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屋敷の中に入ると汚れた私のローブを見て、ミラベルは心配そうに駆け寄ってきた。
「シビルお嬢様、転んだのですか?お怪我は?」
気遣わしげな言葉に、彼女は何も知らないのだとわかる。
「ミラベル、ごめんなさい。人と会ってしまったの、それでね……」
私があったことを全て話すと、ミラベルは顔を真っ青にさせてその場に座り込んだ。
「何もなくて本当によかった……」
うっすらと涙を浮かべる姿は、子供を心配する親のようにも見える。
「村人の名簿に名前を載せてしまったわ」
「気にしないでください。命よりも大切なものはございません。お嬢様が無事で本当によかったです」
しかし、ミラベルはひとしきり安心した後に、こう言い出した。
「助けてもらった方とは、もう会わないでください。貴女を苦しめる結果になりますから」
「わかってるわ」
ミラベルは冷たい現実を突きつけて、食事の支度を始めた。
その一件から、ミラベルは村人との交流を持つようになっていった。
前々から食べる物や日用品などは買いに行っていたので、受け入れられるのにはさほど時間は掛からなかったそうだ。
たまにやってくる客が、廃墟のような屋敷に住んでいて驚かれたとミラベルは話していたけれど。
「お嬢様、美味しそうなりんごが手に入りました」
ミラベルはそう言うなり、赤く艶々したリンゴを私に見せてくれた。
「村の方がくださったのです」
村の人からは、何かと農作物を貰うようになった。しかし、何も育てていない私達に返すものはない。
もし何かをお礼として渡すなら、定期的に届くこんなところで着るには場違いなドレスくらいしかない。
届くドレスには一度も腕を通したことはない。
しかし、それは自分が何かを作ったという事にはならない。
「何かお礼がしたいわ」
着ないドレスを切って、刺繍でもして村の人たちに配ろうかしら。
私は、漠然とそんなことを考える。
話すことはなくても、少しは喜んでくれるだろうか……。
顔さえ見えなければ貰うのに躊躇しないかもしれない。
「大丈夫ですよ。私がちゃんとしますから」
ミラベルのその一言に、私は寂しい気分になる。
私はいつもミラベル以外の人と顔を合わせることもない。
「……そう」
きちんとお礼を言いたくても、それをする術を持たないことはもどかしい。
「私は一人暮らしだと伝えてあります。くれぐれも人に見られないようにしてください」
「わかったわ」
私だってお礼がしたい。誰かと話したい。いない者として扱わないでほしい。
ミラベルだけは私を知っていてくれるけれど……。
だけど、友達でもなんでもない。親同然の乳母だが、私のことを愛してくれているのかといえば、そんな事はないだろう。
そう思うと胸が苦しくなった。
あの、青い目をした少年に私は会いたくなっていた。
あの魔物の件以降、ミラベルは私を外に出すことを嫌がった。
なかなか屋敷から出られない中で、ようやくチャンスが巡ってきた。
ミラベルは、ヘンウッド家と定期的にやりとりをしていて、その際に、金銭などを貰うこともあったので、人と会いやりとりをしていた。
その日は、夜遅くまでミラベルは屋敷にいなかった。
私はいつも、その日は、屋敷から一歩も出ずに過ごしていた。
しかし、こっそりと屋敷の外に出ようと考えていた。
屋敷の中にずっといるのは気分が落ち込む。小さな庭に出てもそれは薄れなかった。
いよいよその日がやってきた。
「お嬢様、行ってまいります。くれぐれも外には出ないように」
「……わかってるわ。気をつけてね」
私は、やましさがあってミラベルの顔を見ることができなかった。
ミラベルの後ろ姿が見えなくなったのを確認すると、私は急いで身支度を始める。
「さあ、行こう」
私はローブを深く被ると屋敷を出た。
いつものように草原に向かい歩き出すと、湿り気を帯びた風が吹き抜けていった。
大きく息を吸い込むと、少しだけ気分が晴れた気がした。
やはり、外と中では空気が違う気がする。
大きく伸びをしていると、背後から声をかけられた。
「おい、お前」
聞き覚えのある声に、私の胸はドキリと高鳴る。
振り返ると湖畔を思わせるような青い双眸が私を見据えていた。
あの時は、甲冑を着ていたのでわからなかったが、蜂蜜のような艶やかな髪の毛をしている。
まるで、絵本で見たような天使のように綺麗だ。
身に付けている物が平民の物なので違和感がある。
もしも、煌びやかな服を着たら高貴な身分だと言われたら、誰もが信じてしまうだろう。
ただ、その場に立っているだけなのに気品がある。
「どうした?」
「あぁ、村長さんの息子さん!」
見惚れてしまったバツの悪さで、私は思わず大きな声を出してしまう。
「っ、そうだ」
村長さんの息子さんは、驚いた顔をして返事をした。
「その、村長さんの息子さんはやめてもらえないだろうか?」
村長の息子は、困ったような顔をしてそう言ってきたが、私にはなんと呼べばいいのかわからない。
「なんて言えばいいのかしら?」
「……ジョンでいい」
ジョンは明らかに考えるそぶりを見せて、いかにも偽名を名乗った。
こうもわかりやすいとなんだか清々しい。
「わかりました」
私はあえてそれを言わなかった。もし言ってしまえば、二度と話すことはなくなるような気がしたからだ。
「お前の名前は?」
「シビルです」
ジョンに問いかけられて私は考えるまでもなく、自分の名前を名乗った。
「いいのか?本当の名前を言っても、知られたら困ることだってあるんじゃないのか?」
「構いませんよ」
そもそもいない人間として扱われているので、名前を知られたところで困ることなどない。
「そうか」
ジョンはなんとも言えない表情でこちらを見る。