小枝の笛
シイタは二回ほど間違ったドアを開けてから、やっとお目当ての部屋を見つけ出した。続いて中に入ろうとしたサヤは、驚いて敷居の上で立ち止まった。足の踏み場もないほど物が散乱していたのだ。そこは以前シイタが住んでいたのとおなじ造りの標準的な学生部屋で、最上階の王子のところに比べるとかなり質素で狭苦しい。二人分のベッドと本棚を造り付けた勉強机が、無秩序に積み上げられた本やわけの分からない品物に埋もれて両側の壁際に並んでいた。
シイタは部屋に散らかっているガラクタの山をかき分けながら、云った。「サヤも会ったことあるはずだよ、ここはゴマ・ナレツキの部屋なんだ」
「ああ、あの発明家の。彼一人? 二人部屋のようだけど」
「想像つくだろ? ガラクタの収集という悪癖のせいで、誰も同室になりたがらない」彼はいまだ入り口付近でぐずぐずしているサヤに目をやった。「ゴマの奴に遠慮する必要なんかはないよ。どれでもいいから適当に、動かせるものを作動させてくれ」
サヤは爪先で床下に散らばった衣類などを除けながら、見込みのありそうな物体に向かって進んだ。「これがあなたの作戦なの? こんなんで神の使い魔を誤魔化せる?」
「どうかな……奴らがどんな識別能力をプログラムされているか、知るすべはないし」
サヤはシイタの言葉に鋭い突っ込みをひとつふたつ入れてから、腕まくりしてガラクタの山に挑んでいった。二人はその後、黙々と作業にいそしんだ。
サヤがはじめに動かした人型のカラクリは、甲高い金属音を意味不明に発しながら床に落ちているものに転ぶことなくあてどなく歩いている。いま取り掛かっているものは昆虫を模した造形が見事で、鋼色の胴体に尖った触角や光によって微妙に変化する虹色の複眼がついていた。サヤは継ぎ目に指を当て、腹部の蓋を外すのに成功した。
だが、奇妙な衝撃によって危うく昆虫型ロボットを取り落としそうになる。「シイタ、なにかが近付いてくるわ!」
「――そうだね。奴らの存在に反応して、こいつが振動しはじめた」シイタは腰にさしていた長剣の柄にそっと触れた。「一体か二体か判るかい?」
サヤは目を瞑ると額に手をあてて神経を集中した。常に彼女はサヤという名前の由来である沙のように細かな綾の目状の網を緻密に織り上げ、自分の周囲に張り巡らすイメージを描いている。
二人の故郷のシンゴウ国では、子供の名付け親には予言者がなるのが一般的だ。その子の秘められた個性や親が伸ばしてあげたいと思う能力が、名に直接込められるのだ。さまざまな意味が含まれた彼女の名のなかでも織物をつくったり舞を舞ったりすることで強化された能力は、呪文の必要のない魔法として彼女の身に染み付いていた。蜘蛛が張り巡らした糸に触れた獲物を離れたところからでも感知するように、どんなに巧妙に隠した魔術でも彼女は綾の網に触れたものを見極めることが出来た。
「わたしに判別できるのは一ヶ所からくるものだけだわ」
「そうか。一体は消滅したんだとはっきりすれば気が楽なんだが……」
二人の努力によってその頃には、小さな部屋は多種多様なカラクリが発する騒音によって満たされていた。シイタはクローゼットの格子扉を開け閉めして中を覗きこんだが、結局浴室に決めたらしく、サヤを手招きした。彼女は動かし方のわからなかった真ん丸い物体を放り出し、従兄弟のそばに行った。
「これを」シイタはドアの奥にサヤを押しやると、その手に何かを握らせた。
「? 小枝の笛? あなたのお守りじゃない」
「神の使徒も、創世術で現れた植物を切り刻むことは出来ないらしい。いざとなったらこれで身を守ってくれ」
「――ひとの話を聞いてないわね。隠れるべきはシイタのほうよ」
「そっちこそ話を聞いてないなっ」シイタは押し殺した声で口早に云った。「作戦があるって言ったじゃないか、少しは自分の領主を信頼してくれよ。昔からサヤのほうが笛の演奏が上手だっただろ? やってもらいたい事があるんだ」
コンパクトにまとまったトイレ兼用の浴室は、寝室同様に見慣れぬものがところ構わず置いてあって浴槽は物置と化していた。サヤはこんな時でもその不潔さが気になって仕方ない。文句を呟きつつ便座の上に座り、風呂敷包みの荷物は背中にしっかりと結わえた。彼女は笛を親指と人差し指で挟むと、その上で素早く一回転させる。
