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マーナーハーン寮と王子

 広大な大学の敷地に幾つかある案内板の前で、大学構内のことなど何ひとつ知らない西二条大門の警邏隊員たちは、マーナーハーン学生寮の形状や周囲の建物の配置などを頭に叩き込むよう命令されていた。その学生寮は裏門から東寄りの一画にあり、噴水庭園をまえに時代遅れなドレスで着飾った貴婦人のような姿で建っている。


 シイタは誰も寮には近づかないよう、隊長に強く念を押した。大学関係者のみならず、警邏隊員たちが避難命令を知らせて廻るさいに誤って王子たちのいる寮に入り込んでほしくはなかった。


 ワラガン隊長は近くの鐘突き塔で警鐘を打ち鳴らす隊員を見上げながら、こうした管轄外の避難誘導も思わぬ事態が想定した日頃の訓練がものをいいます、とシイタの不安を打ち消すように云った。衛士たちは運悪くシイタの通り道にいたためにこの件に関わってしまったのだ。彼らは事件の経緯さえ正式には知らされていない。ただ、これまでに交わされた会話の断片から何か差し迫った問題が起きているのは承知している。


 それにも関わらずワラガンは詳細をシイタから強いて訊きだそうとはせず、大まかな地図をもとに隊員たちに指示を与えていた。よしんばワラガン隊長が内心は不安を抱いていたとしても、落ち着いた態度からは職業人としての自信が感じられ、隊員たちも仕事をはじめる前の緊張感はあるもののきびきびと従っている。


 シイタは手を振るヤイバに別れを告げ、ひとり歩き出した。


 金持ちや貴族の子弟が寄宿している古めかしくも美しいマーナーハーン寮の入り口には十段にも満たない石階段がついていて、シイタは足早にそこを登っていった。

 

 夏休みに入った寮は普段より閑散として、遠くから若者たちの喚声がランセットアーチが組み合わさったホールに時おり響いてくる。ここはシイタも二年ほど住んでいた学生寮だ。大学の敷地が拡張される前までは遊郭のあった場所なので、移転されずに残された寮ももとは有名な高級娼館だった。そこにはさまざまな逸話が残されており、各部屋のドア上の欄間に彫られた意味深な模様や、欄干の鉄柱の妙になまめかしい女性像にその名残をとどめている。彼女は長年学生たちに叩かれたり撫でられたりしたおかげで少々扁平になっていた。


 建物は吹き抜けホールのある中央棟をさかいにして、左右非対称に二つの棟がつらなっている。まずシイタは常時学生たちがたむろしている食堂や談話室から調べはじめ、続いて右棟の個室にうつり、増築を繰り返して入り組んだ構造になっている寮の部屋をしらみつぶしに見て廻った。オータン王子の部屋があるのは鐘楼がそびえる左棟のほうだ。シイタは夏休みに居残って好き勝手に過ごしている学生たちに急いで避難するよう指示を与えた。


 そこには顔見知りの者も多く、理由を詳しく問う者や協力を申し出る者もいたが、オータン王子や彼らの部屋の様子を聞くことはしてもシイタが単独行動を崩すことはなかった。学生たちを信用してないからというより、不安が強く得体の知れない王子には自分ひとりで対面すべきだと感じていた。


 ついに左棟の最上階まで辿り着いたシイタは、王子の続き部屋の前で立ち止まった。


 先に覗いたルックンとエテンの部屋はもぬけの殻で、残すはこの扉の向こうだけなのだ。そこは絶世の美女だったというネイランド男爵の愛妾が戦死した彼のあとを追って飛び降り自殺した塔屋として知られており、美しい外観はしばしば絵画のモチーフにもつかわれる。ところがここにきて扉を開ける勇気が出ない。ノブに触れるのさえ気後れを感じ、しばらくドア前に佇んでいた。


 そこへ室内から、静かな建物を揺さぶる低く重い音が響き渡った。目の前の部屋で何か巨大なものが倒れたような振動だ。それは躊躇っていたシイタにふん切りをつけた。


 勢いづいて飛び込んだ彼の目に、何事もなかったように勉強机に向かっているオータン王子の姿が映った。普段であればそれは当たり前な光景である。王子は不思議そうに振り返り、自分の個室にいきなり侵入してきた先輩に声をかけた。


「やあ、シイタ殿。どういう風の吹きまわしなの? きみがこの部屋を訪ねてくるなんて珍しいけれど」


 黒の穴蔵国という名は国造りの神がその昔、真っ暗な洞穴から抜け出してきたという創世神話に由来する。その国名からは程遠い白い雪景色の似合う北の大国出身である王子は、金色の巻き毛にまぶしい笑顔をたたえた。そのような歓迎の笑みが王子の滑らかな顔に浮かぶのをシイタはついぞ見たことがない。いつもの王子は礼儀正しくともそれは冷ややかな上流の儀礼というもので、自分は育ちがいいから露骨に無礼な態度はとらないのだ、とこちらにはっきり匂わせていた。


 頭脳明晰なオータン王子は年上の学友二人を供に、飛び級でテナ・マダカ大学に留学してきた。シイタの二学年下で今年十五歳の王子はその愛らしい容姿と魔法への造詣の深さにより、当初から注目される存在だった。


