3.承諾
……最悪。
自室の天井を見上げながら、もう何度目かも分からない悪態を吐く。
勿論、傍にナタリーがいるので、心の中で。
医者には、貧血だと診断を受けた。
貧血を解消する食材を教えられ、それらを多く摂ること、何より痩せすぎだからもっと食事の量を増やすこと、と懇々と言い聞かされた。
具合が悪いのに説教までされるなんて泣きたくなってくる。
その医者を呼んだのも、応接室で倒れた私を自室まで抱きかかえて運んだのも、オーレンだった。
あの時。
応接室のソファから勢いよく立ち上がった瞬間、私は立ちくらみに襲われて倒れてしまった。手に握り締めていた香油の瓶を落として割ってしまわなくて良かった、と今思い返しても冷や汗が出る。
私のすぐ後ろに立っていたナタリーよりも先に駆け寄って私を抱き起したオーレンは、まるでこの家の主のように素早く的確な指示を出した。
執事のリックに医者を呼ぶよう命じ、騒ぎを聞きつけて来た母に私の部屋の場所を聞き出し、そして軽々と私を抱きかかえると階段を駆け上がった。
あの一見細く見える身体が意外と筋肉質で力強いことに、不覚にもときめいてしまった自分が恨めしい。
その後、応接室で待機していたオーレンは、医者の診断を聞いて命に別条がないことを確認してから帰って行ったらしい。
夕食時。私が少しでも食べやすいようにと、様々な具材を細かく刻んで煮込んだスープが部屋に運ばれてきた。
ベッドから起き上がり、口にしてみると、様々な旨味の中に微かに薬のような妙な風味がある。医者から処方された薬でも混ぜているのかと思いきや、ナタリーから衝撃の事実を聞かされた。
例の、東方の珍味。それが、その風味の正体だった。
オーレンは、応接室で待機している間に、わざわざ自分の従者に命じて自宅からその貴重な品を取って来させ、私に食べさせるようにと母に渡したのだそうだ。
さすがは遥々幾つも国境を越えて評判になるほどの品だけあって、その効能は確からしい。スープを食べ終えた後、このところ重く冷たかった身体が、じんわりと汗を掻くほど温かくなった。
食事を終えた後には、ナタリーがアマルレール社の香油を垂らしたオイルで髪を手入れしてくれた。まるで花園の中にいるような、うっとりするほど素晴らしい香りに包まれながら、ほうっと至福の溜息を吐く。
そのままベッドに横になって、天井を見上げながら今日の出来事を脳内で反芻し、さっきから心の中で何度も悪態を吐いている。
……最悪。
訳が分からなかった。
何故、オーレンは私に復讐なんて持ち掛けてきたのか。しかも、幸せになってあの二人を見返してやれだなんて。
オーレンにとっては、高級な香油や東方の珍味など、挨拶代わりの品でしかないらしい。だとしても、私にはそれを受け取る資格なんてないのだし、すでに受け取って消費してしまったことで、彼の提案を安易に突っぱねることが出来ない状況にある。
相手が勝手に押し付けてきた品なのだし、あんな風に煽られて泣かされた代償だからと、当然のように受け取ってしまえばいいのかも知れない。オーレン自身もそう言っていたのだから。
けれど、それらの品の価値を考えると、やっぱりただでいただくのは気が引ける。でも、私がそんな風に思う事自体が、すでにオーレンの計算の内なのかも知れない。
……最悪。
私が貧血を起こして倒れた時、オーレンは素早く対処してくれた。動揺する母や我が家の使用人達に指示を出しつつ、私の事を壊れ物でも扱うように丁寧に抱き上げ、優しく声を掛けて励ましてくれた。
それなのに、その前に私は彼に、誰があなたのような方と、とか、物で釣るのか、だなんて、随分と失礼なことを言ってしまった。今思えば、もう少し淑女として落ち着いた対応ができなかったものかと、後悔が押し寄せてくる。
あの時、倒れた私の為に奔走してくれたオーレンの行動を思い出すと、まるで本当に小説に描かれている女主人公の恋人みたいで、胸がときめいた。
……もしかして、オーレンは私の事を?
