止血と造血
二人を墜落から救ってくれた緑豊かな常緑樹は立ち枯れて茶色に変色してしまっていた。
「シイタ!!」
彼は崩れるように、サヤの腕から滑り落ちていった。
「誰か、医者を! 医者を呼んでっ!!」
誰にともなく救いを求めるサヤの周りには、人々が集まりだしていた。気遣わしげな声や、近付いたり離れたりバタバタと走り回る音が響く。しかし倒れ伏したシイタを膝に抱えた彼女の耳にはまともに入らない。彼の横顔を見下ろしながら両手を傷口に当て、必死になって止血のための呪文を唱えていた。合間をぬってまぶたを痙攣させるように震わせているシイタに話しかける。
「寝ちゃだめよ、目をあけて! シイタ、聞こえる? 目をあけなさいっ」
「ああ……大丈夫、起きているよ」
サヤは力が抜けるような安堵感を味わい、思わず怒った声を出した。「あきれた人っ、こんな傷でよくあの空中ダイブを敢行したわ」
「……確かにね。きみ、少し会わない間に、太ったんじゃないか……」薄っすらと目を開き、憎まれ口を叩いた。
そばに兵士がしゃがみ込んだ。ワラガン隊長だ。「シイタ殿、おかげで誰一人、怪我人を出すことなく避難が完了しましたよ」
シイタはこくりと頷いた。
ワラガンは続いて、シイタを抱いているサラの肩にそっと触れた。「全力で医者を探しているところです」
しかし、シイタの容態は見る間に悪化していくようだった。汗を滲ませた顔は土気色に変わり、息遣いも早く苦しそうだ。刻一刻と状態は悪くなっていく。サヤの応急処置では大量の出血においつかないのだ。彼女の手の下では寮の崩壊を免れた真新しい浴衣が丸められていたが、たちまち真っ赤な血によって重く濡れそぼった。
「だめだわ、傷口を抑えるだけじゃ。血液を増量しなきゃ……。ああ、医者は? 医者はまだなの!?」
「都には戒厳令がひかれているのだ、すぐには無理だな」不意に影をおとした男が真上から口を挟んだ。
男の唐突で理不尽な言い分に、振り仰いだサヤは汗と水滴が入りそうになって目を瞬いた。訝る彼女とは違い、シイタは痛みに身を震わせながらも瞳に理解の色を浮かべて男を見上げた。
「治維卿……」
「治維卿ですって」
柳眉を逆立てるサヤをしり目に、卿は冷たく質問を投げる。「本はどうなった?」
「……取り戻すことは、出来ませんでした‥。オータン王子が……」シイタは咳き込み、口の端に血の泡を吹いた。
「喋っちゃだめよ!」サヤはシンゴウの前領主を暗殺したと噂される男を睨みつけた。「あなた、彼を殺す気? 早くお医者を連れてきて!」
「呼びには行かせたのだが。――どれ、わたしが診よう」ワラガンを退かせると、ラダーム・ビーン卿は二人のかたわらに膝をついた。サヤに止める間も与えず、彼は手早く血まみれの傷口を調べはじめた。
「ふむ、鋭い一太刀で、脇腹から背中にかけて斬られている。迷いのない良い太刀筋だ」治維卿の口調は皮肉に満ちている。
「肋骨を滑って外側にいったん出てから、肉を深くえぐられたようだな。肺に損傷がある。とはいえ、他の臓器は無事なようだ。運がいい」
「あなたが……手当てをしてくださるなんて、意外だ……」
「ふん、口を利く元気があるなら心配ないな。――わたしが暗殺する前に、そなたに死なれては面倒なのでね」彼の言い方にはシイタに対するいつもの悪辣さがにじみ出ていたが、その手つきは思いのほか優しい。
「きみの名はなんと言うのかな、彼は紹介してくれる気がないようなのだ」ムッとしているサヤに向かって、ビーン卿はまるで王室の舞踏会で初対面の挨拶をするようににこやかに訊いた。
「――リラサカのサヤ」
「サヤ姫、止血はそのぐらいにして、肺の縫合を願えないか? わたしは造血に集中したい」
