8
金沢を出る朝。
まだ暗いうちに、部屋を出た。
荷物は最小限だった。
持てるものだけ。
残りは、全部置いていく。
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いくばくか残っていた罪悪感とともに
他の宿泊客が忘れて行った免許証で
レンタカーを借りた。
知らない名字。
知らない免許証。
もう、どれが本当なのか分からなくなっていた。
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高速道路を走る。
会話はなかった。
ラジオもつけなかった。
ただ、道路の音だけが続いていた。
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敦賀に着いたのは夕方だった。
知らない町。
知らない海の匂い。
すべてが遠く感じた。
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宿は取らなかった。
取れなかった。
だから、民家を訪ねた。
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「すみません、夫婦で釣りにきたんですが」
はじめさんが言う。
「荷物を海に落としてしまいまして」
穏やかな敬語。
いつもの声。
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「一晩だけ、泊めていただけませんか」
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年配の夫婦だった。
少し迷って、でも頷いてくれた。
「寒いでしょう。どうぞ」
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食卓に並ぶ料理。
湯気。
味噌の匂い。
普通の家庭の音。
世界は、普通に続いていた。
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「美味しいですね」
はじめさんが言う。
穏やかな声。
いつも通り。
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私は頷いた。
味がよく分からなかった。
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彼が言った。
「普通の毎日って、なくなってから特別になるんですよ」
静かな声。
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その言葉が、胸に落ちた。
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その夜、布団に入ってから、私は眠れなかった。
隣の部屋の気配。
家の人の足音。
小さな物音に、心臓が跳ねた。
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そして初めて、現実が追いついた。
私は小さく声を出した。
「どうして」
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壁の向こうに聞こえないように、
小さな声で。
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「どうして、逃げたの」
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暗闇の中。
しばらく沈黙が続いた。
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彼の声が、静かに返ってきた。
「わかりません」
その一言だけだった。




