銀の魔女
天空に、月が二つ掛かっていた時代の話である。
深き森に何千年とそそり立つ大木があった。そのうつほに銀の魔女と黒猫が住んでいた。洞は代々、母方の血筋のものに受け継がれてきたものだ。彼女の前はその母親が、そのまた前もその母親がここの主であった。
魔女は近頃めっきり出無精になり、昼間は黒猫とともにまどろみ夜になるとたくさんの蔵書のなかから気に入った魔法を紡ぎだしては日々を過ごしていた。
黒猫の好きなミルクや魚、魔女の好物のバターなどは毎週、近隣の村人たちが森の入り口に置いてくれるので困ることはなかった。それは昔からの人間たちとの取り決めで、今の代の魔女にしてもその有利な契約をおおいに利用するに如くはなかった。
農民たちはしばしば病気にかかったロバや、乳の出の悪い雌牛などを森の入り口に繋いでおいた。また、片思いに悩む若者なども恋の媚薬を求めて訪れた。魔女は気紛だったので奇蹟はときどき空振りすることもあったが、村人たちはあまり気にしなかった。それよりも春や秋の森の収穫を分けて貰えることのほうが大事だったのだ。
麗らかな初夏の夕暮れ時、魔女はいつものように黒猫の横でとろとろと昔日の思い出に浸っていた。すると戸口からホトホト音がする。けがをした森の生き物でもきたのかと扉を開け、驚いた。
そこには男が立っていた。この洞には絶えて訪れる人間はいなかったのだ。男を獣の化身かと見つめていると、彼は人間の言葉を発した。
「こちらに銀の魔女のフールメイ殿はいらっしゃいますか?」
「いったいなんの御用?」訝しげに魔女は尋ねる。
男は返事の代わりに耳が痺れるほどのくしゃみをした。「し、失礼いたしました。外は吹雪で凍えそうなのです」
その言葉どおり男は歯の根があわずカタカタと震えていた。だが魔女は見知らぬ者への同情心などかけらも持ち合わせていない。苛立たしそうに裸足の踵を床に打ち付け、質問を繰り返した。
「だから何の用なの?」
「わたしはリラサカのシイタと申します。あなたはフールメイ殿のお孫さんですか?」
「孫ですって? わたくしには子供だっていないわ」
「まさかあなたがフールメイ殿ご自身ですか!? 驚いた……あなたは想像していたよりずっとお若い。それに……とても綺麗だ」男は若者らしい素直さで叫んだ。
しかし魔女は顔に張りつくような雪片に気分を害し、イライラしながら虫を追い散らすように男の言葉を払いのけた。彼女は何百年と生きながら忍耐力を身につけることがなかったのだ。
「そんなくだらないことを言いに来たのだったら、さっさとお帰りなさい」無情にも男の鼻先で扉を閉めようとする。
「まっ、待ってください! あなたに会うためにアカシヤの都から来たのです」男はかじかんだ手で必死に扉を押さえこんだ。
「せめて話を聞いていただけませんか! このまま追い返されては凍え死んでしまいます」
外は猛吹雪らしく、気持ちのよい夏の夕暮れだった家のなかに冷たい風を吹き込んでいた。
「おまえが凍え死のうがわたくしになんの関わりがあるの。それより猫が風邪をひいてしまうわ。さあ、その手をお放しっ。でなければ凍死するより先に霜柱に変えてしまうわよ!」
男は一瞬沈黙したがすぐに言葉を続けた。「あなたは氷の女王のようにお美しいがそのお心も氷のように冷たいようだ。ですが、七つの罠を破った人間をそうやすやすと見逃して構わぬのですか?」
「ふん、わたくしに脅しをかけるとはいい度胸ね」
「三国一の魔女に脅しをかけるなどとんでもないっ」
だがこのまま押問答をつづけていても男は諦めそうもない。魔女は仕方なく腕の力をゆるめた。
「ありがとう……助かります」安堵の吐息をもらし、男は足を踏み入れた。
魔女は男の動きを注意深くうかがった。彼は震えながら進み、部屋の半ばまでくると戸惑ったように立ち止まった。そこは木のうつほとは思えないほど広く清々しい空間である。
扉を閉めると初夏の快適な室温に戻ったが、青白い顔をした男の体は芯から冷え込んでいるようで両腕で身体を抱えたまま小刻みに震え、魔女が大事にしている敷物(以前は空を飛んだこともある)のそばにたちまち大きな水溜まりをつくった。とはいえ、一旦は家に迎え入れてしまったのだから叩き出すわけにもいかない。
魔女は吹雪のひとかけらが男と一緒に迷いこんでいるのを知るとそれを手元に引き寄せた。