 彼は入学してから数日経ったある日、大学構内の食堂で大勢の取り巻きを後方に残したまま、友人になろうと唐突にシイタに声を掛けてきたのだ。その率直な誘いに異存はないものの、王子は自分のグループにいれる者とそうでない者とを明確に分け、仲間内だけで固まった。彼ら以外の人物は嘲笑の対象となるか、無関心にあしらわれるかのどちらかだった。結局グループに加わることのなかったシイタも、次第に嫌厭され無視されるようになった。シイタに向かって皮肉を交えず微笑むなどその時以来のことである。


「……あなたはオータン王子ではない。いったい何者です?」


「そういうきみは何者なんだい? シンゴウの若領主、アカシヤの都王の後継者候補。次期皇帝になる野望はないのかな? おめおめと治維卿の権謀術数にかかって使いっぱのうえ、殺されにくるなんて」王子は親しげと言えなくもない微笑を浮かべたまま、口調を微かに変化させた。「そなたの父も嘆いておろうな、息子は仇を討つ気概もない」


「――父の死因は病死です」


 シンゴウの前領主は、民衆からの人気やその手腕を妬んだ都王やその側近によって毒殺されたのだと噂される人物である。その真相は数年経った現在も藪の中だ。シイタは王子の姿をした男が、こんな姑息な手段で自分を惑わせようとしているのかと訝った。くだらぬ相手だと、にわかに怒りが湧いてくる。


「盗み出した〝古井戸の書〟を、どこへやったのです?」

「それならここにある。なかなか興味深い書物だよ」王子は机の上に広げたままだった本をパタンと閉じた。その仕草は学生寮にしては豪華な部屋の調度品にふさわしく、優雅なものだった。「怖い顔をしないでほしいな。きみはこの本になにが書かれているか、知っているかい? ――ああ、魔女に教えてもらったんだね」


 彼はシイタを氷のように薄い水色の瞳で見詰めていたが、何かに気付いたようにあたりに目を漂わせ、金色の巻き毛のなかに細い指をすべらせた。紋章の刻まれた指輪が窓からの日差しを受けてきらりと光った。彼は小生意気なかたちに上を向いた鼻で空気をクンと嗅いだ。


「ほう、結界代わりに空間を丸めて固めたのか。そんな術で果たしてこのブラック・ホールに効き目があるのかな?」古井戸の書の皮表紙を、王子は手入れの行き届いた爪でとんとんと軽く叩いた。ここにくる前に博士に授かった呪術を発動させたのだが、王子はその内容をはやくも見抜いている。


「安心したまえ」彼はシイタの動揺をよそに嫣然と微笑んだ。本来の王子のときよりも、からかうような気軽な物腰である。「僕は古井戸の書を使う気などさらさらないんだ。むしろ君たちを助けたいと思っている」

「あなたはいったい……」

「――僕はここより遥かに遠く、平和で美しい国を治める古い古い神さ。僕の目的は〝古井戸の書〟を人間から取り上げ、魔女を殺すこと」


 王子の不吉な言葉に、シイタの心臓には鈍い痛みが走った。手足がすっと重たくなる。「……なぜフールメイ殿を殺そうとするのです?」

「あれは危険な女だよ、人間を滅ぼしかねない。そう思うだろ? こんな危ないものを人間どもに管理させて」

「彼女には彼女なりの考えがあるのです。だいいちあなたは異国の神。あなたの国が美しく素晴らしいのなら、さっさと帰ればいいでしょう。他人の国の事情に首を突っ込んで、余計なお世話と言うものです」


「――そう邪険にせずともよいのじゃないかな、シイタ殿。僕は恒久的な人類の平和を願っているのだよ」姿は若々しい少年のものだが、その言い方には長い年月を経た神々特有の重みと狡猾さがあった。「この世界はきみが思うより広いようで狭いのだ。大昔に定められた棲み分けなど無意味なこと。一つの国の大きな過ちは他の国にも波及し、全てを滅ぼしかねない」


「だからといって……」シイタの声は囁くように低くなった。「わたし達のフールメイをおめおめと異国の神などに殺させはしない!」


 王子は目を細めてシイタを見詰めた。「――どうしようというのだい?」

「あなたがその気なら、わたしも全力で阻止するのみです」

「そうくるか、なかなか面白い。きみも少なからず神の血を引く者、魔女殺しの前のウォーミングアップぐらいにはなるかな」


 ローズウッドの書き物机のそばで上品に小首を傾けて佇む美少年は、王子が澄ましているときと同様にか弱くはかなげに見える。うっすらと微笑む唇はぞくりとするほど魅惑的だ。実際、エテン・ヘロンなどはただの学友家臣というには度が過ぎるほど王子にぞっこんで、どんな理不尽な要求にも言うなりだった。こんな時にいったい彼らはどこにいるのだ?


 シイタは腰の短刀を引き抜く代わりに内懐に手を入れた。彼が取り出したのは抜き身の刀などではなく、いまにも折れそうな粗末な棒切れだった。それを見て、王子は麗しい口もとを上品に押さえて意地悪く笑った。


「なんだいそれは? 竹光にも劣る代物じゃないか。そんなもので僕と戦おうというの」

「戦う、とは言っていません。阻止すると言ったのです」


 シイタは手にした棒を下から真上へと一気に振った。

「!?」

 ゴフッ!



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