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試行二百十三

人は、自分が立っている場所を“現実”だと疑わない。

だが、その現実が何度も試され、書き換えられ、数字で管理されているとしたら――あなたはどう感じるだろうか。


本作『試行二百十三』は、事故の真相を探るための再現実験を軸にしたSFミステリーである。

主人公は、自分の記憶をも改ざんできるAI技師。

ある少女と出会い、断片的な色や物の手触りから、徐々に隠された真実へ近づいていく。


だが、彼が辿り着くのは“真実”ではない。

むしろ、その先にあるのは、すでに幾百回も繰り返された試行のひとつ――二百十三回目の虚構だ。


あなたがこれから読むのは、たった一回の物語に見えるかもしれない。

だがそれは、記録の中のわずかな変異に過ぎない。

次の試行が始まれば、この物語は存在しなかったことになる。

記憶の欠片は青に沈む


0. 朝の色


午前七時、僕はいつものカフェで青いカップを両手で包んだ。

店員の女の子が、笑い皺を浮かべて言う。


「今日も遅刻ギリギリですね、先生。」


先生、と彼女は呼ぶ。僕はただのAI技師だと訂正しかけて、やめる。

窓辺の花瓶は口が欠け、ガラス片が光を弾いていた。青い反射。目が少し痛む。


テーブルの上、掌にすっぽり収まる青い砂時計。砂は細く落ち続ける。

どうしてここにこれがある?誰のだったか。喉に小骨みたいな違和感が刺さって、抜けない。


1. 依頼


午前九時、研究棟の診察室めいたブースに少女が来た。

黒髪、瞳は深い青。細い指が机を掴んだ痕が白い。


「交通事故の記憶を消したいんです。…青いボールが、転がって」


そこで彼女の言葉はぷつりと切れた。

僕は頷き、手順を説明する。記憶改ざん装置は、嫌な記憶の色と匂いを別の刺激で上書きする。

色は便利だ。目に付く。剥がしやすい。


彼女の視界を共有するため、リンクを浅くつなぐ。

一瞬、僕の掌に青いボールの冷たさが伝わった。

同じ冷たさを、今朝、どこかで触れた気がする。


2. 青のにじみ


作業を終える。彼女は頭痛を訴え、笑ってみせた。


「先生、今日は…来ませんでしたよね?」


「え?」

彼女は首を傾げる。「あ、ごめんなさい。変なこと言いました」


帰り道。街の看板の青が、やたら濃く見える。

ガラスの自動ドアに映る自分の顔が、他人のようだ。

ポケットが重い。中から、小さな青いボールが転がり出た。


手に取ると、頭の奥でガラスが割れる音がした。

何かが飛び散る音。誰かが叫ぶ声。砂を噛むようなブレーキ音。

喉の小骨が、少し動いた。


3. 欠けた花瓶


夜、部屋の机にカフェと同じ青いカップが二つ並んでいた。

一つは口が欠けている。カップの縁で指を切り、血が滲む。

ティッシュを取りに立つと、棚の上に青い砂時計。確か、僕はこれを買っていない。


砂が落ちるたび、胸がひやりと冷える。

砂が止まったら何かが終わる気がして、何度も裏返した。


眠れない夜、窓の外からボールを蹴る音がした。近所の子だろう。

「こんな時間に」と舌打ちしかけて、口をつぐむ。

言いかけた罵声の形だけが、舌の上に残る。


4. 同期ズレ


翌朝もカフェ。青いカップ。彼女はいつもの笑い皺で言う。


「でも昨日は来ませんでしたよね、先生?」


まただ。

「昨日、僕はここに来たよ」

「じゃあ、二日前かもしれません」

彼女は肩をすくめて、割れた花瓶を少し奥へ下げた。

光の反射が床で揺れる。青が波立つ。


テーブルの砂時計を指先でつつく。落ちる砂の音はしない。

耳鳴りのような高い音だけがする。

そして、目の前のカップの青が、少しだけ飽和した。


5. フラッシュ


午後のブース。少女は深く座り、膝の上で両手を握りしめていた。


「先生、あの…青い色が、消えません」


「副作用かもしれない。次は彩度を下げる」

装置を調整し、再びリンクを繋ぐ。


――まぶしい。

道路。雨上がりの水たまり。信号は青。

青いボールが指を離れ、転がる。

ガラスの破片が空に舞う。

腕を伸ばす誰か――


リンクを外した。

彼女の頬には涙。僕の掌には、細かなガラス片が刺さっていた。

どうして僕の手が傷つく?これは共有していないはずの感覚だ。


6. 自己改ざん


夜、鏡に向かう。

右のこめかみ、髪の生え際に薄い痣。触れると頭の奥が冷える。

机の上の書類。自分が書いたはずの文字が、不自然に揺れて見える。


ファイルを開く。

自己改ざんのログがある。日付は、事故の週。

短いメモ――《患者を救えなかった。色ごと抜く。》

患者?…誰のことだ。

喉の小骨が、やっと言葉に変わる。


「僕だ」


僕は、自分の記憶を弄っている。


7. 邂逅


