5.課題
次は二日後に来ると約束して帰ったオーレンは、しっかりと課題を置いて帰った。
アマルレールの香油を使って、全身の手入れを怠らないこと。
毎食しっかり食べて体力をつけ、元通り元気になること。
オーレンに愛されているのだ、そしてオーレンのことを好きなのだというイメージトレーニングをして、彼の恋人になりきる努力をすること。
そして、自分は美しいのだと自分に自信を持つこと。
どれも簡単なように見えて、これまで無気力に暮らしていた私には、なかなかの努力が必要なものばかりだった。
いつも使っているオイルにアマルレールの香油を数滴加えれば、部屋中に薔薇の華やかな香りが満ちる。
風呂上がりに、丁寧にその香しいオイルを髪に馴染ませ、ナタリーに梳いてもらいながら、鏡に映る自分の姿に目を細める。
……オーレンに愛されている。
例えそれが作られた設定であったとしても、そう思うだけで何故かこそばゆい気持ちになった。
何せ、異性に愛を告げられるなんて、嘘でも初めての事だったから。
アルベルト様は、出会った子供の頃から口数が少なくて、一方的に喋る私をいつも穏やかに微笑んで見守ってくれていた。私の事を特に嫌っていた風もなく、親の決めた相手を波風立てずに受け入れようとしてくれている。子供心にそんな風に感じたけれど、私はそれを不満に思わなかった。
アルベルト様は見た目も良いし、優秀な騎士で将来有望、それに侯爵家の跡取りだ。そんな好条件の縁談なんて滅多にないことで、周囲に羨ましがられることで私は優越感に浸っていた。
そもそも、その縁談は、祖父の代に起きた政争で、我がウィンスバーグ伯爵家がリッツスタール侯爵家に与した、その報奨のような意味合いを持つものだった。けれど、すでに祖父の子供らには妻もしくは婚約者がいたため、孫の代に婚姻を結ぶと取り決められた。そうして、私が五つの時、三つ年上のアルベルト様との婚約が決まったのだ。
アルベルト様は、分かりやすい愛情表現をしない御方だった。でも、真面目で優しい方だから、私が妻となる努力を重ねていることを分かっていてくれている。それに、結婚すれば、ちゃんと妻として愛してくれる。ただ、婚約者とはいえ結婚前の男女が余りに親しくなりすぎるのを厭う、真面目過ぎるほど真面目な方なのだ。
……そう思っていた。
だから、去年、リリィ・ダンネル男爵令嬢が社交界に現れ、その可憐な姿に魅入っているアルベルト様に気付いた時、愕然とした。アルベルト様は恋をするとこんな表情をするのかと初めて知った。
でも、その相手は私ではない。その事実を目の前に突きつけられ、胸が張り裂けそうだった。
リリィ嬢は、婚約者の有り無しに関わらず、多くの殿方の心を奪っていった。多くの令嬢達が、次は自分の婚約者や恋人が心変わりをするのではないかと肝を冷やしていた。
でも、アルベルト様は真面目な方だから、よもや家同士の契約でもある婚約を破談に追い込むような真似はしないはず。
私はそう高を括っていた。
リリィ嬢の崇拝者の中には、オーレン・ランデルを始め、第二王子殿下、オニクス公爵子息、ガデュラン宰相子息等、高名な方々が名を連ねていた。いかに真面目な好青年であっても、そうそうたる面々の中ではアルベルト様も影が薄くなる。
だから、きっと大丈夫。リリィ嬢が他の誰かを選べば、元通りのアルベルト様に戻ってくださる。
そう自分に言い聞かせ、アルベルト様の心変わりに気付かないよう、平静を保っていつも通りに過ごしていた。
けれど、リリィ嬢はよりにもよってアルベルト様を選んだ。
何故。何故、よりにもよってアルベルト様なの……?
信じられなかった。いえ、信じたくなかった。
例えアルベルト様がリリィ嬢に惹かれているといっても、彼女さえ振り向かなければ、きっとアルベルト様はご自分の本心を抑え込んで、定められた通りに私の手を取ってくださったのに。
――あなたは、自分が何をしているか分かっているの?
