旅立ちの日に
売れないミュージシャンの俐生は、入水するが、底でかつての恋人(?)龍の少女の狭由良と再会を果たし……!?
彼女との約束を果たそうと、人界に別れを告げて、共に旅立つことを決意した。
遠い夏の〈あの日〉の物語、遂にフィナーレ。
《うんっ、約束だ!》
声が、遠ざかっていく。
そして、そのまま静寂に同化していった。
(俺……ホントに、死んじまったのかなぁ?)
視界には、明るいのか、暗いのか分からない混沌としたモノが広がっている。
自殺した、死んだのに感覚と言ってはおかしいが、なにかふわふわと漂うような感じがするのだ。
これは、この感じはなんだろう?
以前にも、知っているような?
‐―‐と、俐生の思考が溶けかかった瞬間、甲高い、少女の声がぴしゃりと彼をぶった。
「……き、ちょっと俐生! ねえっ、しっかりしてよ! 俐生ったらっ」
「おおわっ!?」
いきなり強くぶたれ、揺さぶられた俐生は、堪らず飛び起きた。
「あれ、ってか……俺、生き、てる? なんでだ?」
はた、と、今さらのようにぺたぺたと全身を確かめる俐生。
「足、あるよな? 幽霊じゃねぇ」
「当たり前よ、あたしが助けたんだもの」
グルグルと悩んでいた俐生のすぐ後ろで、少女は不服そうに、その白い頬を膨らます。
「え?」
「やっと正気に戻ったようね、俐生。あたしを憶えてる?」
俐生は振り向くと同時に、やかんのように沸騰してしまった。
なにしろ、目の前にいた少女は、ぬけるような白磁の肌、銀色に透ける長い髪。
目の覚めるような、絶世の美女だったのだから。
「ななっ、なっ……」
尻餅をついたまま、酸素不足の金魚のように口をパク付かせる。
(お、憶えてねぇ!? キャバ嬢? いやいやっ、とんでもない、そんなはずはっ)
「やだ、ホントに忘れちゃったの? 狭由良、憶えてるでしょ?」
(狭由良……ああ、そうだ、あの狭由良だ!)
幼い頃に、子供心にも何度も逢瀬を重ねていた……。
「狭由良、ホントに?!」
俐生は、狭由良の細い手を握りしめる。
「俐生……変わったのね? 背が伸びたのかしら」
「まあ、そりゃぁな」
そっと手を離して、俐生は頬をかいた。
「それに、男の人になったわ」
「……?」
久し振り、と言うか…何年かぶりに会った彼女は、全然、変わっていなかった。
まあ、龍だし、人間とは違うだろうが。
「で、ここは……?」
キョロキョロとあたりを見まわすと、膜が張ってある。
外に見えるのは、諾々と荒れ狂う泥色を通り越して、どす黒く見える水。
「俺……どうして」
ぽつりと呟いた俐生に、狭由良は寂しげに眉根を下げた。
「あたしの泡の中よ、俐生…ホントに、変わっちゃったのね」
「変わった、なにがだ?」
「ねえ、俐生……あの約束、忘れちゃった? 一緒に来てくれるって」
「……」
思わず黙りこむ俐生。
(忘れてた……あの時、あんなに嬉しかったのに)
そんな俐生を察してか、狭由良は明らかに悲しい顔をする。
「俺は……」
その先を、狭由良が言わせまい、とするように遮った。
「どうして、河にいたの? 河に。会いに来てくれたのでしょ?」
いやいやをするように、俐生は頭を振り回す。
「行くところも、金もない……周りにも見放されて、生きててもムダなんだ…だから、ここで終わりにしようと思ったんだ」
俐生の思わぬ告白に、狭由良は鋭く息をのんだ。
その手が、ガクガクと震えている。
「俐生! 死ぬなんて言ってはダメ、そんなこと言わないで! もったいないものっ」
「狭由良……」
ぎゅっ、としがみつく狭由良を抱き締めて、俐生は悲痛に顔を歪ませた。
「死ぬなんて、言ってはイヤよ、そんなこと言うくらいなら…あたしといて?」
強く、強くその身を押しつけるように、抱きつく狭由良。
触れた肌は、冷たかった。
「なんで、俺なんだ? あんな子供の口約束、破ればよかったのに」
「あんな約束でも、あたしには大事よ? 龍は、嘘は言わない…言えないのよ」
くすんくすんと、涙を拭う狭由良を、俐生はなんとも言えない顔で見つめた。
「狭由良、泣かないで」
「ねえ、俐生…居場所がないというのなら、人間の世界に居場所がないのなら、どうかあたしの、あたしの傍にいてくれない?」
「狭由良?」
その時、俐生は見た。
彼女を取り巻く、いや、縛りつける鈍色の鎖を。
「これは? 狭由良を取り巻くこの鎖は? 一体……」
「俐生、一緒に、あたしと生きて? いいでしょう?」
「……ああ」
俐生は、大きく頷いて狭由良を抱き締めた。
瞬間、濁った水中に、幾筋も光が差し込み始める。
光が、水を浄化していくかのように、流れは静まり、いつの間にか嵐は止んで、水は澄んでいた。
「空が、見える……晴れてるんだな」
傍で、狭由良が頷いて、俐生の手を握りしめた。
「ありがと、俐生。これで、呪縛がとけた」
「呪縛?」
「あなたに、会いたくて、でも行けなくて……自分で、自分を縛ってしまったの」
「思い出したよ〈あの日の約束〉忘れてて、ごめんな?」
「ううん、ずっと待ってたの、こんな日が来るのを」
青空には、うっすらと引かれた、飛行機雲が続いている。
ずっとずっと、どこまでも続いている。
狭由良は龍になると、俐生を背中に乗せる。
「どこに行くんだ?」
「……どこへでも、幸せの国かしら?」
「そうか」
人も、すべての者も、いつか、この空の階を昇っていくんだな。
「あ、俺の車だ……燃えてる?」
遥か眼下に、燃え尽きようとしている愛車を見つけ、俐生は狭由良に問うた。
「みんな、あなたを忘れるわ? それでも、いい?」
「うん……それが、一番幸せだ」
空に、一筋の煙が上ったあの日‐‐―‐。
俺は、ずっと、空を見ていた。
どうも、維月です。
『空の階』シリーズ(と言っても、短いですが)、自作の中で、完結作品第1号です。
は〜……(脱力)
ここまで読んでくださった読者の皆様、本当にありがとうございました。