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S.首切りの女


 サロメ・アレクサンドラはヨナカーンの首を所望する



 例えば幸福な世界とやらはどこにあるのか。

 ここにあるといえばそれが君の真実だろうし、

 どこにもないといえばそれも君の真実だろう。

 少なくとも僕は年間で百万人が自殺していくらしいこの世界をまったく幸福だとは思えないし、できることなら一度壊して作り直してしまいたいくらいだ。

 実際いまはそんなことを考えている暇はなかったりして肺のうちにある酸素の容量が限界に達しようとしているのに脳裏に浮かんだのはそんなくだらないことだった。このままじゃいけないかもしれない。

 どうしてこんなことになったのか。僕はいまさら今日1日のことを思い出して本格的に意識が遠退くまでの時間を稼いでみようと試みる。……失敗した。どうしても目の前の死かくだらない思考に意識が向かってしまう。連続殺人犯にご注意を なんてふざけたプリントが配られたことがいまさらながら思い浮かぶ。果たしてどう注意すればいいのか。

 僕の顔の前で呼吸をする死神の吐息が甘い。

 僕は放課後の誰もいない教室で一人のクラスメイトに絞殺されようとしていた。僕よりも20センチは背が低い女の子であるにも関わらずその殺害方法が素手での絞殺だというのだからこれは驚くべきことではないかと思う。

 僕は150センチと少しの小柄な死神の細い指を自分の手でなぞった。思ったよりも温かい。ブラウンの長い髪の奥にある血走った目と歪んだ口元がひどく美しい。

 僕は笑った。

 どう表現していいか少し戸惑うが、僕はある種の自殺志願者だった。

 無気力型の、自分に価値を見いだせない典型的なタイプだ。生きていても死んでいても周囲に及ぼす影響の乏しさに絶望していて死ぬまでの暇潰しという人生の虚しさを嫌悪している。積極的に自殺しようとまでは考えていないが別に殺されてもいいかと思えた。

 だがそんな僕の意思と裏腹に彼女の手から力が緩んだ。

 このまま息を止めていたかったが圧迫から解放された喉は反射で空気を吸い込んでしまう。二酸化炭素が一掃される感覚は心地よく日課にしたいほどだったのだが、そのまま咳き込んでしまって心地よさが一瞬で失せてしまう。

「……どうして離した?」

「なんで笑った?」

「死ねると思ったから」

「あんた、頭おかしいでしょ?」

 彼女が歌うような声で言う。首から手が離れる。僕は少しそれを残念に思った。

「君ほどじゃないと思うけど」

「そうだね」

 彼女が傍らに置いていたバックを取った。

「気が変わった。帰るわ」

「僕を殺してくれないのか?」

 横滑りの古びたドアがキリキリとヒステリックな音を立てて開いたあたりで彼女が振り返った。

「あんたはこれからも苦しんで生きなさい」

 横滑りの古びたドアがキリキリと音を立てて閉まったあたりで僕は自分の鞄を取った。

 彼女の背を追って走り出そうとしたが呼吸が乱れて咳き込んでしまう。

 息も絶え絶えに廊下に出た。そのときにはもう彼女の背中は見えなかった。


 外は暗くなり初めていた。校門をくぐる。一応、彼女の姿を探してみるがやはりもう帰ったあとらしかった。

「……はぁ」

 なんだか人生最大の好機を逃した気がする。まったく首の絞められ損だ。

 オレンジの混じった夕暮れの道を歩く。

 周りに人はいない。最近この時間帯はよく連続殺人犯が出没しているから誰も出歩きたがらないのだ。教室で勉強してまで帰宅時の道に夕焼けを見たがるのは僕くらいのものだろう。

 十分ほど歩いて僕は家に帰りつく。事務的にただいまと言う。返事は返ってこなかった。微かに水音が聞こえるから洗い物でもしてるんだろう。

 僕は二階にある自室に足を向けた。鍵の掛からない部屋で荷物を置き制服のままベッドに横たわる。

 自分の首に両手をあてて少し力を入れる。心地いい圧迫感が蘇る。

 オレンジの光はもう差し込んでこなかった。


 僕の家庭環境は不和だと言える。

 なにせ同居しているにも関わらず母親が父親と一言も口を聞こうとしない。必要事項すら伝えずに揉め事になることも多く僕の小さな自殺願望には『ああはなりたくない』という気持ちが大きいのかもしれない。

 今日も一応は三人でテーブルを囲っているものの会話はほとんどなかった。僕はそんな状況を疎んでいない。なぜなら父親も母親も嫌いだからだ。

 最初は僕自身、思春期の人間が抱く特有の嫌悪感かなぁと楽観視していたがどうやらそうではないらしい。僕は人間としての彼らが嫌いなようだ。

 母親が

 父親が

 嫌いなわけではなく、

 志歩が

 義影が

 嫌いなんだ。

 僕は常日頃から彼らに一つだけ期待していることがある。それは義影が志歩を殺さないかな ということだ。もちろん「俺の人生はもうめちゃくちゃだからお前も死ね!」となって僕も殺される可能性も視野に入れている。

 僕は席を立ち、自分の食器を流し台に置くと風呂に入ってそのあとはすぐに二階の自分の部屋に戻った。

 いつものように少しだけ泣いて、寝た。


 目を覚ますと7時15分だった。いつもは7時丁度くらいに起きるのだが少し寝坊した。僕には珍しいことだ。

 一階に降りる。誰もいないリビングでいつも自分で買ってくる朝食のパンを今日は忘れたことに気づく。

 とりあえず軽くシャワーを浴びて汗を流した。掃除されていないバスルームはあちこちに薄く黴が這っている。歯ブラシと歯みがき粉のチューブを取る。歯みがき粉は切れかけている。最後に使う義影の分は足りなさそうだ。これが義影に対する志歩の嫌がらせかどうか僕には判断がつきかねた。去年修学旅行の際に持っていった旅行用歯ブラシのセットから小さい歯みがき粉を出して置いておく。それ以上は僕の知ったことではない。