危機感を覚えた私は、リリィ嬢を呼び出して諭した。いえ、今思えば、焦りのあまり癇癪を起していたかも知れない。
――貴族家の婚約は、契約でもあるの。あなたがしていることは、両家の関係にひびを入れる、許しがたい暴挙だわ。それは決して、アルベルト様の為にもならない。平民として育ったあなたには、そのことがよく分かっていないようね。
彼女は俯いたまま黙って聞いていたから、分かってくれたのだと思った。
けれど、翌日、滅多にないアルベルト様の突然の訪問に胸を躍らせた私に、彼は冷たく言い放った。
――身分や出自を持ち出して他人を非難するのは、褒められたことではない。
確かに、彼女が妾の子で、平民として育ち、母親の死後父である男爵に引き取られた下賤の者だという意識が、私の中にはあった。そんな子に、私は負けてしまうのか。アルベルト様を、侯爵夫人としての未来を奪われてしまうのか。そんな焦りがあったことは否めない。
けれど、悔しかった。私が諭した貴族としての正論が、いとも簡単に無視されてしまったことが。そして、何故私がそんな行動を取ったのか察してくれないアルベルト様の、私に対する情の希薄さが悲しかった。
でも、いつかは二人とも、自分たちがしようとしている非道に気付いて、思いとどまってくれるのではないか。
そんな淡い期待は打ち砕かれて、いつの間にか悪者は二人の恋路の障害になっている私になっていて。
焦れば焦るほど墓穴を掘って、いつの間にか親しかった友人達も離れていった。アルベルト様は夜会でエスコートをしてくださることもなくなり、代わりにリリィ嬢をエスコートしていたとわざわざ教えてくれる人までいた。
そして、あの夜。
さも自分がアルベルト様の婚約者であるかのように振る舞っているリリィ嬢をテラスに呼び出し、何度繰り返したか分からない貴族としての倫理を語っている最中だった。ご友人達と話し込んでいたはずのアルベルト様が突然現れ、そしてあの台詞を口にしたのは。
――コーデリア。あなたとは、結婚できない。
「……っ」
「お嬢様、いかがなさいましたか?」
急に顔を顰めて涙目になった私に驚いて、ナタリーが顔を覗き込んでくる。
「……大丈夫よ。何でもないの」
私の強がりをナタリーは信じてくれなかったようだけれど、それ以上追及せず、香油入りのオイルで今度は手や腕をマッサージし始めた。
リッツスタール侯爵家とは、幼い頃からご機嫌伺いを欠かさず良好な関係を築いてきたはずなのに、婚約は呆気なく破棄されてしまった。彼らにとって、私は簡単に切り捨ててしまえるだけの存在だったのだと、その時思い知らされた。私の侯爵家に馴染もうとする姿勢は、格上の侯爵家に媚びへつらうものだったと彼らの目には映っていたのだろう。
父は、祖父の代に交わした契約の不履行を訴え、何とか婚約関係を維持しようとしたが、叶わなかった。
そして母は、権力に弱く身分の低い者には容赦ないという根も葉もない私の悪評のせいで、親しくしてくださる王妃様にご迷惑を掛けることを恐れ、王宮へ足を運ぶことができなくなった。
社交界に戻れば、また何と言って非難されるだろう。しかも、社交界でも人気の高いあのオーレン・ランデルの恋人として舞い戻ったら。
そう思うと、恐ろしさが先に立って尻込みしそうになる。
けれど、貴族として暮らすのなら、社交界とは無縁ではいられないのだ。だから、寧ろオーレンという後ろ盾を得ることのほうが、メリットは大きいだろう。
オーレンは、その存在が一種のステータスだ。彼の恋人になった女性は、例え一時の遊びの相手であったとしても、羨望の眼差しを向けられ、その嫉妬を受けてますます光り輝いていく。
……どうせなら、私も最後に一度だけでいいから輝いてみたい。
ずっと平凡で、高位の公爵令嬢の取り巻きの一人だった私にもこんな願望があったのか、と自分で驚きながら、香油の香りとマッサージの心地よさに目を細めた。
二日後、訪ねて来たオーレンは、私の姿を見て満足そうに目を細めた。
「随分と顔色が良くなってきたね。これなら、庭を散歩しても大丈夫そうだ」
手を取られ、まるで夜会でエスコートされるように庭に出た。その後を、慌てて日傘を取りに行っていたナタリーが追いかけてくる。
