百十一頁 栗鼠 壱 『小鳥鈴香』
百十一頁
栗鼠 壱
『小鳥鈴香』
大学四年生の夏、私は恋をした。相手は、同い年の小鳥英治。
私は、器用に誰とでも喋れる側の人間じゃ無いから、ただ遠目から、彼の事を見つめていた。
彼の声が好き。聞いていると、落ち着くの。彼の指が好き。細くて、とても綺麗なの。彼のファッションセンスが好き。私も同じ服着たい。何処で売ってるのかな? 彼の髪型が好き。短髪だし流石に同じ髪型にしたいとは思わないけど、何処の美容室行ってるのかな? 彼の昼食が好き。学食をいつも二つも頼むの! いっぱい食べる男の子って、見ていて気持ちが良いもの。彼の、全てが好き……
私は、想いを伝える事なんて諦めていた。だってそれまでの人生でも、好きになった人に告白した事なんて無かった。伝えられないまま離れてしまうむず痒さに、慣れてしまってさえ居た。私にとって恋とは、心の中で完結させるものだったんだ。
涼子とは、二年の時から仲良くなった。同じ講義を受ける事が多くて、自然に話しをする様になっていた。
「鈴香ってさ? あんまり男の子と喋ってるの見ないよね?」
ある日、涼子が私のあまり触れられたく無い所を突っついて来た。
「あっ、うん……ちょっと、苦手なの。男の子と話すの……」
「私とか他の女の子とは普通に喋るじゃん? 男だけ? 苦手なの」
「苦手、かな……」
「今までの彼氏とかどう出逢って発展させた訳?」
「そういうの……無かったから」
「はっ? 彼氏、居た事無いの? マジかよ……」
「引くなよ……普通に傷付いてますけど?」
「あっ、違う違う! 鈴香可愛いし、モテるんだろぉなぁとか思ってたから、あまりに意外でさ! 男の話しとか聞いた事無かったじゃん?」
「まぁ、言った事無かったけど」
「機嫌直せよ! マジ悪い意味で言った訳じゃ無いんだよ! なっ?」
やっぱり私は、少しおかしいのかな? 男の子とはどうしても、普通に話せなくなってしまう。そのせいで、愛嬌の無い女だと陰で言われていた事も知っていた。そうするとまた、自分の殻に閉じ籠る様になってしまう。
思い詰めたまま学校の廊下を歩いていると、誰かと肩をぶつけてしまった。
「あっ、ごめんなさい。って、あっ……」
その相手は、小鳥英治だった。
「いや、俺の不注意だったよ。ごめんね? ……あっ、て、どうしたの?」
ヤバッ、あっ、とか言っちゃった。急に、意中の人が目の前に現れたものだから、驚いてしまったんだよ。
「な、何でも無いです! それじゃ……」
同い年なのに敬語を使ってしまってる。私は、逃げる様にその場を立ち去ろうとした。
「待って」
彼に、肩を掴まれた。
「あ、あの……離して、下さい……」
私は、怖くなってしまった。男という未知の生物が。あんなに細くて綺麗な指が、こんな強い力で私の肩を掴んでいるという事実が、怖かった。
「あっ、ごめん! ただ君に、聞きたい事があっただけなんだ」
「えっ? なんですか?」
「授業中、よく目が合うよね? その……なんていうか、俺、意識しちゃっててさ……」
恥ずう⁉︎ 私がやたらと見てたのバレてた⁉︎ か、顔が熱くてしょうがないんだよ!
「ち、違うから! か、勘違いじゃないかな⁉︎」
私は、必死になって取り繕っていた。
「マジか⁉︎ 俺、なんか恥ずい奴だな。これじゃ、ただ俺が君の事を意識して、チラチラ見てたのをバラしただけじゃん……」
はっ? はっ、はっ、はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあッ⁉︎
「み、見てたって、なんで……?」
「何でってそりゃ……君の事、可愛いなって、ずっと思ってたから」
マァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァアッ⁉︎ マァっ?
その場で連絡先を交換し、往復二十二回目のメールで、英治と付き合う事になった。一回目のデートでキスをして、二回目のデートで抱き締められて、三回目のデートで一人暮らしの彼の部屋に泊まった。
彼と廊下でぶつかってから、一週間で私の人生は百八十度変わってしまった。彼が、私の全てになった。私は、それまでの人生をつまんないと感じた事なんて無かった。でも、彼と過ごす日々の楽しさを知ってしまった私は、また、彼の居ない、独りきりの人生に戻る事が怖くて仕方がなくなってしまった。
誰がどう見ても、依存しきっている。危うい、危ういよ……分かってる。そうか、だから私は、男の人を避けて生きて来たんだ。好きになってしまうと、もう戻って来れない所まで潜ってしまうから、男の子と関わらない様にしていたんだ。
ねぇ? もう無理だよ? ここまで蒼くて深い海の底まで潜ってしまったら、一人では浮き上がれなくなってしまったんだ。あなたに手を引いてもらわないと、私はもう、息をする事さえ出来ないんだよ?
信じて、良いんだよね? あなたが、いつでも優しいあなたが、初めての人で良かった。
英治と付き合い始めて一ヶ月程が過ぎた頃だったと思う。いつもの様に、教室で涼子とお喋りをしていた。
「ねぇ鈴香? あんた好きな人とか居るの?」
今はそんな質問も、自分の劣等感に苛まれる事も無く聞ける。
「居ないよ? 涼子は居るの?」
本当は、付き合ってる人が居るんだって言いたかった。ノロケ、になるのかな? だとしても、私の幸せを、涼子にもお裾分けしてあげたかったんだ。でも……彼が、英治が、「俺と付き合っている事は誰にも言わないでね」って、「俺、学校内でそういう噂が立つと、楽しく無くなっちゃうんだ」って言うから、誰にも言わなかった。
涼子になら、とも思ったけど、そのせいで彼と別れる事になってしまったら、私は自分を許せないし、その原因を作った涼子の事さえ嫌いになってしまいそうだったから、言わなかった。
「私ね? 好きな人、出来たの!」
ついこの間、彼氏の愚痴言ってたよね? その人とは、もう別れたの? まぁ、人の恋愛なんて、どうでもいい事か。
「へぇー、誰?」
「小鳥君! 知ってる? あの人、彼女居たりするのかなぁ?」
小鳥……? 嘘でしょ……小鳥英治は、私と付き合っているよ? でも、その事を彼女に言って、もしも言った事が彼にバレてしまったら……
「どうだろうね……私、そういうの、良く分からないから……」
私は、自分だけの為の嘘を、友達に吐いた。本当は感じていたんだ。その時から纏わり憑き離れない、悪い予感を。




