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9.情報

 春の訪れを待っていたかのように、今年も社交界は賑わいを増す。

 オーレンが言った通り、私に関する悪い噂は影を潜め、寧ろ可哀想な被害者だという見方に変わりつつあるようだ。先日、久方ぶりに招待を受けて他家のお茶会に出かけて行った母が、安堵したような柔らかい表情でそう話してくれた。

 以前なら、この時期にはリッツスタール侯爵家所縁の貴族家から夜会や園遊会の案内が届いていたのだが、勿論今年はそういった類の案内状は一通も来ない。

 代わりに届いたのは、デューク侯爵家からの夜会の案内だった。

 デューク侯爵は夫婦揃って賑やかなことが好きで、度々自宅で夜会を催している。芸術にも造詣が深く、趣味の合うランデル伯爵夫人とは親しい関係にあるらしい。

 デューク侯爵家の夜会には、これまで何度か参加したことはあった。デューク侯爵は若い貴族が交流を深める場を提供するという理由で、特に縁もゆかりもない貴族子女にも招待状をくださっていたからだ。その時は、勿論アルベルト様にエスコートしていただいた。まだ、リリィ嬢が社交界に現れる前の話だ。

「あの夜会には、きっと彼らも連れ立ってやってくる。私とあなたとの関係を皆にお披露目するいい機会だ」

 オーレンの言葉に、思わず身震いする。

 ――ついに、その時が来たのだ。



 夜会前日、最終確認の為に彼が我が家を訪ねて来た時、オーレンは唐突にその話題を振ってきた。

「事前情報として、彼らが今どういう状況にあるか、あなたは知っておいた方がいいだろう」

 受け止める心の準備はいいか、と問うようにオーレンは上目遣いでこちらを窺う。

 喉の奥に何か塊が詰まったような息苦しさを感じて、私は両手で胸を押えて深呼吸を繰り返した。

 もしかしたら、あの二人はすでに婚約を交わしているのかも知れない。

「あの二人は、順調に交際を続けているようだね。夜会や街中で、仲睦まじい姿を度々目撃されている」

 焼けるような、苦い痛みが胸に広がっていく。

 やはり、私があれほど深く傷つき嘆き悲しんでいる間にも、あの二人は愛を育んでいたのだ。そして、私を簡単に切り捨てたリッツスタール侯爵家は、リリィ嬢を喜んで受け入れたのか。

 ……私の何が、それほど駄目だったのだろう。

「ただ、まだ婚約には至っていない」

 その言葉が耳に届いた瞬間、私は思わず目を見開いて、オーレンが嘘を吐いていないか表情を窺った。それが本当のことだと確信できると、無意識に強く握りしめていた手から力を抜く。

「やはり、侯爵家と男爵家では身分の差があり過ぎるのに加え、リリィ嬢の出自が難点になっているようだね」

「そうでしょうね」

 冷静を装ったつもりなのに、答える声がうわずってしまった。

 格式高いリッツスタール侯爵家が、平民の母を持ち、平民として育ったリリィ嬢を歓迎するはずがない。やはり、私が思っていた通りだった。

 ただ、少し不安もあったのだ。もし、リッツスタール侯爵家が身分の低いリリィ嬢をあっさり受け入れていたとしたら、これまで努力を積み重ねてきながら切り捨てられた私の価値がいかに低かったか思い知らされることになる。

 そうでなかったことに内心ホッと胸を撫で下ろした私の心を見透かしたように、オーレンは口角を上げた。

「あなたは間違ってなどいなかった。それなのに、ただ一方的にあなたを悪者にして、儚げに見えて実は他人の婚約者を平気で奪うようなリリィ嬢の強かさに気付くことなく、アルベルトは彼女の手を取った。あの二人の恋路に苦難が立ち塞がるのは自業自得だ。精々、苦しめばいい」

 私の代わりに、憎しみを吐き出してくれるオーレン。その、他人の口から聞く悪意ある言葉は、私の中に渦巻く怒りを収め、冷静にさせてくれる。

「……でも、できれば、もう周囲を巻き込むようなことはして欲しくないわ」

「そうだね。彼女がアルベルトと別れるようなことになったら、また誰の婚約者に手を出すか分かったものじゃない」

 おや、と首を傾げてオーレンを見つめると、私の仕草にオーレンも目を瞬かせる。

「何?」

「もしそうなったら万々歳じゃないの? 今度こそ、彼女を手に入れるチャンスじゃない」

「ハッ、冗談はやめてくれ。誰があんな……」

 鼻で笑ってそう言いかけたオーレンは、不意に笑みを消して考え込むような仕草を見せた。

 そのまま黙ってしまったオーレンの不機嫌そうな顔を見つめながら、何か悪い事を言ってしまったのではないかと不安に襲われる。

 このまま、彼が怒って立ち去ってしまったら。今の関係を解消しようと言われてしまったら。でも、何と言って彼の機嫌を取ればいいのか分からない。

「あの、オーレン……」

「あなたは、もしあの二人が別れるようなことになったら、もう一度アルベルトとやり直したいと思っている?」

 私の声を遮って、いささか強い口調でそう問いかけてきたオーレンの眼光は、驚くほど鋭かった。まるで詰問されているような気がして、言葉が喉につっかえる。

「そ、……そんなの無理よ。……だって、もう婚約は破棄されて、家同士の関係だって悪くなってしまっているし」

「そんなことは関係ない。あなたに、アルベルトへの気持ちが残っているのかと聞いているんだ」

 オーレンの睨みつけるような厳しい視線に耐え切れず、膝に置いた手に視線を落とす。ぎゅっと握り締めた手の甲を見つめながら、自分自身に問いかけた。

 私は、物心ついた頃からずっとアルベルト様の妻になり、リッツスタール侯爵夫人として彼と家を支えていくのだと、そう思って生きてきた。それが私という人間を構築する主要な柱だった。