彼女の掌で雪混じりの小さな渦巻きはまるで生き物のように軽やかに躍った。それは見る間に燃え上がり白い炎に変化する。炎は燃える花びらから雨上りの朝、草の葉より落ちる最初のひと雫のようにまた岩場に砕ける荒々しい波飛沫へと次々に姿を変え、魔女はそれを炉床に投げ入れた。途端に暗く翳っていた暖炉から大きな炎が燃え上がる。魅せられていたように魔女の魔法に息を詰めていた男から小さな叫びが漏れた。
「火に暖まりなさい」彼女は冷ややかな声で命じた。
黒猫のペシャは寝そべっていたソファから飛び降り魔女の足元にやってきた。彼は黄金の瞳に鋭い非難の色を浮かべ彼女を見上げた。漆黒の毛並みをわずかに逆立て、侵入者など許さず男を殺すべきだったと全身で訴えている。
フールメイは言い訳めいて聞こえないように分別顔で応えた。『仕方がないわ。辛うじてとはいえ、彼は七つの罠をくぐり抜けてここに辿り着いたのだもの……少し問いたださねば』
ペシャは胡散臭げに尻尾をふりながら見知らぬ男に近付いてゆく。
男はフードを頭から外し、濡れたマントを乾かすために暖炉の前に広げた。火灯りに照らされたその若々しい顔に徐々に血色がまじりはじめると、青くささくれだった肌が黄褐色をしていることが分かってくる。黒髪は後頭部で束ね結わえられており、炎を見つめる瞳がアーモンド型をしていることから彼が三国のなかでも東方の国シンゴウの出身者であることが知れた。
ペシャは男を半円に廻りこみ大理石でできた暖炉の棚にひらりと飛び乗った。炎は彼のビロードの毛並みに陰影をつけ、まるで星空を映した川面のようにきらめいた。若者は賛嘆の思いをこめて美しい獣を見上げたが、こちらを見返す金の瞳に畏敬の念を抱き瞼を伏せた。
その礼儀正しさも、気持ちのよい眠りを突然の冷気によって乱された猫の怒りを鎮めるまでには到らなかった。彼は蛇の発するような威嚇の息を吐き出すとしなやかな身体を弓なりに反らせ、今にも飛び掛かろうという体勢をとった。その姿は猫というより獲物を狙う小型の豹だ。
若者の手が思わず腰のものへと伸びる。
『ペシャ、おやめ』それを見て、フールメイは心のなかで相棒をたしなめた。
猫は尚も低いうなり声を響かせ、鋭い牙をのぞかせる。
『ダメッ、まだ手をだしては駄目よ!』
『――こいつ、引き裂いてやりたいぜ』小さな殺戮者はきしるような呟きを漏らしたが、魔女に逆らうつもりはないらしく大理石のうえに腰を落ち着け輝く瞳をひたと若者の額に当てた。
『こいつを殺したら、この褐色の目玉をぼくにおくれ』
『そんなものをどうするつもり?』
『ひとつはカラスにでもついばませてくれるさ。だけどもうひとつは瑠璃の壷に押し込めて死んでもこの世を眺め続けなければならぬようにしてやる』彼はさも急に思いついたというようにピンクの舌で逆立ったままの背中の毛を舐めた。
フールメイは思わず笑みが口の端にこぼれそうになった。どうして猫という生き物はまったく冗談を解さないくせに、自身は可笑しみに溢れているのだろう。彼女はもっともらしく言った。
『あまりいい趣味じゃないわよ』
『死体は三本の白い椿の下に埋めるんだ。きっと冬には麗しくも真紅の蕾をつけ、大輪が咲くだろう』
それは図らずも心動かされる情景だ。この美しい人間を栄養にしたらさぞかし見事な花が咲くだろう。村人たち相手にそのような真似をすれば、彼らは恐れを抱きいつかは手に手に松明をもって押し寄せ、森を焼き討ちにあわせかねない。だが迷いこんだ余所者の一人や二人が森のなかで行方不明になったとて、村人たちがいっこう構わないのを彼女は知っていた。
若者は危険な兆候に気付いた小動物のように極度に緊張した面持ちで魔女に視線を戻した。
額から溶けた氷が伝い落ちる。
『……とにかく今は駄目。もう少し待ってちょうだい』
魔女と若者はいっとき探るようにお互いを見つめあった。視線を先にはずしたのは魔女のほうだった。
彼女はクッションを叩いて整えるとお気に入りの椅子に身を沈めた。暖炉の炎を背にして立っている男の身体からわずかずつ力が抜けてゆく。腰の小刀にのばしていた手は脇に下ろされた。魔女はあらためて暗く翳った男の顔に視線を這わせ、静かに質問をぶつけた。
「なぜおまえはここまで来たの? わざわざ訪ねてこなくても村人に聞けば森の入り口にことづてを残す方法を教えてくれたでしょうに」
