シイタ……! シイタ!!」
フールメイは脈が振れないことを確かめると、彼の紫色に変わりつつある唇に呼気を吹き込んだ。
『シイタ、シイタ……、川を渡ってはだめよ! 戻ってきて!!』唇を重ねたまま、魔女は必死に声をかけた。
動かない心臓には、電気エネルギーによる刺激を与える。シイタの身体は大きく撥ねたが疲れ果てた心臓は動かない。
『聞こえないの、シイタ? まだよ、まだ逝っていけない』
いつのまにかそばにやってきていたペシャは、シイタの頭上に陣取るとその顔をじっと見下ろしていた。慣れない作業に珍しくフールメイの息はあがったが、二度三度と刺激を繰りかえすとまもなくシイタは息を吹き返した。
魔女はほっとして傷の手当てをおこなった。
その様子を珍しく邪魔せずに見守っていたペシャは、あくびを漏らしながら立ち上がった。黒猫は顔を洗いつつ心を解き放ち、文句をつぶやいた。
『やれやれ、半分死にかけてたくせに、ずいぶんとおしゃべりなやつだ』
『‥‥アドレナリンのせいよ』
『それだけじゃないと思うけどね』
『‥‥‥』
『あんたが構わないというなら、それでもいいさ』
小康状態を保つかに思われたが、翌日になるとシイタは高熱にうなされはじめ、意識をうしなったままとぎれとぎれに意味不明なうわ言を口走るようになった。抵抗力を失った身体に細菌がはいりこんで熱く火照り、彼を内部から苦しめていた。魔女は炎症をおこす病原菌について思いつくかぎりの抵抗呪文を唱えた。
黒猫は喉を鳴らしてフールメイの手もとにまつわりついた。ふたりの間を所構わず転げまわり、治療に必要な品物にじゃれついたりする。魔女は呪文を中断して、時々はペシャのご機嫌をとるために彼の喉や鼻面や身体中を撫でまわしてやらねばならなかった。
三日目の真夜中近く、瀕死の重傷のひどい苦痛を繰り返し味わい辛うじて死を免れたシイタは、ようやく意識をとりもどした。彼はフールメイの寝室に寝かされていた。彼のわき腹から背中にかけて被覆剤が貼り付けられており、痛みは無視できる鈍痛に変わっていた。身体全体は魔法による回復期特有のゆるやかな波動に満たされている。
カモミールの香りがほのかに漂うベッド脇では、魔女が椅子に座って眠っていた。彼女の顔に銀の髪が流れ落ちている。それは上空から眺めたときの、けむる銀の森の姿に似ていなくもない。起きているときの魔女は尊大で冷淡だが、こうして寝ている横顔にはいたいけな少女のようなあどけなさがあった。
なぜ人は誰かを愛さずにはいられないのだろう。どうしてひとりでは生きてゆけないのだろう。
なぜかわからぬものの、銀の魔女の魂にはシイタのそれをゆさぶり、ふれ合うなにかがあった。見詰めていると心臓が締め付けられるように痛くなった。
フールメイの存在が幻のように消えてしまわぬうちに確かめたくて、シイタは腕を伸ばそうとしたが痺れて動かない。それは丸まった黒猫が三角形の固い頭を乗せていたせいだった。
「やあ、黒猫どの」シイタは反対の手をペシャに近づけた。
ペシャは大きな瞳でシイタを見上げ、素早くシイタの手に噛み付いた。甘噛みしたまま身体を丸め、前足後足でおもいっきりシイタの身体を押すように伸びをした。さらに上向きになって前足を開いたり閉じたりしながら背中をシーツに擦りつける。柔らかく黒光りする毛皮を撫ぜようとしたが、ペシャはすばやく逃れフールメイの膝に飛び乗った。
「ああ、目が覚めたのね。どう具合は?」
フールメイは髪を後ろに払い、若者の顔を覗き込んだ。シイタの見上げる魔女の蒼い瞳には、炎のような黄水晶からの光によって暖かそうないくつもの星が瞬いていた。
「危ういところで生還した気分はいかが?」
問いかけに応えないシイタに、フールメイは気遣わしげに続けた。「残念ながら完治するには時間がかかりそうよ。無茶をしたものだわ。――水でも飲む?」
