S.首切りの女
図書室の右奥にはほとんどどの方向からも死角になっている狭い個人スペースが二つ並んでいる。実際二人が入るには少し狭いのだがまあ妥協範囲内だろう。僕は本棚から適当に本を抜いてそのスペースに座った。
灯りは辛うじて届いているが他に比べて薄暗いためここは人気がない。使う生徒がいないせいか掃除が行き届いていなくて灰色の細い紙屑がいくつか落ちていた。
気にせず僕は本を捲った。殺人鬼の少年が主人公の、帯曰く文学小説だった。推理小説のように探偵や警察が殺人鬼を追い詰めるのではなく、殺人鬼の少年にスポットライトを当てて彼が如何にして人を殺すに至ったかをくどくどと書いている。前のほうの数ページを読んだ感想としては非常に読み辛く設定の大半の意味がわからない。僕は本を閉じた。別の物にしようと思って席を立つと近くの本棚に溝辺 すみれがいた。小柄で眼鏡を掛けた白い肌の、本の虫。
図書室に行くとだいたい彼女がいるので別段珍しいことではない。珍しいのは彼女が本棚に寄り掛かって立ち読みをしていることだった。
特に話し掛けることもせずに僕は本を棚に戻して別の本を取った。こちらはそこそこおもしろくてチャイムが鳴るまで僕はそれを読み耽った。
彼女は来なかった。
六限目の授業が終わり僕は彼女を見た。彼女は一瞬視線を返すがすぐに別のほうを見た。僕は帰る用意をする。昨日までは連続殺人犯に会いたくて夕方まで学校に残っていたが連続殺人犯が僕を殺してくれないならば残っている意味も特にない。
徒歩十分の道を行き家に帰る。
玄関の扉の鍵をポケットから出そうとしたとき、
「なぁ」
後ろから声が掛かった。
彼女だった。
「……入る?」
僕が訊ねると彼女はあっさりと頷いた。
「尾行してきたのか?」
頷く。
「スゴいな。全然気づかなかった」
誇るように薄く笑みになる。本でも読んで勉強したんだろう。
「で、なんのよう?」
「実は別に用はない。あえて言うなら会いたかった」
「そう」
僕はちらりと時計を見た。志歩が帰ってくるまであと一時間と少し。
「心配しなくても僕は別に君のことを警察に言ったりはしないよ」
「あんたは僕のことをなんだと思ってる?」
「ちまたで噂の連続殺人犯」
彼女はクククッ と低く笑う。
「僕は別に他人がどうなろうが知ったこっちゃないからね」
「結局みんなそうなんだよな」
僕は頷く。
「人は人の死に無関心だ。自分の死にしか感心が持てない」
「時間が減ることを人間は恐れてる。生きてる時間が減ることじゃなくて、ただ時間が減ることを」
「冷静に死ぬことを考えると気が狂う。人間は自分の死を現実の物と考えられないって書いた作家がいた気がするけど、ずっとそんなことを考えてるやつはただの狂人だ」
実にくだらない会話だ。だけど他の誰ともできない会話。時間が過ぎるのは早かった。
「悪い。君との会話は比較的楽しいけど母親に見つかると面倒だ」
「わかった。帰るよ」
「今度からは放課後の図書室で会おう」
僕達はそこで別れた。ノートの落書きのことを訊き忘れた。あれは彼女ではなかったのかもしれない。だとすると…… 溝辺だろうか?