しばらくすると、ひゅるりんと蔦が遠慮がちに排水溝から現れた。イバラに変化する素となる植物の種はこの一帯では文字通り種が尽きているらしく、蔦はかなり遠くから伸びてきたようだ。それは先程の小競り合いなるものがどれほど笛と大地を酷使するものだったかを物語っている。蔦はサヤに挨拶するように身をくねらせながら伸びあがり、換気穴を通って隣室へと消えていった。
この笛を吹くのは本当に久しぶりだ。彼女は歌口に唇を当て、息を吹き込んだ。指先に小さな穴が吸い付くように馴染み、音律を調える。幼い頃の記憶が蘇り、人間の可聴域外の楽曲が身体中に行き渡った。感覚が研ぎ澄まされる。だがすぐに自分の笛の音に奇妙な雑音が混じりはじめたのを感じた。不協和音は次第に大きくなり、着実に近付いてくる。体内に毒素が混入されたかのような不快感だ。
隣室のシイタからも緊張が伝わってくる。彼はサヤの操る蔦を手足に絡みつかせて、天井に身を潜めているはずだ。彼には少しでも勝算があるのかしら? 自分を取り巻くしがらみに手っ取り早い解決をつけようと、昔のような無茶をする気じゃないのかと、にわかに不安が沸き起こる。
いけない!
蔦の動きに鈍りが伝わってしまった。サヤは演奏に意識を戻した。彼の早鐘のような鼓動にあわせ、蔦が自在に動き回れるように神経を集中しなければならない。不協和音は我慢がならないほどに高まっていた。
しかし、事は一瞬で決着した。演奏を邪魔する音色が唐突に止み、静寂が訪れる。
サヤは浴室を飛び出した。
「シイタ!!」
そこには荒い息をした従兄弟と、光の剣に貫かれて床に転がった使徒の死体があった。あたり一面に美しい銀の羽が散らばっていた。
「……片羽をもぎ取られた蝶のように、バランスが悪かったんだろう。天井に張り付いていたこちらに気付かれてヒヤリとしたが、うまくいった。サヤの誘導もよかった……。助かったよ」
サヤは動かぬ死体を見下ろした。能面のような死体の顔は、動き回る人形たちに囲まれて、壊れた人形のような奇妙な清らかさがあった。
「こんなに綺麗なのに……、なんて不快で哀れな生き物だったのかしら。信じられない、生き物は皆、美しい音色を奏でるものなのに」
「――生き物ともいえるかどうか」
「そういえば……旅の吟遊詩人から聞いたことがあるわ。どこかの神は、羽を持った使徒によって人間を支配していると」
「こんな狭い部屋じゃ、翼も邪魔なだけさ」
シイタは青い顔をしたまま左手で右腕をゆっくり擦りながら、エテンの顔を眺めていた。「どう? もう一体の居所がわかるかい」
「いいえ、わたしの感知力はたかが知れているし。半径五十メートル以内には魔力を感じない」サヤはゆっくりとシイタに近付き、小枝の笛を持ち主の手の上にそっと乗せた。
さっきの墜落でルックンは消滅したのか。シイタが力を抜きかけた途端、マーナーハーン寮がぐらりと揺れた。
「な……に?」
上下左右に揺すぶられる細かな振動とともに、地震ではありえないような不気味な動きで床が傾いてゆく。鐘楼の鐘は建物の動きにつれてやかましく鳴り響いていたが、片側への傾きが顕著になると鈍い音を発したのを最後に静まり返った。傾き具合は急激に加速し、建物自体が崩壊する兆候を示している。廊下に出る扉はドア枠がひしゃげ、潰れた。立つことも出来ない二人は、崩れる部屋の一方の壁際にガラクタごと追いやられた。
「ルックンのやつ、建物ごとつぶす気だ」シイタは従姉妹に向かって手を伸ばした。
「サーヤ、摑まれ!」
「どうするの?」
「窓から出る!!」
シイタはサヤの腰をつかみ、有無を言わさず飛び出した。
落下しながらも青空をあおぎ、笛を尖塔の屋根にむかって振った。だがイバラの現れるのは遅く、間に合わないかと思われた刹那、ようやく塔屋の先端から伸びてきた一本が辛くも二人に絡みついた。ところが、サヤを抱えて空中を泳ぐシイタを蔦は支えきれない。蔦の絡んでいる建物そのものが、こちらに向かって倒れ始めていたからだ。
