アカガネ
異様に大きな沈む太陽は地平にふれるのを厭うように漂よい、真っ赤に焼けただれ、滴っていた。
不気味な夕闇のせまる眩しい空のかなたに、大鳥と見まごう翳があった。注視する者がいれば、移動スピードが静止していると思えるほど遅いことで、鳥にしてはかなりな高度を飛んでいることを訝しく思うかもしれない。
『シイタ――、わかっているでしょうけど、魔女の森についたらその使い魔たちは力を失うわ。その前に傷口を閉じなければいけない』
しばらくうとうとと翼竜の背中で揺られていたシイタはカルカルーリの優しい心話によって覚醒した。もうすぐフールメイの銀の森に着くのだろう。
「……サヤの蜘蛛たちがやってくれましたが」シイタはぼんやりと返事した。
「魔法のことなど言ってないわ、実際に針と糸でもって皮膚を縫い合わせるの」カルカルーリは背上の人間の集中力をおもんばかって、喉から言葉をしぼり出すというあまり得意ではない方法に切り換えた。途端にひび割れた銅鑼声があたりにとどろき、空気を震わせる。
「シイタ、この方法はね、医者がいない時の民間療法だけど、効果はあるようよ。体内はともかく、外側だけでも物理的に綴じ合わせないといけないわ。そうじゃなきゃ、森に入った瞬間に傷口が開くでしょう。――針と糸は持っている?」
「……いえ」
「しょうがないわねぇ。あなたのそのボロ笛を貸してちょうだい」翼竜は大きな頭を真後ろまで巡らした。そのせいでカルカルーリの飛行軌道がわずかにずれた。
「糸はそうね、血止めに使っていた布をほどいて」
翼竜は人間が手にした笛と、浴衣から抜き取った糸を横目で眺め、古代の呪文で魔法をかけた。横笛はずんずんと縮まり小さな針となった。シイタの母親が浴衣を手縫いしていた綿糸はきらきら光った柔らかい糸に変化した。恐ろしい外見をした翼竜の甲斐甲斐しさはまるで縫い物の得意な人の良いおばあさんのようだ、と言ったらカルカルーリは機嫌を損ねるだろうか。
「どうしたの? 笑ったりして」訝しそうにカルカルーリは問うた。
「いえ、この古笛は、祖先から代々伝わる〝小枝〟という名器なのです。これではほんとの小枝ですね」
シイタは自分の使い魔である小さな天道虫の精霊を指先にゆっくりと止まらせた。三匹ほど現れた彼らのなかから指の上でくるくると回転して元気に踊る一匹を選び出し、糸を通した針を持たせた。そののち虫たちを自由に空に飛ばした。
半球形の身体をして橙色の上ばねに黒い模様を七つ散らしたのと、赤い身体に黒い水玉模様、反対に黒地に鮮やかな赤い楕円を二つ描いているのがいる。シイタは化生に具えられる限りの実体を彼らに与えた。天道虫は羽を目に見えぬほどすばやく動かして翼竜のまわりの渦を巻く大気にしばらく遊んだ。そのうちにシイタの腹の上に飛来すると器用に針をつかい、飛んだり撥ねたりしながら傷ついた皮膚を順番に縫いつけていった。
縫合が終わる頃には薄闇が支配力を増しはじめた暮れなずむ夏の空、結界に覆われ外界から閉ざされた奇妙な森の上空に二人は達していた。森は陽炎がたったかのように銀色に揺らぎ、真上からでも全体像を摑むことはできない。
カルカルーリはこれまでになかったような緩やかな曲線で下降しはじめた。銀の揺らぎは空気の流れまで分断し、竜はその表層を滑り落ちるように下ってゆく。役目を終えた虫たちは主人のそばを離れ、大空のどこかに消えていった。
森のはずれの草原に運ばれたシイタは翼竜の背より滑り降りると、前に立って彼女の大きく醜い頭にしばらく顔をうずめた。黒い剛毛をまばらに生やした平べったく大きな鼻からは、水蒸気のような息が噴きだされている。対照的に皮膚はひんやりと冷たく、熱っぽいシイタの額に気持ちが良かった。彼女のいつも変わらぬ平静で深みのある心に触れ、飛翔中でもないのに翼竜の心の奥深くに仕舞いこまれた天翔ける夢を描くようないにしえの雅曲を奏でる琴線のふるえを感じとった。
シイタはカルカルーリをその場に残し、森の結界に足を踏みいれた。
魔女の森に入った途端、シイタの胸の中ではサヤの使い魔たちが小さな断末魔を上げながら儚く消えていった。彼ら蜘蛛の精霊の魂はシイタの身体から無理やり引き剥がされ、森の濃厚な空気のなかに溶けこんだ。痛みが急激に蘇ってくる。サヤの心配そうな嘆きが聞こえる気がした。