翌日の朝も一志はやってきた。似たようなやりとりを繰り返す。僕はいい加減、一志に殺意に近い物を抱きつつあった。軽いノイローゼになりそうだ。最近一志の声を聞くだけでイライラしてくる。
とはいえどうせ僕に人間は殺せない。ブレーキが掛かるようにできている。それは実証済みだった。中学生のときに僕は本気で殺してやろうかと思った人間がいた。結果は失敗だった。結局そいつは生きている。
僕はふとこのことを彼女に話してみようかと思った。
現代文の時間、テーマとなった題材は夏目漱石の『こころ』だった。僕はこの話が好きだった。行く道も帰る道も塞がれどうしようもなくなってしまったKと真摯で裏切りに聡く隙だらけの心を見せられてKがKであることを利用してしまった私。
僕はKに死に様が好きだった。怒るでもなく嘆くでもなくただどうしていいかわからないが故の死。僕はそんな風に思う。現文の教師は「Kが死んだのは私の心に戒めを打ち込むためかもしれないね」と言った。僕はその解釈が一番嫌いだった。
放課後になって朝顔が数学の授業内容に「わかんない場所があるから教えろよー」と言ってきた。正直に言えば嫌だったがサッカー部の連中を除けば概ね善良な人間関係を築くことに成功していた僕はそれを崩すのも嫌だったのでやむを得ずに付き添った。彼女がそれをどう捉えたかはわからなかった。
昼を過ぎたら朝顔は眠そうになる。この日も例外ではなく朝顔は僕の説明を聴きながら半分くらいは寝ていた。僕は横っ面を叩いて起こしてやろうかと思ったが肩を揺するに留めた。
「睡眠学習……zzZ」
置いて帰ろうと決めた。
図書室を覗いてみたが閉まっていた。新しい本が届いて、その整理をやるらしい。どのみち今日は彼女に会えなかったみたいだ。
翌朝テレビをつけて、連続殺人の新しい犠牲者が出たことを知った。
いつものように適当に一志を追い払ったあと朝顔が僕の机を叩いた。
「なんで帰っちゃうわけ?!」
周囲の注目を著しく集めるが朝顔は気にしない。
「朝顔が寝るからだろ」
僕はなるべく小声で答えたが、
「起こしてくれてもいいじゃん!」
まったくの無駄だった。クラスメイトの好奇心がズキズキと突き刺さる。怒り心頭な朝顔はそのへんでようやく自分の発言がかなりダウトであったことに気づいたようだ。
「アサー ちょっとこっちおいでー」
女子グループの一人が手招きする。失言に気づいた朝顔が僕とそちらを交互にみる。
「え、えとね。これは違うの。昨日ね、 ってゆーかツキは彼女いるし……」
めったに見ない朝顔の引き吊った笑みは可愛かった。
放課後になって僕は図書室にいた。少し遅れて彼女がやってくる。向かい合って座る。溝辺が近くにいることが計算通りだった。
僕はペンを二本とルーズリーフを取りだし『筆談にしよう』と提案する。『いいよ』彼女が書く。
『こないだ聞き忘れたけど君が人を殺す動機はなんだ?』『さぁ、なんとなく』僕にそこまで話す気はないらしい。『宮川一志に死んで欲しい』『ふーん』『殺してくれないか?』『別にいいけど』『君のアリバイは作るよ』『どうやって?』
僕は考えていた方法を話した。こんなやり方で警察を欺けるなんて思っていないし言うならば彼女をその気にさせるための遊戯の一環だった。『おもしろそう』と彼女は笑った。
僕は筆談に使った紙を黒く塗り潰した。それから図書室を出たところすぐにあるゴミ箱に丸めて捨てる。振り返って扉を閉めたとき溝辺が目を逸らした。興味はあるみたいだけど溝辺は別に言いふらしたりするタイプじゃないから何も言わなくとも構わないだろう。
朝顔が漏らしたように僕には恋人がいる。サッカー部のマネージャーの天上 時子、愛称はトキだ。二年の秋頃から付き合っていて土曜日の今日は遊びに行く約束をしている。
五分前に待ち合わせ場所に行くとトキはもう来ていた。
「待った?」
僕が定型句を言うとトキは八重歯を覗かせて「ちょっと」と言った。
トキのことを他と比べて特別好きなわけではない。あえて言うなら朝顔のことも同じくらいには好きだ。
ただクラスメイトと付き合えば常に誰かに監視されているような気がするのが僕は嫌だった。きっと最初だけだろうけど、慣れるまでの時間は小心者の僕には果てしなく感じるだろう。
だから年下のトキを選んだのだがこれがそこそこに失敗だった。彼女は毎週土曜に必ず会いたがるのだ。それが僕には面倒で仕方ない。
電車に揺られながら適当に会話して僕らはお目当ての水族館に着いた。僕は正直言って生臭くてこんなところ一分一秒でも早く立ち去りたかったが努力して笑みを崩さなかった。