 適当に服を選び、三ヶ月はアイロンをかけていないYシャツを着る。学校指定のネクタイを締めてブレザーを羽織った。ネクタイを違和感なく見えてもう少しキツく結ぶ方法はないだろうか? 緩く首を絞めておきたい。今度調べてみよう。

 バッグを持って僕は玄関を出た。朝日が眩しい。

 徒歩十分の通学路を歩いているとサッカー部の連中が自転車で通りかかった。一年生らしく、僕を見てどうすればいいかわからないような表情になる。

 僕が別段反応を示さずにいると彼らはコソコソと前を向き通り過ぎて行った。

 僕はつい先日までサッカー部の一員だった。レギュラーも貰っていた。特に問題を起こしたわけではないし、問題を起こされたわけでもない。

 ただ突然面倒臭くなって辞めた。前々から辞めようかな とは思っていたのだが今年で高校三年になった僕には受験という名目を立てることができた。

 ただそれだけの話だ。サッカー部が昨日の練習試合でそれまで格下だと思っていたチームに負けたことと僕はまったく関係がない。こないだ監督が変わったかとは多少関係あるかもしれない。

 校門をくぐり下駄箱で靴を履き替える。流石の部員達も上履きにいたずらをするなんて子供じみた行為に手を染める気にはならないようだ。もしかしたらほんとはサッカーをやりたいのに親に強制されて辞めさせられたんじゃないか なんて考えてるのかもしれない。だったら可笑しいな。僕が辞めたのは完璧な意味での一身上の都合なのだから。

 教室に入る。古びた扉を開閉したときのヒステリックな音が嫌いな生徒が多く、この教室の扉はだいたいの場合開け放されている。僕はさして注目されることもなく自分の席についた。

 彼女を探す。見つける。彼女は自分の席で周りの女子と談笑していた。できればもっと話してみたかったのだが仕方ない。

 何気無く視線を動かすと斜め前の常磐 朝顔と目があった。微笑んできたから笑みを返す。席を立って近づいてくる。

「宿題見せて!」

 ……これだ。

 僕は渋々机にしまっていた数学のノートを彼女の前で開いた。宿題なんてのは家でやるものではなく授業中か別の授業の最中にやるものだ。朝顔は嬉しそうになにかを話している。僕は半分以上聞いていなかったが適当に相槌を打っておいた。

「あの、えっと…… ツキいるか?」

 教室の前のドアで聞き覚えのある声がして僕はそちらを見た。宮川 一志だった。サッカー部の二年、レギュラーだ。ツキというのは僕の愛称である。

 僕は朝顔との会話擬きを切り上げて席を立った。朝顔が不満そうに僕を見るが無視する。

「外に出よう」

 一志は頷く。上履きのままで中庭に出る。

 朝の中庭は人が疎らだ。

「なぁ、部に戻ってくれよ」

 僕はうんざりしていた。一志は僕が辞めてからもう二十回は同じことを言っている。

「辞めるときに言っただろ? ちょっと上のほうの大学を目指しててね、いまのままじゃ厳しいんだよ」

 二十一回目の言い訳に一志は緩く唇を噛む。

「待ってっから、さ。頼むよ……」

「後ろ向きに考えておくよ」

 下手に期待を持たせないように言って僕は教室に引き返した。一志の顔は見ない。いい加減鬱陶しい。僕は残り少ない高校生活をサッカー部で汗水垂らして終える気はない。特に他にやることがあるわけじゃないのだが、オッサンになってから『あの頃はよかった』なんて思う類いの思い出を僕は必要としていない。少なくとも三十までには死にたい。

 朝顔が僕を小さく睨んでいた。チャイムが鳴る。一限目は数学。ノートを開くと余白に丸字でバーカッ!と大きく書いてあった。苦笑する。高校三年になってやることじゃないだろ、それは。

 朝顔は宿題に当たって答えられなかった。僕の解答には○がつく。例のバーカッ!を書くのに時間を取られて写しきれなかったらしい。

 彼女にこそ僕は言いたい。

 君は実に愛すべきバカだ。

 四限目の世界史で教師がホームレスの社会問題について力説している最中に僕はホームレスは社会問題なのにそれを排除する少年少女によるホームレスの殺害も社会問題になっていることの矛盾について考えていた。

 だいたいマスコミがホームレスが社会問題だと連呼するから少年少女はホームレスが悪だと考え自身の悪意の標的にするのではないだろうか?

 ホームレス。

 彼らのことを僕は特別よく知っているわけではないが帰る家がないというだけで大抵の場合誰かに迷惑を掛けることはしていないんじゃないか。空き缶を集め消費期限の切れた弁当を処分し段ボールや紙をリユースする。実に環境にクリーンな存在だと思う。公園や河原を住居にしていると言っても近年公園や河原で遊ぶ人間がどれだけいるのか。彼らのなにがいけないのだろうか。

 と、そのあたりで僕は自分のノートに書かれた二つ目の落書きに気がついた。

『昼休み、図書室の右奥』

 女子らしかったが朝顔の丸文字ではなかったし、僕はこれに似た筆跡の人間を知らない。

 彼女、だろうか?

 わずかに胸が踊る。終業のチャイムが鳴った。どうせ昼御飯を持ってきていないし特にやることもない。

 僕は二階の隅にある図書室に向けて歩く。



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