ふと浮かんだ妄想を慌てて打ち消す。
オーレンがこれまで付き合ってきた女性たちは、艶やかで美しい大人の女性ばかりだ。痩せ衰えずとも、元々平凡な私のような女に、彼が好意を抱くとは思えない。
では、どうしてオーレンは私に復讐を提案してきたのだろう。彼ならば、私よりももっとずっと美しい女性を選びたい放題なのに。それに、私のような女がどれほど不幸に塗れても、いつの間にかこの世から消え去っても、彼にとっては全く関係のない話だっただろうに。
天井を睨みつけながら考えていると、ふとあることに思い至った。
……そうか。オーレンもあの二人を見返したいのだ。
特に秀でたところのない私とは違い、オーレンは貴族の中でも注目を浴びることの多い、天から二物も三物も与えられたような人物だ。これまで、彼に言い寄られて落ちなかった令嬢はいないとまで言われていた。
それが、いくら貴賤を問わず崇拝者を多数抱えていた可憐な美少女であったとしても、男爵令嬢に過ぎないリリィ嬢の心ひとつ奪えなかったという事実が、彼の自尊心を大いに傷つけたに違いない。
アルベルト様とリリィ嬢にとって恋路の障害だった憎らしい女、つまり私が、再び社交界に戻ってきて、リリィ嬢の崇拝者だったオーレンと仲睦まじい姿を見せつけたら、絶対に社交界でも話題になる。そうなったら、きっとあの二人も心中穏やかではいられない。それがオーレンの目的なのだ。
やっぱり、ただ私を利用したいだけなのね。
そう自分の中で結論が出れば、何故か不意に悲しくなって、ぎゅっと布団を強く握りしめる。
……いいえ。よく考えれば、これはいい機会だわ。
胸の中に広がる苦い感情を飲み込んで、頭を切り替える。
あの二人をどれほど憎いと思っていても、これまで私には何の手立てもなかった。家格でも財力でも実力でもアルベルト様には遠く及ばす、見た目も女性としての魅力もリリィ嬢に敵わない。そんな私は、ただもう全てを諦めて消えるしかないと思っていた。
けれど、オーレンと一緒なら、あの二人に一矢報いることができるかも知れない。
オーレンは、私なんかとは縁のない、王都でも流行の最先端を行く部類の人だ。彼の恋人役をしていれば、例え平凡な私でも、彼と付き合ってきた女性達のように美しく輝けるようになるかも知れない。
オーレンは私を利用するつもりなのだから、それならこっちだって利用してやればいい。
どうせ、この先碌な結婚相手は見つからないだろうし、修道院行きとなる線も濃厚だ。どっちにしてもまともな貴族令嬢としての幸せは望めないのだから、それならいっそオーレンの提案に乗ってみるのも悪くない。
それに、もし、リリィ嬢よりも魅力的な女性になれたら、もしかしたらアルベルト様だって、私と別れたことを後悔するかも知れない。
…………後悔する? アルベルト様が、私との婚約を破棄したことを?
