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気づいたとき、私はまだその場に立っていた。
時間が止まったみたいに、体が動かなかった。
嗅いだことがない、でもわかってしまう匂い。
絵の具ではできない色。
液晶越しでしか見たことのない光景。
なのに、目を逸らせなかった。
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「……優希さん」
背後から、静かな声がした。
振り向けなかった。
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「見せるつもりはありませんでした」
淡々とした声だった。
謝罪でも、弁解でもない。
ただ事実を述べているだけの声。
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足音が近づく。
彼がすぐ後ろまで来た気配がした。
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「怖いですよね」
小さく言う。
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私はやっと振り向いた。
「どうして」
私はふるえて、
その言葉しか言えなかった。
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彼は少しだけ目を伏せた。
答えはなかった。
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沈黙が落ちる。
時計の音だけが聞こえる。
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「帰りますか」
彼が言った。
「今なら、まだ」
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私は首を振っていた。
自分でも理由は分からない。
ただ、首を振っていた。
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彼は少しだけ驚いた顔をした。
「……どうして」
初めて敬語が途切れそうな声だった。
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「分からない」
本当に分からなかった。
怖いのに。
逃げたいのに。
でも、帰れなかった。
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彼は小さく息を吐いた。
「僕、昔から無鉄砲なんです」
少しだけ苦笑する。
「考える前に動いて、だから、」
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その言葉が、なぜか静かに響いた。
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しばらくして、彼が言った。
「手伝ってもらえますか」
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その一言で、すべてが決まった。
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私は頷いていた。
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それからの時間は、よく覚えていない。
言葉はなかった。
音だけがあった。
はじめてわかった。
人は動かなくなるとこうも重たいのか。
体を開くとこんなにも臭うのか。
殺したあとのほうがどれだけ大変か。
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気づいた頃には、外が少し明るくなっていた。
夜が終わっていた。
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「朝ですね」
彼が言った。
穏やかな声だった。
いつもと同じ声だった。
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世界は何も変わっていないように見えた。
でも、全部変わっていた。
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「行きましょうか」
彼が言った。
「少し、遠くへ」
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私は頷いた。
理由は、まだ分からないまま。




