百三頁 牛 捌 『お父さん』
百三頁
牛 捌
『お父さん』
阿久津と小鳥と牛の四人が出て行った後の二年二組の教室で、鬼釜と小泉が話し合いをしていた。
「んだよアイツ⁉︎ 裏切る気かよ⁉︎」
鬼釜はそう言った後、伸び過ぎた左手の人差し指の爪を噛み切り吐き捨てた。
「かもね。くだらねぇ情にほだされやがって、マジ救えねぇ」
そう言うと小泉は、さっさと帰り支度を済ませ、教室から出て行こうとした。
「はっ? 何処行くんだよ寧々⁉︎」
「帰るの。つまんないから」
「阿久津が抜けるかもしれねぇんだぞ⁉︎ 作戦会議とか、するべきなんじゃねぇのか?」
「はぁっ? 二人で何が出来んの? 分かってると思ってたからあんまはっきり言わないでおこうと思ってたけどさぁ? つまんなくなったら、ねねももう協力なんかしないからね?」
「舐めんなよ? わたしが混沌に塗れたもっと楽しい学園生活をお届けしてやるよ」
「ははっ、良いね。その意気込み、忘れ無いでね?」
「あぁ……」
小泉は、目を真っ赤に血走らせた鬼釜を教室に残し帰って行った。
場面は阿久津の家へと向かう四人へ切り替わる。
「ってか阿久津? 良いのか? 家にお邪魔して……」
小鳥が阿久津を慮った。
「大丈夫。あの手紙に書いた事はね、とても昔の事なの。今は、あの時程劣悪な環境じゃ無いよ」
「そっか。じゃあお前が帰りたく無いって言う家の環境も、なんとかなるかもな?」
「ならないよ」
「えっ?」
「見れば分かるよ」
そのまま会話をする事も無く、阿久津の住むアパートへ向かった。
阿久津の話しを聞いた後だからなのか? それとも、周りに築の浅い建物が囲っているせいか、そのアパートは、女子高生が住んでいるとは思えない程、見窄らしい佇まいだった。
阿久津に続いて階段を上ると、老朽化が進んでいるせいか、キシッキシッと鳴るその音が、中年男性の悲鳴の様に聞こえた。三階までやっと辿り着き、阿久津は一番手前のドアを鍵さえ取り出さずに開けた。一瞬、阿久津が苦い顔をしたのだが、声を振り絞る様に言った。
「いいよ? みんな入って?」
小鳥と牛の二人は、その声に導かれ玄関まで近寄って行き、絶句した。そこに、玄関の先の通路に、丸まって俵の様になっている男が寝息をかいていたから。
「誰⁉︎」
牛嶋が思わず大きな声で叫んだ。
「しっ。静かにして? 寝てるから。お願いだから、起こさないで?」
「お父さん、なの?」
嶋牛が阿久津に聞いた。
「うん」
阿久津は、目を合わせず応えた。
「分かったでしょ? 友達を連れて来るべき所じゃ無い。わ、私……同情されたくて、連れて来たんだァ……」
阿久津の声は、震えていた。
「強がんなよ……」
小鳥が言った。通された部屋は、十畳程の部屋だった。隣にちょっとしたキッチンがある1DKなのだが、掃除が行き届いており、不潔な印象は無かった。と、言うより、人が生活をしている痕跡がほぼ無かった。ただ、キッチンの隅に置かれている大量の一升瓶だけが異彩を放っていた。
「私、この部屋に居るとね? 居ないの? この世に」
「はっ?」
「わ、私、居ないの! 居ないの居ないの居ないの居ないの居ないの居ないの居ないの居ないの居ないの居ないの居ないの居ないの居たく無いの‼︎」
「オイ阿久津⁉︎」
小鳥が阿久津の肩を掴んで叫んだ。
「嫌だ……真央って呼んで? お願い。私の事、真央って呼んでよ……?」
「分かったよ……真央、お前、もう限界だったんだな?」
小鳥の問い掛けに、阿久津が小さく頷いた。
「今は、どういう環境なの? 手紙では、幼少期の頃までしか書かれて無かったけど?」
牛嶋が阿久津に聞いた。
「お父さん、アルコール中毒なの。もう仕事も出来なくて、ずっと家に居る。起きてる時はずっと、お酒飲んでる。よく眠るんだよ? 色んな所で寝ちゃうの。台所とかさっきみたいに玄関の通路で。でも、ここ数年は、この部屋で寝てるの見た事無いな」
「えっ? でも、この家の中で寝る場所って普通、ここになるよね?」
十畳程の広めのその部屋を見渡しながら、嶋牛が言った。
「多分ね、罪悪感があるんだと思う。お父さん、いつからか私の傍に近付こうとしない様になったの」
「それって……」
「手紙に書いた事の時期からだよ。私にとっても印象深い事だから覚えてるけど、あれから、お父さんは、私と距離を置く様になった」
小鳥と牛の二人はなんとなく気付いていた。それが、手紙のどの部分を指す事なのかを。アルコール中毒になってしまった男は、絶望への一線だけは守ってくれた。そして、その事をいつまでも悔いている。
「会話って、あるの?」
「あるよ。でも、いつも酔ってるから、訳、分かんない」
「酷い事、されたりしてない?」
「無いよ。ただ、そろそろ限界なんだ。私も、この家も」
「どういう事?」
「多分、慰謝料で支払われたお金がもうすぐ底をつく。最近、お金が、お金がって呻いてるから。でもね? 数年前からキャバクラに行くのやめたんだよ? 偉くない? 貯金の残高が減ってきて、私との生活を守る為に、キャバクラ通いをやめたんだよ?」
「そんなの、家に一人娘が居る時点でするのおかしいから! しかも……自殺しろだなんて……おかしいよ、そんなの!」
「……言って無い。ごめん。言って無かったんだった。自殺しろなんて、お父さん言って無かった。私の、勘違い、思い違いだった。だから、ねっ?」
阿久津は、父親を悪く言われる事に嫌悪感を露わにした。自身の真っ直ぐだった筈の心を歪ませた男を、何の見返りも無いのに、庇い続けた。
「お前、父親の事、好きなのか?」
小鳥が阿久津に問うた。
「なんなの……そんな話しする為に連れて来たんじゃ無い‼︎」
「お前は、心から父親の事を嫌う事が出来ないんだな? 優しい奴なんだな。でも、その心は叫んでるだろ?」
「何を……言ってる?」
「お前……真央は、家に、帰りたく無いって言ったじゃ無いか⁉︎ それが、お前の本音なんだろ⁉︎」
「だからって、誰も、誰も! 何もしてくれないじゃん‼︎」
「私の家に泊まりに来いよ。こんな所に、これ以上お前を閉じ込めたく無い」
「はっ? マジで……言ってんの?」
小鳥は、しっかりと阿久津の目を見て言った。
「大丈夫だよ? 取り敢えず、この部屋から出るぞ?」
「……うん」
阿久津はそう返事をした後、俯いた。多分、小鳥に涙を見せない為に。
阿久津が押し入れを開けると、教科書やら布団やら服やらが敷き詰めてあった。この部屋に生活感が無かったのは、阿久津が今も存在を消して過ごしているからだったのだろう。
「まだか?」
小鳥が阿久津を急かした。
「こ、こんなの初めてで、どう、何を、準備したら良いのか分かんなくて……」
「適当で良いんだよ! ほらっ、行くぞ!」
小鳥が阿久津の手を握った。
「もぉ……せっかちなんだから……」
そんな事を言いながらも、阿久津は嬉しそうな表情を浮かべ、小鳥の手をしっかりと握り返した。




