1
その日は、よくある雨の日だった。
駅を出た瞬間、思っていたより強く降っていて、
私は少しだけ後悔した。
春の雨は、やけに冷たい。
信号の前で立ち止まりながら、小さく息を吐く。
あと少しで家なのに、と思った。
⸻
バス停には、一人先に人がいた。
スーツ姿の男性。
屋根の端に立っていて、肩が濡れている。
傘は持っていないらしい。
雨粒がスーツに吸い込まれて、色が濃くなっていく。
私は少し迷ってから、その隣に並んだ。
⸻
しばらく、何も言葉はなかった。
雨の音。
車が水たまりを踏む音。
遠くの信号の電子音。
それだけが、世界だった。
⸻
ふと横を見る。
濡れた前髪。
疲れているような、でも穏やかな表情。
年上だと思った。
⸻
気づいたら、声をかけていた。
「大丈夫ですか?」
自分でも驚いた。
知らない人に話しかけるタイプじゃないのに。
⸻
彼は少し目を見開いて、
それから小さく笑った。
「大丈夫ですよ」
低くて、落ち着いた声だった。
⸻
「すぐ止むと思っていたんですけど」
空を見上げる。
「予想外でした」
丁寧な敬語だった。
距離を保つ話し方。
⸻
私は少し笑った。
「春の雨って長いですよね」
⸻
彼は頷いた。
「そうですね。油断していました」
短い沈黙。
でも、さっきまでとは違う沈黙だった。
⸻
「お仕事帰りですか?」
彼が聞いた。
「大学帰りです」
⸻
「学生さんなんですね」
その言い方が、少し嬉しかった。
⸻
「法律学部です」
そう言うと、彼は少し目を細めた。
「大変そうですね」
⸻
「初めて言われました」
そう言うと、彼は小さく笑った。
目尻に皺ができる笑い方だった。
⸻
「僕は現代文を教えているんです」
少し照れたように言う。
「高校で」
⸻
教師。
なるほど、と思った。
話し方が優しい理由が分かった気がした。
⸻
「昔、授業で話したことがあるんですけど」
彼が少し間を置く。
「人って、励もうとしなくなった瞬間に
止まるらしいですよ」
雨の音の中で、その言葉は静かに落ちた。
⸻
「?
勉強についての話ですか?」
私が聞くと、彼は頷いた。
「はい、」
「すみません少し偉そうでしたよね、
話し下手でして」
⸻
「好きですよ、そういう話」
気づいたらそう言っていた。
⸻
彼は少し驚いた顔をして、また笑った。
⸻
バスが来た。
ライトが雨粒を照らす。
二人で同時に前へ出る。
⸻
この日、私はまだ知らなかった。
この出会いがすべての始まりになることを。
彼の苗字を、まだ知らないまま。




