こじらせて歌論書。
タイトルからピンときた方もいらっしゃるかも知れませんが。
「こじらせた歌人はこじらせた歌論書を書く」という偏見を形にしてみました。
はじめに詩学ありき。
漢詩を研究する学問が「詩学」と呼ばれている?
ならば和歌を研究する学問は「歌学」と呼ぼうではないか。
漢詩を作る方法が「詩式」と呼ばれている?
ならば和歌を作る方法は「歌式」と呼ぼうではないか。
漢詩の経典が「詩経」と呼ばれている?
ならば和歌の経典は「歌経」と呼ぼうではないか。
次いで歌学ありき。
「和歌に関するすべてを研究する学問」である「歌学」(広義)は、和歌に関する諸知識を求める「歌学」(狭義)と、和歌の本質を論じる「歌論」とに大別される。前者について著した書物が「歌学書」、後者について著した書物が「歌論書」である。
「歌学書」と「歌論書」とは歌学(広義)の両輪のような役割を果たしながら発展した――などということは一切なく、「歌学書」が圧倒的に歴史が古い。「現存する最古」と言われる『歌経標式』(藤原浜成著。奈良時代成立)もまた「歌学書」であり、平安初期のものはすべてこれである。
歌学の確立を受けて、純粋に「和歌の本質」のみを論じる「歌論書」が藤原俊成・定家親子などから生み出される一方で、主観的な歌論を隠れ蓑に他派叩きや個人攻撃を目的として振りかざされる「歌論書」も数多く生み出された。これは六歌仙の歌風について個別に論じた(こき下ろした、と言う方が正しいかも知れない)「古今和歌集仮名序」(紀貫之著。平安時代中期成立)にその始まりを見出すことができるだろう。
成立時点から異端として叩かれ、邪道扱いされてきた京極派と、その創始者である京極為兼は格好の餌食であった。
代表歌どころか実作歌かどうかも定かではない「荻の葉をよくよく見れば今ぞ知るただ大きなる薄なりけり」をネタに「かの卿の歌の趣のごとくならば」「何ぞいま和歌と世俗と同じくせんや」と為兼を叩きに叩いた二条派の『野守鏡』(著者不明。六條有房説があるが採らない。1295(永仁3)年9月成立)がその代表であり。
為兼の歌風を「いやしくあしき風」と断じる『うひ山ぶみ』(本居宣長著。1798(寛政10)年成立)などが知られている。
同時に、たとえ王道扱いとされてきた二条派であっても「目をつけられれば叩かれる」。そういうやり方が「歌論書」の世界では長年横行してきた。
「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」だの「香川景樹は古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申す迄も無之候」だので知られる明治時代中期の「歌よみに与ふる書」(正岡子規著)もその一つ。
では、これから読もうという『為兼卿和歌抄』はどんなスタンスの歌論書なのか。
願わくは誰がどうの他派がどうのではなくて、ただただ和歌が好きなだけの熱血和歌バカによる熱血和歌理論の書であることを願ってやまない。――願わくば。
京極派からは離れますが「こじらせ歌人の代表=正岡子規」という偏見がダダ漏れてしまいました。
ちなみに。
そんな子規による俳壇叩きが気になる方は、『子規は何を葬ったのか―空白の俳句史百年』(今泉恂之介、新潮社、2011年)を参照されたし。
人間、自己顕示欲を満たすためならここまでやれるんだ、と勉強になります。