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13

はじめさんは、朝早く起きた。


「パンないね」


それだけ言って、コートを羽織る。

いつもと同じ動き。

いつもと同じ声。


私はベッドの端に座って、それを見ていた。


「買ってくるよ」


振り返って、少し笑う。


その笑顔が、

どうしてこんなに遠く感じるのか分からなかった。


ドアが閉まる。

足音が遠ざかる。


静かになる。


 


――今だ。


そう思ったのに、すぐには動けなかった。


部屋の中に、彼の気配がまだ残っている。

コートの擦れる音。

靴の音。

「買ってくるよ」という声。


全部、消えていない。


 


テーブルに座る。


紙とペンを置く。


何度も深呼吸する。


何も書けない。


 


愛した人を、牢屋に送る。


その言葉が頭の中で反響する。


吐き気がした。


 


でも、このまま壊れていくのを見続けるのも地獄。

壊れていく人の隣で生き続けるのも地獄。


そして、そんな自分に耐えられる自信がない。


 


震える手で書く。


――ごめんなさい


涙が紙に落ちる。


続けて書く。


――ひとりで行きます

――はじめさんは悪くありません。

ーー耐えられなかった私が悪いんです。


嗚咽を抑えながら書く。


それでも、書かずにはいられない。


 


最後に書く。


――さようなら


 


ペンが落ちる。


息ができない。


 


玄関まで歩く。


靴を履く。


紐が結べない。


手が震えて、何度もやり直す。


 


ドアノブに触れる。


開ければ終わる。


開けなければ続く。


 


動けない。


 


床に座り込む。


ここでやめてもいい。

紙を破ればいい。

何もなかったことにできる。


抱きしめて、また眠ればいい。


何度も思う。


何度も思う。


 


罪って、最初だけ重いんだね。


昨夜の言葉が戻る。


胸が焼ける。


 


このまま逃げ続けたら、

彼は本当に慣れてしまう。


それだけは、耐えられない。


 


立ち上がる。


もう一度ドアノブに手をかける。


その瞬間。


 


――ガチャ


 


心臓が止まる。


 


「優希?」


袋の擦れる音。

パンの匂い。


早い。


早すぎる。


 


足音がテーブルで止まる。


紙を持ち上げる音。


沈黙。


長い沈黙。


 


「……これ、何?」


 


振り向けない。


 


紙を読む音。


「ひとりで行きます」


ゆっくり、読み上げる。


 


また沈黙。


 


「警察に行くの?」


 


声が出ない。


 


「どうして?」


怒っていない。

責めてもいない。

本当に分からない人の声。


 


やっと言う。


「もう、耐えられない」


 


はじめさんが小さく笑う。


短い笑い。


 


「優希」


教室で生徒を諭す声。


 


「もう後戻りはできないんだよ」


 


息が止まる。


 


「僕たちは普通には戻れない」


「それは分かってたよね?」


 


否定できない。


 


「じゃあ、どうして今更?」


一歩近づく。


 


「君は僕の罪をゆるしてくれた」


静かに言う。


 


「だから僕は君が泣かないように」


「だから僕は君が傷つかないように」


「この家で君を大切にし続けた」

 


逃げられない。


 


「その僕を、渡すの?」


 


言葉が出ない。


 


「優希は悪くないんだよ」


優しく言う。


「全部僕が悪いんだ」


「優希は被害者であって、僕に守られていればいい」


 


安心させる声。


 


「だから」


 


微笑む。


 


「一緒に逃げよう?」


 


胸が凍る。


 


「警察に行ったら終わる」


「僕たちはもう会えない」


「一生だよ?」


 


逃げ場がない。


 


抱きしめられる。


いつもと同じ腕。


 


耳元で囁く。


 


「大丈夫」


 


少し間を置いて。


 


「慣れるから」

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