9.いつから(2)
いつから(2)
「ふう〜、さすがに疲れた。あっそこ左折してちょうだい、トリトンホテルに泊まるの」
正体のないしかも男の身体は、支えるだけでも重労働だ。女はやっとの事で男をタクシーに乗せた。薬の効き目があるうちに「既成事実」を作らなければならない。運転手は、黙ったまま左折のウインカーを点滅させる。さっきはまだ、何やらうわ言を話していた男もやがて何もしゃべらなくなった。
「女が男を酔わせて、ホテルに連れ込むなんてな」
二人がルームミラーから消えると、そうタクシーの運転手が言葉を吐いた。
ツインルームに入ると早速女は男をベッドに放り出す。
「明日朝、コタロウなんて言い訳するかしらね。さてと……」
女は手早く男のネクタイを抜くと、ワイシャツのボタンに手を伸ばした。薄いピンクの「ネイル・アート」の乗った細い指先は、こうして何度「既成事実」の「扉」を開けたのだろうか。
と、その腕を男が突然掴んだ。
「え、何?、薬が効かなかったって事?」
「いいや、小太郎はぐっすり眠っている。おかげで俺が久しぶりに自由に出てきたって訳さ」
「あんた、何者よ。からかうのもいい加減にしろっての。あーしらけちゃう、ハイハイ、ごめんごめん、冗談だってばさ」
かなり狼狽した女は、少し震えながら抜き取ったネクタイを男に投げつけた。
「俺は『雅夢沙羅』ガムシャラという、まあ勤勉の神と呼ばれることもある」
「ガムシャラ……、その『ガム』が何で小太郎から出てきたのよ!」
「まあ、その前に楽しもうぜ」
男は女の細い腕を持ち上げ、強引にキスをした。
「あっ、なんかいい感じ……」
女の身体からすうっと力が抜け、男は軽く笑みを浮かべた。翌朝、女はいつもの「固い」ベッドの上で目覚めた。
「なんだぁ、夢だったのか。でも結構いい感じ、即実行しなきゃね」
そう言って女は「今日のバッグ」にエルメスの中身を移した。
「あ!このネクタイ、あいつのだわ、ということは……」
女は見覚えのあるそれを見つけると、急いでトイレに駆け込んだ。そして残念そうな顔をしてトイレから出てきた。
「うーん、途中までうまくいってたみたいなんだけど。やっぱりダメか……」
女は、ベッドの側の段ボールから、きちんとたたまれたブラウスを取り出し、洗面所に消えた。
女は「香坂未唯」という。誰でも名前を知っている、大手の証券会社が子会社化した都内でも中堅どころの「損保会社」に勤めていた。はっきり言えば「地味」な事務員だ。社内に彼女の「アフター・シックス」を知るものはいない。社内では目立たない女。彼女にとっては灰色のロッカーが魔法の宝石箱だ。黒い制服の袖に腕を通し、襟元のチェックをすると彼女はいつもの「OL」に変わった。
やがて、18:00が来た。
「お疲れ様です」
「おお、お疲れ。今日も電車かい?」
声を掛けてきたのは、廊下でいつもすれ違う「富田部長」だ。
「そうですけど、何か?」
「いや、彼氏のお迎えとかないのかなって。もったいない、世の男どもは……」
「部長それって、セクハラ結構入ってますけど……」
「あはははっ、ゴメン。俺はこう見えても見る目はあるからね、君は……」
「失礼しまーす」
お辞儀ひとつを残して、彼女は更衣室に逃げ込んだ。
「嫌いじゃあないけど部長には、今日はあまり付き合っていられないの」