サヤはこの申し出にしぶしぶ肯いた。彼女には高度な医術魔法はつかえない。シイタのためには救命処置をいちはやく施し、専門魔術医が到着するまでの時間稼ぎをするしかない。
卿の造血能力がどれほどのものかはわからないが、サヤは彼の指示通りに肺の傷口に指を向けた。彼女の使い魔たちは小さな蜘蛛の姿をして、傷ついた内臓に向かってゆく。布を縫い合わせるような心象で蜘蛛たちの腹の突起から糸を紡がせ、傷に絡ませてゆく。妖かしである蜘蛛たちは熱を放ち、破れた臓器を密着させていった。彼女のつたない止血魔法も徐々に効きめをあらわしていた。短時間に血管は収縮をおこし血漿中の血液凝固因子は活性化をおこした。損傷した血管にむかって血小板が急激に集まりだし、くっつき固まっては次々に血栓が出来てゆく。
治維卿は肋骨、胸、脊椎、骨盤と順番に手を当てながら造血魔法を呟いていた。それは医術を極めた者でないとなかなか出来ない専門性の高い技だ。それぞれの部位にある造血幹細胞を造血促進因子などの助けを借りながら急速に分裂、増殖をくり返させ、それを血球に分化してゆかねばならない。同時に癒し魔法により傷口から大量に溢れ出たシイタの血液を浄化し、あるべき彼の血管の中にふたたび戻す。
造血のためとはいえ弱っている患者自身の残り少ない体力を変換するわけにはいかないので、医術をおこなう者の力がどれだけあるか、どれだけの力を分け与えられるかで最終的に造りだされる血液の量は左右される。呪文を唱えたあとの呪術者によるエネルギーの流入が肝心で、未熟な者では自分自身の魔力を失ったり、患者と同様の症状を呈したり、血液の増量が間に合わない事態となる。
サヤは蜘蛛の使い魔たちが自らの意思で行動を開始し彼女の手を離れると、正面にいる男が何か邪な魔法を入れこまないように注意を払った。そんな邪推をよそにビーン卿はこうべをたれ、深い瞑想状態にある。彼の体からほのかな光が腕を伝わってシイタへと流れこんだ。強い西日がさし、空気はうだるように暑い。
まわりに集まってきた兵士らも、固唾を呑んでことの推移を見守っている。卿の体から、三度ひかりが駆け抜けていった。卿のまぶたはシイタと同調するように激しくふるえ、意識を失ったかに見える。今なら前領主の仇を討つのもたやすいのに、とサヤはあらぬ思いに囚われた。
だが、卿の呪文によって次第に増やされ血管に流れ込んだ血液はシイタの身体にいきわたり、頬には赤みがさしてきた。それはベテランの医者が施術をなしたかのような出来栄えだ。とかく怪しげな過去の噂が取り沙汰されるこの男は、いったいどこでこのような術を身に付けたのだろう。卿は潜りこむように密着させていた手をやっとシイタの身体からどけた。シイタの呼吸は落ち着き、サヤの指の下で彼の手首から伝わってくる脈拍も正常な打ち方に変わっていた。危機は脱したのだ。
痙攣の治まった彼の顔は穏やかさと、サヤの見知らぬ新たな決意を取り戻していた。サヤにはそれが前にもまして不吉な前触れのように感じられる。彼の肺や心臓に送り出された使い魔たちによって彼女はシイタの気持ちのほんの一部にのみ、望むと望まずに関わらず直接触れることができた。
――彼は先へ進もうとしている、それがどんなに遠くであろうと。たとえわたしたちと永久に離れることになったとしても、行ってしまおうとしている。それは痛いほど身近に迫り、真摯で真剣で一途な想いであり、誰にも止めることなんて出来やしないと悟らざるをえなかった。
シイタは目を開くとはっきりした口調で云った。
「ありがとう、生き返った気分です」
「おとなしく寝ていたまえ。これはたんなる応急処置だ」
起き上がろうとするシイタの肩を卿は無理やり押し戻した。彼にもシイタの決意が伝わっているのかもしれない。
