3.遠雷
尾根に沿って青い煙が立ち上る。その様子に男は長い槍を握り直した。
「サキ、雨が降る。シシもわしらの匂いを嗅げまい」
しかし、女は黙り込んだ。サキと呼ばれるのはいやだった、女はさらわれる前はミトと呼ばれていたのだ。
「おい、返事くらいしろ。それともまだ浜が恋しいのか」
「ああ、こんな山奥で獣を殺す、血なまぐさいあんたなんかより、海人の方が……」
横つらを男に殴られ女は洞穴の中で転がった。片方の足かせには重い石がくくりつけられていた。
男は、ねぐらに戻ってきたシシの急所をひと突きで仕留めると、本降りの雨の中でその皮を剥いだ。
「できたか、サキ」
手早く解体を終え、男は洞窟の中の女に酒の催促をした。女はちらりと男の左手の肉塊を見た。
「食え、旨いぞ」
「ああ」
次第にその独特の匂いも気にならなくなっていく、女はサキと呼ばれてすでに半年になる。
「ああ、いやだ。こんな男のものになるなんて……」
女は男を乗せたまま洞穴の天井を見てはそう思っていた。
「サキはどうして俺から逃げようとするのだろう?」
男にはそれが解らなかった。獲物を殺して食う事に魚も獣も無い。それに何より男は山人の中で誰にも負けない体を持ち、狩りも上手かった。浜でその女を見るまでは、山人のある娘を男はずっと好いていたのだ。
「サキが死んだって、馬鹿なことを言うな」
男はシシの落とし穴に仕掛けた竹槍に、無惨に串刺しになった女を黙って抜き取った。その女と瓜二つの女がミトだったのだ。浜でその女を見た男は気が付くと女と一緒にいた海人を殴り殺していた。
以来女は男の元にいる、だが側にいるだけだ。男は次第に女の憎悪の目を見るのが怖くなった。
「そろそろ寝たか……」
男はこのシシ穴に女を置き去りにしようと連れてきていた。手早く身支度を整え、女の寝息を確認すると男はそっと足かせを外した。香木でいぶし、シシの匂いを消した皮を女の枕元に置いた。
「サキ、この山の向こうがお前のいた浜だ。戻るがいい、今まで済まなかった」
干し肉は全て女に残し、男は血の匂いの残る剥いだばかりのシシ皮を体に巻いた。
「さて、そろそろ行くか」
女に背を向け、そうひとりごちした男に、女の声が響いた。
「サキってあんたの女だったのね、海人が話していた」
「……」
「海人から逃げる途中、自分で落とし穴に飛び込んだって……」
「……」
「あんたの子をはらんでいたって……」
「……」
「あんたが、私を女にすると言ってくれなかったら、あの時とうに殺されていたって……」
「おしゃべりなオサめ、いつ聞いたサキ」
「いつだっていいでしょ、あんたの気持ち解ったんだから。さあそんなシシ皮なんて脱ぎなさい」
「ゴロゴロドドーン」
突然大粒の雨が降り始めた。居座った雷のおかげで山人の歓喜の声が外に漏れる事は無かった。