森は以前と同様どこからか吹いてくる風にたわみ、宵闇の中、ゆるやかに軋みながら叫び声をあげ、へまをした人間を冬の嵐に巻き込もうと手ぐすねひいている。その感触にはなじみがあって、シイタは逆に励まされているような慰められているような不思議な気分を味わった。
かといって、ひどい違和感が終始付きまとっているのも事実だ。森に入ってそれはいっそう強くなった。一つ目の罠である石柱の門をくぐる時も、二つ目の罠を後ろ向きに歩きながら合わせ鏡の術で通りすぎた時も、何かが間違っていると頭の隅で警告音が鳴り響くのだがシイタにはそれが何を訴えているのかわからない。ただ早くしなければという焦燥感が苦しいほど募っていった。
魔女の棲家に近づくころには季節は夏から冬へと一気に進み、雪が舞い始めていた。疲労した身体に寒さはこたえたが、フールメイに逢わねばならぬという決意だけは火のように燃えていた。
なにか異様な事態に陥っているのは感じられたが、足は衝き動かされたように正確に以前来た道を辿ってゆく。休みたいのにそれを許さぬ足は、シイタの考えなどお構いなしにずんずんと規則正しく前方に送り出されていた。
単調な作業をこなすのに慣れたように頭は働かなくなっていた。
ほどなくして魔女の棲家に数百歩と迫った時、ひとつの刺激がようやくシイタの脳をおとずれた。それは鼻腔を刺激する臭いだった。痛みと寒さのせいで鈍くなっていた感覚器官も、臭気だけには微かに反応したのだ。
それは心を挫く臭いだった。湿った墓場の土や、腐った血と肉と錆びた鉄の、恐怖の味を含んでいた。
シイタは振り返ってはいけないという強烈な意志に逆らって立ち止まり、まわりを見回した。だが不吉な想像とは裏腹に、しんしんと降り積もる雪景色は静謐で、動くものとてなく静まり返っている。
とはいえ、鼻腔にのこる臭いが目に映る景色を裏切っていた。その上その有香成分には恐怖だけではない、どこか自分を鼓舞する香りが混ざっていることにシイタは気がついた。
嗅ぎなれたものでもある。それはシイタ自身の血液と体液と汗の匂いだった。
シイタはぎゅっと目をつぶると、その臭いにだけ意識を集中した。そうしてもう一度、目を凝らす。
「……アカガネ!」シイタは驚き、擦れた声を出した。
地面と同化するようにして彼の足元にうずくまっていたのは、赤茶けた体毛に煙った狼煙のようなたてがみを持つ狼だった。たてがみ狼は長い足でひそやかに立ち上がり、穏やかな茶色の目をシイタに向けた。
シイタはひざまずくと、故郷シンゴウで一緒に育ったほっそりとした体躯の狼を抱きしめた。親友の懐かしいたてがみに顔をうずめると、嗅ぎなれた獣の臭いがいつものようにシイタを元気付ける。
柔らかい耳を撫でながらふと疑問が生じる。アカガネは死んだのではなかったか? やはりこうして自分の腕に抱かれて、息を引き取ったのではなかったか? だが、そんなわけはなかった。こうして抱いている狼の身体は確かなものだった。
シイタは狼の尖った貌を両手で包み込み、アカガネの瞳を覗き込んだ。
「どうしてここに来たんだ? 俺を助けに来たのか?」
アカガネは嬉しくて堪らないといったふうにシイタを無邪気に見上げ、先が白い尾をかすかに振って応えた。
「アカガネ、どうした? 貌が汚れているぞ」
シイタは自分の手で、濡れたように光る狼の鼻面をこすってやった。アカガネも手伝うように長い舌で自分の口元を舐める。狼のよだれが地面に降り積もった雪を薄紅色に染めた。
シイタはそれに気づかない。自分の手の平を見つめていたからだ。
「これは血だな……」シイタは静かに呟いた。「どうした、アカガネ? 会わない間に好物が変わったのか? お前が好きなのは生肉よりも果物だったろう?」
アカガネはシイタと意見が合わないときによくやったように視線をそらし、シイタの手からするりと逃れた。ほんの少し離れた場所に立ち止まると、何かを見つけたように前足の爪で地面を掘り返した。
と思いきや、気が変わったように振り向き、シイタを見上げた。
そうしてアカガネはまるで人間のようにニヤリと笑った。ナイフのような牙がギラリと光った。
穏やかだった茶色の瞳は様相を一変させた。瞳の血管が破れたように充血が白目を覆い、虹彩が透けてウサギのように真っ赤になった。その輝きはまるで地獄の熾火のようだ。めくれ上がった口角からは鋭い牙があらわになり、低い唸り声が漏れた。ただそれは、人間の言葉を発するための前置きだった。
