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金沢を出る朝。


まだ暗いうちに、部屋を出た。

荷物は最小限だった。


持てるものだけ。

残りは、全部置いていく。



いくばくか残っていた罪悪感とともに

他の宿泊客が忘れて行った免許証で

レンタカーを借りた。


知らない名字。

知らない免許証。


もう、どれが本当なのか分からなくなっていた。



高速道路を走る。


会話はなかった。


ラジオもつけなかった。


ただ、道路の音だけが続いていた。



敦賀に着いたのは夕方だった。


知らない町。

知らない海の匂い。


すべてが遠く感じた。



宿は取らなかった。


取れなかった。


だから、民家を訪ねた。



「すみません、夫婦で釣りにきたんですが」


はじめさんが言う。


「荷物を海に落としてしまいまして」


穏やかな敬語。

いつもの声。



「一晩だけ、泊めていただけませんか」



年配の夫婦だった。


少し迷って、でも頷いてくれた。


「寒いでしょう。どうぞ」



食卓に並ぶ料理。


湯気。

味噌の匂い。

普通の家庭の音。


世界は、普通に続いていた。



「美味しいですね」


はじめさんが言う。


穏やかな声。


いつも通り。



私は頷いた。


味がよく分からなかった。



彼が言った。


「普通の毎日って、なくなってから特別になるんですよ」


静かな声。



その言葉が、胸に落ちた。



その夜、布団に入ってから、私は眠れなかった。


隣の部屋の気配。

家の人の足音。


小さな物音に、心臓が跳ねた。



そして初めて、現実が追いついた。


私は小さく声を出した。


「どうして」



壁の向こうに聞こえないように、

小さな声で。



「どうして、逃げたの」



暗闇の中。


しばらく沈黙が続いた。



彼の声が、静かに返ってきた。


「わかりません」


その一言だけだった。

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