 アルベルト様への強い気持ちは、果たして純粋な恋心だったのだろうか。私は彼が私の夫となることを、あまりに当然のように思い込んでいたのではないだろうか。だから、リリィ嬢に対しても、まるで私の所有物が盗まれるような感覚で反発していたのではないだろうか。

 いや、例えそれがどんな感情だったとしても、私のアルベルト様に対する信頼は瓦解してしまった。だからもう、例えこれから何があったとしても、再びアルベルト様を慕うことなどできない。

 俯いたまま首を横に振ると、オーレンは深く息を吐きだした。

「そうか。……それならいいんだ」

「あの……」

 思わず喉元から飛び出しそうになった問いを、私は慌てて飲み込んだ。

「ん?」

「……明日は、よろしくお願いします」

 頭を下げると、オーレンの手が伸びてきて、頭を優しく撫でられた。

 あの二人が別れるなんて、そんな可能性があるの?

 訊いたら、きっとまたオーレンに睨まれてしまう。やはり、アルベルト様への気持ちが残っているのではないか、と。



 昨夜はあまり眠れなかった。

 いよいよこの日が来た、という緊張感もあったけれど、それ以上にある思いに囚われて眠気がやってこなかったのだ。

 アルベルト様が、私を捨ててリリィ嬢を選んだことを後悔している、なんてことはないのかしら。

 リッツスタール侯爵家は由緒ある格式高い家柄で、アルベルト様のお父上である現当主様は外交官をなされている。私も、将来アルベルト様が騎士団を退団して外交の道に進まれた時の為にと、近隣四か国語と諸外国の文化を学んでいた。

 市井で育ったリリィ嬢が、私が十年以上かけて身に着けてきた知識をそう簡単に吸収できるとは思えない。

 美しく生まれ変わり、華々しく返り咲きを果たした私を見て、アルベルト様はどう思うだろう。磨けばこれほど美しくなるのなら、手放すのではなかったと後悔するだろうか。

 ……もしそうなったとしても、手酷く突っぱねてあげるわ。

 その場面を想像すると気分が高揚してきて、余計に眠れなくなってしまったのだ。

 幸い、寝不足は昼食後の短い昼寝で解消し、顔色に残ることはなかった。

 オーレンから贈られた最新のドレスに身を包み、私の魅力を最大限に引き出す髪型と化粧で武装した私は、もう以前の地味で何の取り得もない女ではない。

 鏡に映るのは、過去の自分とは比べものにならないほど艶やかで華やかな美しい女性だ。

「お嬢様。オーレン様がみえられました」

 ナタリーの声に、分かったわと答えながら、鏡の中の自分に向かって挑発的に呟く。

「さあ、復讐の幕開けよ」



 眩いシャンデリアの明かりの下、奏でられる音楽に多数の人々がさざめき合う音が重なる。料理に酒、そして香水の混じり合った匂い。その全てが、あの夜、アルベルト様に別れを告げられた夜を思い出させた。

 それまで積み上げてきた人生を一瞬にして崩された、あの絶望の夜を。

「あなたは充分美しい。だから、自信を持って」

 オーレンのエスコートで会場入りする直前、ふと足を止めた彼が耳元でそう囁いた。

「あら。私、そんなに不安そうに見える?」

 動揺を見透かされている。誤魔化すように、上目遣いに挑発的な笑みを浮かべてオーレンを見つめると、苦笑が返ってきた。

「いや、見えないな」

「でしょう? 寧ろ、意気込んでいるくらいだわ」

 わざと鼻息荒く応じたのは、気を抜けば尻込みしてしまいそうな自分を叱咤する為だった。

 ここまで来たら、もう逃げることなどできない。行き着くところまでひたすら進むしかない。

「頼もしいね。でも、今のあなたは、そのままで充分魅力的だ。だから、そんなに気負わなくても大丈夫だよ」

 彼の腕に絡めた私の手を、オーレンは反対側の手を伸ばして宥めるように優しく撫でた。

 くすぐったいようなむずがゆいような心地よさに目を細めながら見上げると、吸い込まれそうに美しい彼の瞳が私を見下ろしている。

 ……この人は、私を愛している。そして、私もこの人を愛している。

 改めてその設定を胸に刻み付けると、息を大きく吸い込んで前を見据えた。

「行くよ」

 小さく呟いて、オーレンは足を踏み出す。

 歩調を合わせて眩い光の中に踏み出せば、ざわめきと共に人々の視線が一斉にこちらに突き刺さった。



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