4.baguette
市内電車が停車中、前かごからこぼれそうなバゲットが気になる。
俺はワタル、信号待ちのタクシーの中からそれを見ていた。
「pico、ピコ、ぴこ」
一斉に歩行者がすれ違う、その大きなバゲットは青い自転車の前かごに入ったまま、電車にあっという間に追い越されて行った。
「T字型」の橋を渡り切った左手に彼女のマンションがある。5階建にもかかわらず、エレベーターはない。だかその代わりに家賃は二万円は安い。マンションに着くといつも彼女は、階段を使い三階まで自転車を押し上げる。
「ミキ、今どきそんな自転車盗らないって」
「あら知らないの、これパンクレス。結構レアものなんだから」
「知ってるさ、俺が買ったんだからね。それより、そんなにたくさんのバゲットどうするつもりだよ」
「食べるにきまってるでしょう、朝も昼もそして夜もね」
「うぇーっ、冗談だろ!」
あの頃彼女は、俺の薄給をパートでカバーしていた。そんなことを思い出した。
間もなく彼の乗った車は退屈な「バイパス」にかけあがった。そして20分後、彼の車は閑静な住宅街に止まった。タクシーが走り去り、彼は玄関のドアノブに右手をかけた。
「そうか、まだ戻っていないのか」
彼はノブに重い感触を感じたのだ。まだ十五時、自宅のドアの鍵を彼は持っていない……。
「仕方ない 」
彼は妻が戻るまでに、会社では控えているタバコを立て続けに吸った。
数時間前の事が頭を駆ける。彼はたった数分を辛抱しきれなかった。卑劣な役員が手で顔を覆い、どうと倒れたきり、動かなくなった。そして若い役員が、会議室からつまみ出された。彼は本日付で初めて失職した。だが彼は不思議とさっぱりしていた。
「すごいじゃない、役員おめでとう。ねっ、これって内助の功よねぇ。ゆ・び・わ、よろしく」
「マイホーム優先、そのうちな」
「そっかあ、そのうち家族も増えるものね」
部下がきっと妻には連絡しているだろう、少しだけ彼は現実に引き戻された。
あちこち傷んでいる軽自動車が見えた、ミキが戻った。彼はうつむいたままもう一本のタバコに火をつけた。
「しょうがないなぁ、一日10本までなら許してあげる。借家で火事なんて出したらおもいっきりアウトよ」
「ミキはいつものように言ってくれるだろうか、それとも……」
彼には自信がなかった。
「こらーっ、台所以外では吸っちゃダメって、もう。それより手伝ってよ、早く!」
手渡されたのは結構重い買い物かご、中身は新しい「オリーブオイル」と「バルサミコ」だ。妻が笑いながら後部座席を指差した。
ひと抱えのバゲットがドサリと乗せられていた。