問題は明日だ。
トキは楽しそうにラッコやイルカを見て回っていた。僕はシャチのショーを見てあれに誰かが食い殺されてくれればブラボーと叫んで拍手するだろうなぁと思った。
昼を過ぎて近くのレストランに入る。味の割りに値段が高く僕はうちの学生食堂といい勝負だなぁと苦笑した。
どうしたの? と訊かれて僕はトキの頬にパスタのソースが付いていることを指摘した。
トキは顔を赤らめる。
僕はそれっぽく笑った。
帰りの電車でトキは僕の肩にもたれ掛かって目を閉じていた。僕はその髪に頬を寄せる。寝たふりであることはなんとなく気づいていた。駅について僕はトキを起こした。トキはわざとらしく目を擦る。
駅を出て僕は帰り道の途中で彼女を振り返った。
僕はゆっくりとトキに近づく。拒否がないことを確認して唇を重ねる。
「今日のことは絶対誰にも内緒で」
トキは何も言わずに一度頷いた。
さて、これで予行演習は終わりだ。
日曜日。
待ち合わせ時間の少し前、僕は携帯電話でメールを打っていた。今日の格好をいくつか挙げてみる。普段かけない眼鏡を掛けて、縦縞の入ったYシャツの上に少し灰の混じった黒いジャケットを着ている。ファッションに疎い僕が唯一トキから「似合っている。かっこいい」とお世辞を貰った服装だった。
思っていたよりも暑かったので僕はジャケットを左手に掛けていたそれを付け足す。
『発見♪』と返信が来て僕はあたりを見回した。あちらの格好も指定されていたので僕はすぐに女を見つけることができた。目が合うと微笑んで歩いてくる。薄いブラウンの髪をしたその女は化粧で誤魔化してはいるがあまり美人とは言えなかった。
「ごめんね、待ったぁ?」
甘ったるい声を出す。
「いや そんなに」
僕は定型句を口にした。
二日連続で水族館に訪れる人間も珍しいだろうが誰がそんなことを覚えているのか。
切符を切った入場係でも僕の顔を見て怪訝になったりはしない。
「半券、くれないか。記念に集めてるんだ」
女は少し考えてからそれを寄越した。
「ねぇ、早く次のとこ行かない?」
同意見だったのでトキと来るよりも少し退屈は薄かった。僕と女はホテルに入った。名前と住所を書く必要があったので僕は『山田太郎』と書いた。自分の書いた住所が存在するかどうか僕は知らない。
ピンクを基調にした悪趣味な部屋に入るなり女は「前払い」と言った。僕が三万円を財布から出すとあと二万を請求してきた。
「自分がそんなに高いと思ってるのか?」
訊いてみたら「それもそうか」とあっさり引き下がった。
タオルを持ち込んで僕はシャワーを浴びた。欠伸を一つする。ボディソーフは妙な匂いがした。バスルームを出ると彼女は居なかった。財布からもう一万円が消えていた。僕はその部屋で少し過ごしてからタオルに挟んでいて無事だった五万円で部屋代を払って家に帰った。
いまごろあの女は僕のことをどこかで愚痴っているんだろうか。三万とかマジふざけんな。あの甘ったるい声が消え失せるところを想像して僕は笑った。
テレビをつけると宮川 一志が死んでいた。
一志のいない朝はひどく快適だった。
臨時の朝礼が終わったが四限までは授業があり、それが終わったあとに図書室に行く。溝辺がいて彼女はまだ来ていなかった。僕は入り口から見えるあたりで彼女を待った。彼女が来た。僕は紙とペンを広げる。
『殺った?』『うん』『こっちもだいたい予想通りになったよ』『わたしは昨日あんたと水ゾク館に行ってホテルに行ったけど喧嘩してすぐに帰った?』『うん。部屋はピンク、ベッドはカーテンがついた悪趣味なやつ、バスルームのボディソープは嫌な匂いがした。店員は三十代ぐらいのオッサンで舐めるように君の体を見てきて気持ち悪かった。喧嘩の原因は俺の二股。君はそれを知ってたけど改めて言われて腹が立った』『って刑事さんに訊かれたら答えたらいいんだね』『そう。俺も似たようなことを答えるよ。中を携帯の写真で取ってきたから送る』『ふーん』『電車に揺られて一時間半にある水族館とその近くのラブホテルに行って帰ってきた、アリバイ工作はこれでおしまいだ』彼女はクスリと笑った。『まっ 必要ないでしょうけどね』『うん そもそも今までの殺人が一つも君がやったとはバレてないんだからね』
喧嘩した前後の会話の打ち合わせと電車の中での会話なんかを二人で考えてから僕らは図書室を出た。こないだと同じように紙は黒く塗り潰してゴミ箱に捨てた。
ほんのすこしの悲しみがゴミ箱に捨てられた。