シイタは魔女の介護にしばらく黙って身をゆだねていたが、右手を伸ばそうとして、はっとした。黒猫の重さで痺れていたとばかり思っていた右腕には、肘から先がなかった。そこには結わえられた袖がゆれていた。
「――ペシャを見に行かせたわ。どうやらこの森に嫌なものが入り込んだみたいね。おまえの腕は――」
「そうだ!! 大変です! 異国の古き神があなたを狙っているのです!」シイタはフールメイの言葉を遮り、左手でぎこちなく魔女の腕を掴んだ。「彼はあなたを殺しに行くと言っていました。だからわたしは――」
「なんにしても、おまえごときが相手にできるものじゃないわ」
「――それでもあなたを放っておけなかった‥‥。恐ろしかった、あなたを失うのではないかと……、居ても立ってもいられなかった」
シイタは訳がわからないといった具合に眉をしかめていたが、フールメイが手をそっと外そうとすると指に一段と力を込めて放さず、彼女を見上げた。
「……あなたが助けを求めている気がしたのです」
「助けが必要だったのは、おまえのほうだわ」魔女は無愛想に言うと、シイタの顔も見ずに背中の具合を確かめた。
「本当だ、おかしいな……」シイタはなすがままになりながら震える指で額をこすった。
「さあ、右腕も見せてちょうだい。――あまり痛まないといいけれど。医術はあまり得意ではないのよ」そう言いながらもフールメイは右腕の醜い切り口を丁寧に確かめ、水薬を丹念に吹き付けた。
魔女は包帯を新しいものに取り替えながら、さっきまでと違って黙って治療を眺めているシイタが心配になり、思わず声をかけた。「森でペシャが見つけたわ、おまえの右腕。穢れていて持ってこられなかった。でも新しい腕が欲しければ、体力が戻り次第――」
フールメイはぼうとして何の反応も示さないシイタが一層心配になり、もう一度、問いかけた。「シイタ? わたくしの声が聞こえているの?」
シイタは弱々しい微笑みを浮かべた。「ええ。――あなたに何事もなく‥‥こうして会えたのが嬉しいのです」
「無論、わたくしは無事よ。無事じゃないのはおまえのほうだわ」
シイタはフールメイの存在を確かめるように彼女の顔に左手を伸ばし、ためらいがちに指を這わせた。「フールメイ……あなたが無事でよかった。あなたを愛しているのです」
シイタの告白に対し、フールメイは何の反応も見せなかった。自分の顔におずおずとふれるシイタの手をとり、脈を計ってから膝のうえに戻した。
シイタはもう一度ぽつりと呟いた。「聞こえない振りなどしないでください……」
魔女は冷ややかに答えた。「熱に浮かされたたわ言だわ」
シイタはまっすぐに彼女を見た。「こんな人里離れた所に一人きりでいるなど危険すぎます。一緒に里に下りてください」
「わたくしが自分の身も守れないと?」
「いいえ、あなたはわたしが出会った女性のなかでも一番お強いでしょう。しかしそれでも‥‥寂しくはないのですか?」
「わたくしはここに一人でいるわけじゃないのよ。愛するペシャと静かに暮らしているの。わたくしに一番合った生き方だわ。寂しいわけなどないわ」
その後、シイタは幾度か目覚めるたびに、魔女のぶっきらぼうな手当てに身を委ねた。まだ朦朧として夢うつつのような時間が過ぎていった。彼は起きるたびに同じ話を繰り返し、魔女の存在に子供のように泣き出してしまうのだった。
数日が過ぎたころ、シイタはようやくはっきりした意識を持って目を覚ました。腕先の痛みは代わりに酷く、身体中が熱のために火照っていた。
夜中なのか、かたわらでは魔女が最初の日のように椅子に腰掛けて眠っていた。
シイタが眺めていると、魔女はぱっと目を開いた。ふたりは束の間、黙って見詰め合った。瞳を通して心の奥底を知ろうとするかのようだった。