そこへばたばたと走り寄る足音が聞こえた。謎解きトーガを乱し、貧弱で老いさらばえた身体をさらすのも気にならぬ様子のシュバイクだった。彼は杖を放り出し、シイタの傍らにひざまずいた。
「おお、無事か!? 無事じゃったか!」
「博士……」
「うんうん。よしよし。ようやった、ようやった」シュバイクはシイタの手の甲を撫ぜながら云った。
「……まったく歯が立ちませんでした。完敗です」
「ほーれ、言うた通りじゃないか。じゃが、うまく失敗したのだよ。こうして生き延びたのだからな。よって成功とも言える」
「生き延びたのは、彼らのおかげです」
「ああ、そうじゃな」
シュバイクは顔を上げ、今度は目の前の二人に話しかける。「二人共、ようやってくれたな。サヤ、こんな騒動に巻き込んでしまって済まなんだ。ラダームも間に合ってくれると思うとったよ。感謝しとる」
「ふん。あなたの愛弟子を見殺しにでもしようものなら、一生、恨まれそうですからな」
「わしの愛弟子はみな優秀者揃いだからの。おぬしも人様のお役に立てる術を学んでおいて損はなかったろう」
「まるでわたしの医術の能力が、あなたのおかげのような言い草ですな」
「実際、そうではないか!」老博士は謝意を伝えていたのも忘れたように声を張り上げた。「チンピラだったおぬしの才能を見出し、魔術医への道を後押ししたのは誰あろうわしではないか! じゃのに、おぬしときたら――」
上半身を起こそうとするシイタを見咎めて、サヤが声を掛けた。「シイタ! まだ起きては駄目よ」
「いつまでもお二人の懐旧談を聞いていたいところですが――、わたしは行かねばなりません」シイタは止めようとするビーン卿に逆らって身体を起こし、呼吸を整えるようにいったん口をつぐんでから続けた。
「今度はわたしが助け手となる番なのです。オータン王子に化けていたものの正体は異国の古神でした。一刻も早くフールメイ殿にお報せしなければ……。彼は彼女を殺すつもりです」
シュバイクとビーンは顔を見合わせ、無言で言葉を交わした。シュバイクはじきに疲れたように目を落とし、ビーン卿は口を固く結んでから云った。「――魔族同士の戦いなどほうっておくのだ。所詮、手を出せるものではないし、人間には関係ないことだ」
「関係ない……、そんなことはありえません」反論するシイタの口はかさかさに渇いて弱々しかったが、あきらめとは無縁のきびしいものだった。「フールメイ殿は我々の魔女です。その国の守り神である魔法使いと人間とは昔から一蓮托生なのですから。……加えて、わたしにはフールメイ殿をお助けする義理があります」
「シイタ、今度こそ死に逝くようなものじゃぞ。それにこういった傷を甘く見てはいかん。ビーンのやっつけ仕事など過信せず、専門魔術医にきちんと見てもらわねば」
「それでは遅すぎます。フールメイ殿の窮状を心の奥底が感じるのです。――サヤ、済まない。わたしは彼女のもとに往かなくては」シイタは彼を支える従姉妹の腕に手をかけて座り直すと、シュバイク博士とビーン卿の顔を交互に見た。「彼女を味方が一人もないと思わせたまま、孤独に死なせるわけにはいきません」
「やれやれ、せっかく助けたというのに無駄骨にならんといいが。――きみは、父親に似て強情だな」
シイタは卿の言葉にゆっくりと頷き、四人の後ろで静かに草を食んでいた生き物に声をかけた。「レディ、乗せてくれますね?」
カルカルーリはシイタの心の呼びかけに応えて、いつのまにか彼らの近くに舞い降りていたのだ。「あなたの望むところへなら、何処なりと」
そこへ一陣の風が吹き、優しく応える翼竜のだみ声のかなたで、異国の神の哄笑がどこからともなく聞こえてきたかに思われた。