「気づいてくれて嬉しいぜ、懐かしい友よ」
シイタの鼻が突然、狼の全身から強烈に漂う死臭を嗅ぎ取った。一陣の風が、頭のなかに重たく垂れ込めていた霧を吹き散らすようだった。
シイタは悟った。自分自身の匂いに混ざっていたものは、舌なめずりしながら獲物の匂いを楽しんでいたハンターの垂らす涎の臭いだったのだ。
シイタは片手の甲を自分の鼻に押し付けたが、吐き気をもたらす匂いを防ぐことはできない。「なれなれしい口を利くな! おまえはアカガネとは似ても似つかないまがいものだ!」
「にしちゃ、気づくのが遅いじゃないか?」たてがみ狼の声は地獄から漂ってくるかのごとく、シイタの腹に低く響いた。
狼はなだめるように云った。「さあさあ、そんなおっかない顔をするなよ。昔馴染みにゃ仲良くするもんだぜ」
「――アカガネの墓を暴いたのか?」
「墓を暴くだと? いやいや、そこは俺様が産まれいずる場所だっただけさ」
「……」
「俺様は地獄からの使者。仕えるは偉大なる古き神」
「やはりな。おまえからは神を名乗る墓場荒らしの匂いがぷんぷんするよ。わたしのことを殺しに来たのか?」
「おお、まさか! 俺様はお前さんの護衛だよ、道を外れないように見守ってやっているのさ」狼は嬉々として応えた。
「笑わせるな、護衛だと。途中でわたしをかみ殺そうとしたくせに!」
「お前さんの重たい足を後ろから押すのに飽きちまってね」たてがみ狼は痛いところを衝かれたとばかりに、おどけたふうに付け足した。「だが、ほんの一口かじっただけで我慢してやったんだぜ」
「へー、アカガネは食い意地が張っていたが、おまえは抑制が利いてるんだな」シイタは狼から少しでも離れようと、こっそり後ずさりしながら云った。
「味見は少々」たてがみ狼は話しにくそうだったが、洒落っ気たっぷりに唸った。血まみれの尖った顎をカチカチ鳴らしているのは笑っているせいだった。「そのほうがその後の楽しみが余計に増すというものだろ?」
あの二体の人間もどきの化け物からは感情というものが感じられなかったが、この狼もどきにはユーモアのセンスがある。おまけに、狼もどきは二体よりもずっと感じが良かった。ずっと手ごわそうでもあったが。
たてがみ狼は長い足をつかってヒラリと飛び跳ねると、シイタの前に立ちふさがった。「おお、とっとと。道を外れるのは感心しないな。お前さんの役目はとっとと魔女の棲家に俺様を案内することだ」
「――いいや、わたしはここから一歩も進まないよ。おまえこそ、役目を果たせずに足止めさ」シイタは言葉とは裏腹に穏やかに云った。
逃げるのは残念ながら諦めるしかない。シイタは不思議と安らかな気持ちで、戦いは避けられないと観念した。
昔からアカガネを撒くのは不可能に近かったし、その我慢強さも人間の比ではなかったからだ。この狼もどきがどんな化け物であろうと、アカガネとの能力の差異を確かめる気はしなかった。フールメイの居所を突き止めるのが目的なら、撒いたと見せかけて用心深く姿をくらまし、こちらが辛抱できずにフールメイの棲家に案内するのを待ち構えることだろう。さりとて、銀の森を抜け出せる健脚も今のシイタには備わっていなかった。
「さぞ、雇い主の異国の神は悔しがるだろうな。どうしておまえのような口先ばかりの役立たずを送り込んじゃったのかって」シイタはたてがみ狼の気を逸らそうと笑ってみせた。
「……小僧、いい気になって俺様を怒らせるなよ。分かってるんだ、魔女の棲家がここからさほど遠くないことは。かすかな魔女の匂いを感じるからな。貴様などいなくてもどうということはない」
たてがみ狼のその言葉を聞いて、シイタは覚悟を決めた。
「そうだった! おまえの雇い主は死体を冒涜するのが好きなただの下衆野郎だからな。鼻しか能がない下っ端のおまえも、間抜けぶりはおんなじだ!」
「お望みなら、小僧! 貴様も死体にしてやる!!」
そう叫ぶと、たてがみ狼の身体は奇妙に膨れていった。猫が毛を逆立てるのとは違って、狼の身体そのものが膨張してゆくようだった。柔らかくふさふさだった毛は剛毛となった。ほっそりとした優美な姿は見る影もなく、盛り上がった筋肉に埋もれた獣と化した。
吼え声と同時に化け物は飛び掛ってきた。
シイタは逃げると見せかけて思いっきり振り返り、その反動を使って右のこぶしを化け物の大きく開いた口の中に捻り込んだ。
がきっ!!
