12
その夜、雪は降っていなかった。
降っていない夜の方が、静かだった。
遠くの車の音。
配管の中を流れる水の音。
冷蔵庫の低い振動。
世界が動いていることが、久しぶりに分かった。
苫小牧に来てから、ずっと抱き合って眠っていた。
言葉の代わりに、体温だけを確かめる日々だった。
でもその夜、はじめさんは私の隣に座らなかった。
テーブルの前に座って、
冷めたコーヒーを両手で包んでいた。
私はベッドの端に座っていた。
同じ部屋なのに、距離があった。
それがもう、終わりの始まりだった。
はじめさんが、先に口を開いた。
「ここ、静かだね」
久しぶりに聞く声だった。
懐かしいのに、少し遠い。
「誰も僕たちを知らない」
“僕”。
元教師のままの一人称。
それなのに、声はどこか軽かった。
「このまま見つからなければいいのに」
小さく笑った。
その笑いに、温度がなかった。
沈黙。
私は何も言わない。
言葉を返したら、
何かが決定的に壊れる気がした。
はじめさんは続けた。
「人ってさ、慣れるね」
指先でマグカップを撫でながら。
「最初は毎日苦しかったのに」
「最近、普通に眠れる」
胸の奥で、何かが冷えた。
「罪って、最初だけ重いんだね」
私は息を止めた。
はじめさんは気づかないまま続ける。
「妹のこと思えば、仕方なかった」
「あれで、よかった」
その瞬間、分かった。
この人は今、
罪に慣れ始めている。
逃げることより怖いのは、これだ。
壊れることじゃない。
壊れたまま、生き続けてしまうこと。
私は立ち上がった。
音を立てないように歩いて、
はじめさんの隣に座る。
触れない距離。
何も言わない。
やっと、はじめさんがこちらを見る。
疲れた目。
少し垂れた優しい目。
私が好きになった人の目。
その人が、壊れていく。
私と一緒に。
私は手を伸ばして、はじめさんの手に触れた。
とても優しく。
最後に触れるみたいに。
その瞬間、決めた。
この逃避行は、終わりにしよう。
はじめさんを壊さないために。
これ以上、壊さないために。
私は何も言わない。
はじめさんも知らない。
でももう、決まった。
明日、私はひとりで警察へ行く。