息を呑んだサヤは、しがみ付いた両手にぬらりとする感触を覚えた。彼女は自分の掌がべったりと血に染まっているのを知った。
「シイタ、あなた怪我を!!」
「言うな!」彼は食いしばった歯の隙間から言葉を洩らし、遠くの木立から蔦を呼び寄せるべく小枝の笛を振る。建物のそばに他に支えになるようなものはない。
二人の身体は両側からの蔦によって一時的に落下を免れたが、再びぐらつき始めるのに長くはかからなかった。シイタは建物に繋いだほうを放し、新たに大きな楠木から伸ばされた蔦に向かって「縮まれ!」と叫んだ。
が、落下速度に収縮が追いつかない。
瓦礫が降りかかった噴水からは細かな飛沫が散じ、二人をびしょぬれにする。シイタはサヤを胸の前に抱えなおすと地面に自ら向かった。
「くっ!」地表に飛び降りた衝撃で、シイタの口から小さな呻きが洩れる。サヤの手に新たな血が噴き出したのが感じられた。
シイタは衝撃を反動に変え、もう一度宙に舞い上がった。立ち木から伸びた幾本もの蔦が二人を一気に移動させる。彼らの背後から建物が崩壊する不気味な音が雪崩のように押し寄せてきた。
転がるようにして立派な楠木のそばの芝生に無事着いたサヤは、自分たちがさっきまでいた場所が砂の城のように脆くも崩れ去ったのを目撃した。
もうもうたる土埃が立ち昇る。安心したのも束の間、彼女は崩壊した建物の残骸から拡散してくる異様な気配を感じ取った。汚れた入道雲のように巻きあがった埃は四方に広がらず、瓦礫の山のふもとで一塊になると蛸の触手のようにこちらに向かって伸びてきたのだ。
「シイタ……埃が向かってくる」彼女は呟いた。
それはちらちらと微かに明滅しながら、目的を持つもののようにまっすぐこちらに迫ってくる。
シイタは苦しげに背後の様子を確かめ、「走れ……、門の外まで出てしまえば追いつけない」と囁き返した。
サヤは遅ればせながら、彼がしゃがみこんだまま起きあがれずにいるのに気が付いた。「シイタ、早く立って! ここから逃げるのよ!」腕を取り、引き上げようとしたサヤは怪我の様子が目に入り、自身も血の気が引くようなショックを味わった。これほどひどい負傷だとは思わなかったのだ。背中からわき腹にかけての肉を深くえぐられ、内臓まで損傷しているのは確実だろう。
シイタは物憂げに首を振った。「だめだ、立ちあがれない‥少し休んだら……」
「休む暇なんてないわ!」サヤは思わず金切り声を上げそうになり、唇を噛むと心の中で自分自身にきつい叱責を浴びせた。こんなところで泣き叫んだりしたら、わたしも二度と立ちあがれなくなる。
代わりに彼女は従兄弟の顔を真正面から覗き込んだ。「リラサカのシイタ! この意気地なし! わたしを失望させないでちょうだい! さあ、立って走るのよ!!」
シイタは苦笑するように顔を歪めたが、それでもサヤの肩に腕をまわした。彼女は彼の身体を引きずるようにして立ちあがった。酔っ払いの二人組のごとく、よろめき躓きながら歩く。燃えるような危機感がのしかかっていた。シイタの苦しげな荒い息が、サヤの耳をあぶる。呼吸する空気まで熱く、重苦しく、閉塞感が喉を締め付ける。数十歩の道のりが永遠ともいえる長さに相当するように感じられた。
「サヤ……やはり、俺を置いていけ」シイタは頼みこむ口調で云った。「足手まといになりたくない……」
「なにを言うの」彼女は声を喘がせた。
「おしゃべりするくらいなら、足を運んで!」そうしていっそうきつくシイタの手首を握り、重い身体を小脇へしっかりとかいこんだ。
彼女はシイタの肩越しに後ろを振り返り、壁のようにのしかかって来る埃に向かって最後の砦ともいえる綾の網をありったけの力で投げつけた。だが渾身の防御も、全ての埃を抑えるような威力はない。
失望と断念が襲ってきた直後、二人は冷たい水に包まれた。それは心地よい錯覚だった。大学の周りに張り巡られた結界の中に、ついに逃れたのだ。振り向いた二人の目に埃を支配していた魔力が結界に触れ、ぐじゅぐじゅに溶解しながら黒いタールとなって地面に滴っていくのが映った。ただの土埃にもどった微細な粒は風に流され四散した。