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その日は、よくある雨の日だった。


駅を出た瞬間、思っていたより強く降っていて、

私は少しだけ後悔した。


春の雨は、やけに冷たい。


信号の前で立ち止まりながら、小さく息を吐く。


あと少しで家なのに、と思った。



バス停には、一人先に人がいた。


スーツ姿の男性。


屋根の端に立っていて、肩が濡れている。

傘は持っていないらしい。


雨粒がスーツに吸い込まれて、色が濃くなっていく。


私は少し迷ってから、その隣に並んだ。



しばらく、何も言葉はなかった。


雨の音。

車が水たまりを踏む音。

遠くの信号の電子音。


それだけが、世界だった。



ふと横を見る。


濡れた前髪。

疲れているような、でも穏やかな表情。


年上だと思った。



気づいたら、声をかけていた。


「大丈夫ですか?」


自分でも驚いた。

知らない人に話しかけるタイプじゃないのに。



彼は少し目を見開いて、

それから小さく笑った。


「大丈夫ですよ」


低くて、落ち着いた声だった。



「すぐ止むと思っていたんですけど」


空を見上げる。


「予想外でした」


丁寧な敬語だった。

距離を保つ話し方。



私は少し笑った。


「春の雨って長いですよね」



彼は頷いた。


「そうですね。油断していました」


短い沈黙。


でも、さっきまでとは違う沈黙だった。



「お仕事帰りですか?」


彼が聞いた。


「大学帰りです」



「学生さんなんですね」


その言い方が、少し嬉しかった。



「法律学部です」


そう言うと、彼は少し目を細めた。


「大変そうですね」



「初めて言われました」


そう言うと、彼は小さく笑った。

目尻に皺ができる笑い方だった。



「僕は現代文を教えているんです」


少し照れたように言う。


「高校で」



教師。


なるほど、と思った。

話し方が優しい理由が分かった気がした。



「昔、授業で話したことがあるんですけど」


彼が少し間を置く。


「人って、励もうとしなくなった瞬間に

 止まるらしいですよ」


雨の音の中で、その言葉は静かに落ちた。



「?

 勉強についての話ですか?」


私が聞くと、彼は頷いた。


「はい、」

「すみません少し偉そうでしたよね、

 話し下手でして」



「好きですよ、そういう話」


気づいたらそう言っていた。



彼は少し驚いた顔をして、また笑った。



バスが来た。

ライトが雨粒を照らす。


二人で同時に前へ出る。



この日、私はまだ知らなかった。


この出会いがすべての始まりになることを。

彼の苗字を、まだ知らないまま。

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