二人並んで庭を歩き、周囲から見えない植え込みの陰までくると、オーレンは足を止めた。
「今日は、美容にいいと評判の、南方の果物を持ってきた。それからこれは、美容にいいとされる食品のリストと調理例、それから肌と髪の手入れの方法、流行の化粧の仕方にドレスの型」
オーレンから次々と渡される資料を受け取るナタリーは、やや困惑気味だ。私の方を窺うその目は、本当にこれらを全て実践するのかと私に問いかけている。
「とにかく、私の恋人になるからには、それに相応しい魅力的な女性になって貰わなければね」
相変わらずナルシストな台詞を吐くオーレンは、その台詞が許されるほど見目麗しい。細身の身体にぴったりあつらえた服の着こなし方一つとっても様になっていて、許されるならいつまででも見入ってしまいそうだ。
「それに、私はその素質がない人には無理な注文を言わないから」
綺麗な顔で微笑みながらそんなことを言われたら、駄目だと分かっていても思わず胸が震えた。
例え、私をやる気にさせる為だとしても、美しくなれる素質はある、と言って貰えたことが嬉しかった。
家族や使用人達からは可愛いや美しいと言われたことはあったけれど、それは身内の贔屓だ。他人から容姿を褒めて貰えたことはない。
勿論、アルベルト様にも。
「コーデリアの髪は美しいね。纏めてしまわず、ゆったりと垂らしてみたらどうだろうか」
不意に頭を撫でられて、驚いて咄嗟に身を引く。すると、足元がふらついて、そのまま後ろに倒れ込みそうになった。
「おっと」
長い腕を伸ばして軽々と私を支えたオーレンは、真っ赤になって固まっている私の耳元に口を寄せる。
「こういう触れ合いにも、早く慣れて貰わないと困るよ」
「す、すみません……」
十二年間婚約者だったアルベルト様にされたことのなかったことを、この数日で幾つオーレンにされただろう。
……でも、まあ、別にいいわ。
初めてのキスの相手だって、二回りも年の離れた寡か、誰からも敬遠される問題男か。それとも、一生される機会もなく人生を終えるくらいなら、オーレンみたいないい男にして貰った方がずっといい思い出になる。
例えそれが、恋人役としてだとしても。
オーレンの提案に乗って、今日で一週間。
バサバサに痛んでいた私の髪はだいぶ艶を取り戻し、荒れた肌はしっとり滑らかになってきた。痩せてしまった身体はまだ本調子ではないけれど、血色もだいぶ良くなってきたと自分でも思う。
食事の量も増え、体力がついたせいか、自発的に庭を散歩しようという気持ちにもなってきた。邸内を歩く私を見て、両親や使用人達の表情も心なしか明るくなってきたような気がする。
「……ナタリー。あの方のことをどう思う?」
香油の甘い香りにうっとりしながら、私の髪を梳いているナタリーにそう問いかける。問いかけるだけの心の余裕ができたからこそ、そう訊けたのだ。
「オーレン様のことでございますか?」
ナタリーは、丁寧に櫛梳る手を止め、顔を上げて鏡越しに私を見つめた。
「……あの御方の思惑はともかくとして、私は、オーレン様が現れて良かったと思っております」
そう言うと、ナタリーは不意に涙ぐみ、申し訳ございませんと天井を見上げた。何度か気持ちを落ち着けるように深呼吸すると、ナタリーは再び手を動かし始める。
「お嬢様がお元気になられただけで、ナタリーは幸せです」
その言葉に、胸がいっぱいになって目を閉じる。
アルベルト様から別れを告げられ、もうこの世には絶望しかないと思っていた。
けれど、あの日、永遠に闇に閉ざされたと思っていた世界は、オーレンが現れてから、いつの間にか明るさを取り戻していた。
社交界で醜聞に塗れた私を家族や使用人達は腫物扱いしていると思っていたけれど、顔を上げてよく見れば、皆私の事を心配してくれていた。オーレンの言う通り、食べる量を増やし、部屋を出て庭を散策するようになったからこそ、これまで暗かった彼らの表情が、安堵したように綻ぶのを見ることが出来た。
ナタリーの言う通り、例えオーレンの目的が何であれ、立ち直るきっかけを与えてくれた彼には感謝しなくてはいけない。