突発的にシイタは衝動に駆られ、伸びあがってフールメイに燃えるような熱い口づけをした。
魔女は珍しくうろたえて身をひいた。冷ややかな表面にひびが入った瞬間だった。
「どうかわたしと一緒に来てください、結婚してほしいのです」シイタは自分でも思いがけないことを口走っていた。それにも関わらず、言の葉が空中に放たれるとずっと以前から願っていたことであるのが分かった。
「そんなこと出来ないわ」魔女は静かに云った。
「なぜです、わたしがただの人間だからですか? それとも――」
「お前は甚だしい勘違いをしているのだわ。わたくしはかねてより婚姻しているのよ」
「まさか! いったい誰と?」
「もちろん、彼とよ」フールメイは彼女の膝のうえに座っていた黒猫を胸に抱えこむと云った。
「彼? その黒猫と?」
目を覚ましたペシャはご満悦といった様子で、ゴロゴロと喉を鳴らし身体をくねらせ、フールメイの腕や胸や首に纏わり付いた。その様子は猫特有の陶酔の域にある。
シイタは力尽き、ふたたびベッドに横たわった。あっけない失恋と、訳のわからない状況や思うに任せない身体に嫌気がさして情けなく、惨めな気持ちでいっぱいだった。それでもいくらか慰められたのは、彼女がシイタの想像していたような孤独な生き方をしているわけではないらしいという事実だった。愛する夫がいるというのだから――、たとえそれが小さな猫の姿をしているとしても。
フールメイは天井を見上げているシイタの顔をしばし眺めていたが、そっと囁いた。その口調にはめずらしく憐憫の情が含まれていた。
「魔法を掛けられたのね、その異国の神とやらに」
「……魔法を?」
「くだらぬやつよ。王子に化けていたものと接触したのでしょ? そのとき振り掛けられたのね――恋の媚薬を。それでおまえは重傷を負っているというのに無我夢中でここまで来てしまったのだわ」
そんなバカなっ! この苦しい想いそのものが異国の神の策略から生まれたものだというのか!? 違う、あり得ないことだ! シイタは言い返そうと口を開きかけた。
「いいからお眠りなさい、何も考えないで。いまのお前にはそれが一番の薬よ」
魔女の穏やかな声とゆるやかな手の動きによって、シイタは泥に沈み込むような眠りに引きずられたが、それでもなお彼の思考は逆らっていた。
確かにわたしは恋をしている、この冷たい魔女に。だがそれは王子と話をした時からじゃない。吹雪のなかを彷徨い歩いた末、彼女がドアを開けてくれた瞬間からだ。もしかするとうつほの中を裸足で歩く彼女の華奢な足首を見たときからだろうか。月夜に照らされた霊妙で美しい顔を眺めたときからか。いや、そのどれでもない。幼い自分の額のなかに、ヒタカの記憶としてはじめて現れたときから彼女に恋していたのだ。あの瞬間からわたしは彼女の虜だった、彼女を愛していたのだ‥‥。
「魔法を……かけたものがあったというのなら、それはきっと‥月の光のせいでしょう……」
シイタは意識を失う寸前に呟き、眠りに埋まりそうになりながらも深い満足感とともにそう確信していた。
フールメイはしばらく立ったままシイタの寝顔を眺めていた。彼女の腕の中でごろごろと喉を鳴らしていたペシャも寝息をたてはじめ、強い眠りに落ちていった。
死んだようにぐったりと伸びきった黒猫をフールメイはそっとシイタの隣に寝かせた。ペシャは夢を見ているのか苦しそうに口元をぴくつかせていたが、フールメイがその小さな頭を何度か撫ぜると猫は安心したように深いため息をついた。彼女はピンとたった猫耳に優しくキスをした。シイタの額の髪をかき上げると、燃えるような額に冷たい手を押し当て冷やしてやった。
魔女はそのまま黙って部屋を抜け出した。