こころが先とことばが先と。
こころ派とことば派の確執と言い分については前回まででひとまずお分かりいただけたかも知れませんが、では、「こころが先の歌」と「ことばが先の歌」とはそれぞれ具体的にはどんな歌なのか。
その一端を、ほんのちらりとでも感じていただけたらということで、今回は作者を紀貫之一人に絞って、それぞれに該当していると言えそうな歌をご紹介しておこうかと。
◆こころが先の歌。
とりあえず「はじめにこころありき」と感じられる歌を採りました。
「今日明けて昨日に似ぬは見る人の心に春ぞ立ちぬべらなる」(紀貫之・貫之集0411)
(今日が明けて(立春の今日が)昨日に似ていない(=昨日とは違って感じる)のは見る人の心に立春という春がやってきたからのようだ。)
「今日に明けて昨日に似ぬはみな人の心に春の立ちにけらしな」(紀貫之・玉葉集0001)
(今日(立春の日)に(夜が)明けて(立春の今日が)昨日に似ていない(=昨日とは違って感じる)のはすべての人の心に立春という春がやってきてしまったらしいなあ。)
季節の移ろいも、結局は心に拠るものだ、という為兼の主張を体現した歌。
そりゃあ、為兼も自身の集大成とも言うべき勅撰和歌集の「巻頭歌」(=一般的にはその和歌集を象徴するような歌が置かれる)に据えるよな、と。
前者は恐らく貫之が詠んだ古今調そのもの、後者は恐らく為兼が京極派調寄りに軽くリメイクしたもの。
◆ことばが先の歌。
一番わかりやすいのは「お題の言葉を和歌に詠み込む」という縛りのある「物名歌」かな、ということで、物名歌を撰んでみました。ちなみにこの「物名」という部立(=ジャンル)、『古今和歌集』以下九つの勅撰集に採られているんですが、こころ派である京極派の集大成『玉葉和歌集』と『風雅和歌集』には採られていないんですよね。――やはり「言葉ありきの歌」「言葉の縛りがある歌」というのが嫌だったんでしょうか。
「すももの花」を詠み込めという縛りで一首。
「今幾日春しなければ鶯も物は眺めて思ふべらなり」(紀貫之・古今集0428)
(あと何日しか春がないのでウグイスも物を眺めて思い悩んでいるようだ。)
さて、「すもものはな」がどこに詠み込まれているかお気づきでしょうか。――「すも、ものはな」とした方が分かりやすいかもしれません。
正解は三句と四句、「うぐひ『すもものはな』がめて」の部分でした。
さすが貫之、違和感がありませんが、中には頑張りに微笑ましくなる歌(紀友則・古今集0442)や、笑うしかない歌も。
ただ、何事にも名手はいるもので、物名歌の名手には藤原輔相(『拾遺和歌集』37首入集。しかも物名歌のみ)がいました。
もっと劇的な差を演出して、こころ派の援護射撃というかステマというかができたら良かったのですが、歌人ではない私にはハードルが高すぎました。ひとまずは「ことばによる縛りがあるかないか」で考えていただけたら幸いです。
代わりに為兼のことばを思う歌を置いておきます。
「思ひみる心のままに言の葉のゆたかにかなふ時ぞうれしき」(金玉歌合)
「種となる人の心のいつもあらば昔におよべやまとことのは」(金玉歌合)