「それは……」緊張を解かれたばかりの凍えた口は、思うように動かない。
フールメイは諦めたようにもう一度立ち上がった。「なにか飲む?」
「ええ……お願いします」
魔女が別室に消えると、若者の身体から少しばかり緊張がとけたようだった。彼は広々としたうつほの中を見渡した。壁は生きた樹木そのもので、大きく波打った天井も大地から張りだした根であることが窺えた。それにしてもいくら大木とはいえ、このような広い空間を造りだし固定するには特殊な次元魔法が使われているのだろう。
テーブルと肘掛椅子が置かれた窓辺には斜めにはまったステンドグラスから琥珀と金色のひかりが射し込んでいる。一方の壁際には、古びた装丁の書物や見慣れぬ器具などが乱雑に積まれた本棚があった。
見たところ暖炉に面して置いてある椅子は、先ほど彼女が腰掛けた揺り椅子のみだ。若者は、暖炉のうえのまるで黒い彫像のように動かない猫を刺激しないように、ゆっくりと床のうえに胡座をかいた。やはり後ろから炎の熱とともに黒猫の殺気が感じられ、振り向かずにいるには意志の力が必要だった。
やがてあらわれた魔女は、ブランデーを垂らした熱いコーヒーを手渡しながら別の問いを口にした。
「七つの罠の抜け方をどうやって知ったの?」
「わたしの父の祖父のそのまた祖父から聞きました」彼は熱い飲み物を一口味わうと把手のない器を両手で囲み、胡座を組んだ足のあいだに休ませた。
「彼は臨終の際に、それまで大事に仕舞っていた七つの罠の秘密をわたしに遺してくれたのです」
「その人の名は?」
「もちろんリラサカのヒタカです……てっきりお分かりかと」若者は生真面目な表情を曇らせた。
「すみません、やはりあなたではないのかも知れません。先代の銀の魔女殿のことだったのでしょう。なんと言ってもわたしが子供の頃に亡くなった大祖父の若かりし頃の知り合いなのですから」
「リラサカのヒタカ……火の翼をまとった雄々しい鷹ね‥‥。思い出したわ、すっかり忘れていたけれど」
「それではヒタカを御存じなのですね」
「ええ、彼といっしょに空を翔ぶのは楽しかった。……そう、おまえはヒタカ殿の子孫なの。彼はシンゴウ国の祖神、リラサカノイサミノミコトの血筋を引いて人間にしては優れた魔法の使い手だったわ」フールメイは今までとは少し違った目をして若者を眺めた。
「そういえばお前にも少しはその血が流れているようね。名は確か……」
「シイタと申します。ゴウ文字では、椎の木におおもとの太と書きます。魔法大学の大学院に籍を置いております。といっても、わたしはあまり……」彼は心持ち俯いた。
「荒祖神や大祖父のように魔法を使うのは得意ではないのです。ここに辿り着くにも、罠の切り抜け術を教わりながらもう少しで失敗するところでした」
フールメイは当たり前だといわんばかりに手を動かした。
「お前たちのように魔女や魔法使いの血がこれほど薄い世代では、魔法を個人の能力によって体現する方法を学ぶなど愚かなことだわ。大学の設立理由からして、その本質を探ることにあって魔法の使い手を育てることではないのだから」
「……あなたが大学に寄贈してくださった魔術の千六百七十三の謎のうち、半分ちかくはどうにか解明されました。あとの半分は謎解き博士をはじめ大学をいまだに混乱に陥れています」
「人間もこの百年ほどでずいぶん進歩したものね」魔女は低く笑い、はじめて若者に親しみをみせた。
長くやわらかな銀の髪、青い瞳、完璧な鼻筋、上弦の月のような唇、人形のように冷たく整いすぎたものを笑顔は魅力的なものに一変させ、若者をぽーっとさせた。彼女はいったい何歳なのだろうとシイタは訝った。
「おまえは何を学んでいるの」
「気象物理学です。大気現象魔法を理論体系づけて、そのメカニズムを調べることに力を注いでいます。……それでいて罠の吹雪を鎮めることもできませんでしたが。ただ、今回わたしをこちらに派遣したのは大学ではありません。王立図書館の館長とアカシヤの都の治安維持卿から頼まれたのです」
「治維卿から?」
「そうです。都でたいへんなことが起こったのです。……消えるはずのないものが消えてしまった。王立図書館に収められた魔法書のうちの一冊、〝古井戸の書〟が消失してしまったのです!」