骨と骨がぶつかる音が鈍く響いた!
獣と人間はそのまま地面に倒れ込み、一体となって転げまわった。化け物は喉の奥に差し込まれた腕を抜こうと両足をつかってしゃにむに暴れ、シイタは腕を外されまいとその首根っこに死に物狂いでしがみ付いた。
獣は早々に腕をはずすのを諦め、腕ごと引きちぎろうともがき始めた。
長い牙だけでなくすべての歯を容赦なくシイタの腕に食い込ませ、貌を左右に激しく振ってナイフのような牙で腕を引きちぎろうとする。それでも千切れないとなると貌を横向きに寝かせ、いよいよ奥歯の強力な裂肉歯で肉を切り裂き、骨を砕こうとしはじめた。
シイタはそうはさせまいと獣の上顎を持ち上げにかかった。が、獣の顎は凶器と同じで左手の指さえも噛み千切られそうになる。
一人と一匹は寝転んだまま一緒にぐるぐると地面を回った。まるで穢れた土地の神を崇める狂った踊りのようだった。その場には舞台の小道具さながら血しぶきと雪と土煙が舞った。
しばらくすると獣からくーんくーんと哀れな泣き声が洩れ、静かになった。
シイタは全身を使ってたてがみ狼を抱いていた。
抱きしめるようにして痙攣する身体を押さえつけ、事切れるのを確認したのだ。アカガネが崖から落ちて死んだ時と同じだった。けれど今度はシイタの右手によって気管を塞がれ、狼は窒息死した。
いつの間にかアカガネはほっそりとした元のか細い体躯に戻っており、痛めつけられた身体は傷つき不自然に折れ曲がっていた。シイタは悲しくてたまらず、本物のアカガネの死と異国の神のしもべとなった偽物のアカガネの死と、どちらが悲しいのか分からないほどだった。アカガネの死体を胸に抱きしめたまま身体を上下に揺すって涙をこらえた。
血と涙と汗とよだれで汚れた血まみれのたてかみ狼の顔も元の容貌を取り戻し、穏やかになっていた。死んだ直後はピンと伸ばされた両足は、今はだらりと力なくシイタにもたれかかっていた。
シイタは感覚の無くなっている右腕をアカガネの口から引き出そうとしたが、上顎と下顎はがっちり合わさっていた。無理やり両顎をこじ開けて腕を引き抜いたときには、ぐしょぬれの引きちぎられた袖がだらりとぶら下がっているだけだった。シイタの右腕の肘から下は半分アカガネに呑み込まれ、狼の中に納まったままだった。
「おまえは義理堅いやつだよ。俺の右手を死んでも飲み込んで。これならおまえの雇い主もおまえを誇りに思うだろうさ……」シイタは震える左手でどうにかアカガネの瞼を閉じてやった。
彼は切り株のようにきざきざになった右腕の根元を胸に抱えるようにして、フールメイのうつほへと向かった。
もう何も考えられなかった。
もはや物事を考えられるほど頭に血が上がってきてはくれなかった。体力は底をつき、罠の吹雪に襲われたわけでもないのに凍りそうに寒く、視界は白く閉ざされた。
痛みは腕だけではなく身体全体に広がってしだいに腰から下の感覚が鈍くなり、足の運びは重くなった。汗なのか血なのか冷たい液体が粟だった肌を伝わりズボンを濡らした。ビーン卿やサヤの魔法によってもたらされた生命力はすでには無く、数時間前に死にかけた時の苦痛が再現されるように蘇った。