翌日、少女はブースに入るなり言った。


「先生、わたし、わかってきました。

 先生は、わたしの記憶の中の先生です」


「僕は現実にいる」

「そう見えるように作りました。だって、あの夜――」


彼女の声が遠のく。

リンクなしに、視界が二重になる。

青いボールが指を離れ、僕が走る。

「危ない!」

伸ばした腕が、彼女を道路から弾き出す。

代わりに、ガラスが僕を飲み込む。


戻る。

少女は泣いていた。


「先生は、わたしを庇って…あの夜、死にました」


8. 第一の終わり


カフェに行く。

店員は「今日は来ませんでしたね」とは言わなかった。

彼女の瞳は深い青。

僕は砂時計を握りしめる。


「ここは、仮想空間だ」

口に出した瞬間、店内の青がわずかに薄くなる。

「僕は死んでいる。君が、この世界を作った」

少女が告げた事実を、僕自身の言葉でなぞる。

喉の小骨は、やっと抜け落ちた。


店員がカップを置く音が、なぜか二重に聞こえる。

遠くで誰かが「ログ同期」と言った気がした。


9. 終わらせよう


ブースに戻る。少女は目を赤くして待っていた。

机の上、砂時計の砂は半分。

僕は彼女の手を握る。小さくて、冷たい。


「終わらせよう」

「こわい」

「大丈夫だ。君は生きている。現実に戻れば――」


そこで、彼女は首を振った。

ゆっくり、はっきりと。


「ごめんなさい。わたしも、あの夜に死にました」


砂が一粒、落ちる音が聞こえた。


10. 三層目の天井


天井の蛍光灯が、ふっと暗くなる。

壁紙の白が、薄い格子状に割れる。

ブースの隅から「ビー」という音。

少女は続けた。


「この世界は、わたしが作った先生の夢…じゃない。

 誰かが、何度もわたしたちを再現している」


耳の奥で、遠い別の声が聞こえた。

無機質な男の声。

《試行二百十三、シナリオA-青、収束率72%。ボールは青のまま。砂時計を追加して正解》

《店員のセリフ、昨日は来ませんでしたね、を再投入。同期ズレの反応確認》

《—終端三十秒前。ログ取得、準備。》


僕は少女の手を強く握った。彼女の手は冷たいけれど、確かに存在した。

「君の作った世界じゃないなら、ここは――」


天井が、ひとつの巨大なガラスになっているのが見えた。

無数の僕たちが、反射の中で重なる。

上から、白衣の影が覗き込む。


11. 研究員


別の場所、別の空気。

白い部屋。壁面いっぱいに青い波形。

誰かがヘッドセットを外しながら言った。


「これで事故原因の解析は終わりだ。

 子どもが道路へボールを落とし、二名が保護行動で死亡。運転者の視線は携帯に。

 予測モデルは十分」


もう一人が画面をスクロールする。

「情動の再現性、優秀ですね。色の固定はやはり効果的。青は焦燥を引き出す」

「倫理委員会には、被験者はいないと報告する。

 人の記憶は使っていない。“生成”だ」


彼らは青い砂時計のウィジェットを止めた。

画面の砂は、そこでぴたりと固まった。


12. 終わりの色


世界に色が戻る。

いや、戻ったように見える色が、塗り直される。


カフェ。青いカップ。欠けた花瓶。

店員はいつもの笑い皺で言う。


「今日も遅刻ギリギリですね、先生。」


僕は笑い返す。

ポケットの中で、青いボールが丸い沈黙を続けている。

テーブルの青い砂時計は、最初から砂が落ちていなかったみたいに、静かだ。


喉の小骨は、もう感じない。

ただ、胸の奥で、割れたガラスの形だけが、輪郭を保っている。


砂は落ちない。

でも、いつでも落ち始められる顔をして、そこにある。


『試行二百十三』というタイトルは、物語の終盤にしか意味が明らかにならない。

それは世界の“固有名詞”であり、同時に“消去予定のファイル名”でもある。


三層構造の仕掛けは、読者の視点を三度裏切ることを目的に設計した。

•第一層:主人公は現実に生きるAI技師

•第二層:主人公は死んでおり、少女が作った仮想空間に存在している

•第三層:少女もすでに死んでおり、この世界は第三者が事故再現のために生成したシミュレーション


登場する青いモチーフ(カップ、砂時計、ボール、ガラス)は、

事故現場の情景であり、記憶改ざんの副作用であり、

さらに実験条件として意図的に埋め込まれた“変数”でもある。


二百十三回目という数字は、事故の真相が変わらないまま繰り返された回数を示す。

それでも試行は続く。

記録の中の人物が真実に辿り着くたび、研究員はその記憶を消し、次の回を始める。


もし、これが二百十四回目に到達したとき、何が変わるのか――

それはこの物語の外側で、あなたが知ることになるかもしれない。

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