その未来を想像した瞬間、身体の中を何とも言えない甘美な衝撃が突き抜けていった。
リリィ嬢と別れるからやり直してくれと、アルベルト様が私に縋り付いてくる。そんな彼を一蹴し、冷たい視線を投げかけて突き放し、もうあなたのことなど眼中にないわと言い放つ。
そんな自分の姿を脳裏に描くだけで、言い知れない歓喜がじわじわと胸の奥から湧き上がってきた。
「……復讐」
言葉だけを捉えれば、褒められたものではない。けれど、彼らから受けた屈辱の何分の一かだけでもやり返してやるぐらい、許されるだろう。
描いた妄想に酔っていたせいか、香油の香りに包まれていたせいか。その晩、私はひと月ぶりに、何の悪夢も見ることなく、ぐっすり眠ることが出来た。
翌日、宣言通りオーレンは我が家にやってきた。
確か、彼は王太子殿下の側近として仕えているはずなのに、毎日よく足を運んでこられるものだと不思議に思っていたけれど、母が言うには、ここ一年ほど全く休みを貰えていなかったので、十日ほどまとめて休暇を取っている最中なのだそうだ。
応接室で、私はオーレンと向かい合って座った。紅茶を出した後、ナタリーは私の後ろに控える。ここまでは、昨日と全く同じだった。
「昨日は見苦しいところをお見せしてしまって、申し訳ありませんでした。いろいろと対処して下さった上に、大変貴重な品をいただいてありがとうございます」
頭を下げると、オーレンは首を横に振った。
「当然のことをしたまでだよ。それより、起きたりして大丈夫だったのかい?」
「ええ。お蔭様でゆっくり眠れましたし、身体の調子もいいのです」
元通りとまではいかないけれど、香油のお蔭で髪はしっとり艶やかにおさまっているし、目の下の隈も少し薄れている。よく眠れたせいか気分も良く、東方の珍味のお蔭で身体が温まって血色も少しだけ良くなっていた。
「そう、良かった。あなたの体調を気遣うのなら、本当は今日、こうして訪ねて来るべきじゃないとは思ったのだが」
昨日とは打って変わって、オーレンは叱られた子供の様に項垂れている。自分のせいで私が倒れたのだと罪悪感を抱いているらしい。
そのしおらしさに、案外可愛い所もあるのね、とつい許してしまいそうになってしまう辺り、この男がいかに自然に女心を掴むのが上手いかというところだろう。
「昨日は、あなたの体調も考えず、あのような事を言って申し訳なかった」
「いえ。こちらこそ、売り言葉に買い言葉で失礼なことも申し上げました」
「いや。怒らせるようなことを言ったのはこちらだ。気にすることはないよ」
穏やかに微笑むオーレンは、これだけを見れば、爽やかで人当たりの良い美形の好青年だ。異性としてもてるだけではなく、王太子殿下の側近として取り立てられるほどの人望があるのも頷ける。
場が和やかになったのを見計らって、私は思い切って口を開いた。
「それで、昨日のお話ですが、お受けしようと思います」
カップを口元に運びかけた姿勢のまま、オーレンは動きを止めた。
「……何故、急に。昨日はあんなに嫌がっていたのに」
「あなたに言われた通り、一晩ゆっくり考えてみたのですけど、面白そうかなと思いまして」
本当は、そんな理由で提案に乗ろうと思った訳ではない。けれど、私がそういう結論を出したのには、打算的な要素が強すぎる。それを洗いざらい全てオーレンに話せるほど、私達の距離は近くはない。
「……そう」
目を伏せて、カップを皿の上に戻すオーレンが小さく溜息を吐いたのを見て、不意に不安に襲われた。
「もしかして、冗談でしたの?」
やっぱり、ただ私を揶揄っていただけなのかと、羞恥で顔が赤くなっていく。
あれを本気にしたのか、例え役でもお前みたいな女を恋人になんて冗談じゃない、なんて笑われてしまったら、恥ずかし過ぎて今度は完全に失神してしまいそうだ。
泣きだしそうになる私の前で、オーレンは静かに首を横に振った。
「いや、本気だよ」
その言葉に、大きく胸を撫で下ろす。
「でも、いいのかい? 私は一度こうと決めたらやり通す主義だ。途中で降りるなんて許さないよ」
オーレンの私を見つめる目は、本気だと物語っていた。
不安がない訳ではない。けれど、オーレンがあの二人を見返せるほど幸せそうな恋人同士というシチュエーションを本気で作り出すというのなら、絶対にそうしてみせるのだろうという確信的なものが、彼の真剣な表情から感じられた。
例え役とはいえ、オーレンの恋人になれば、きっとこの惨めな感情など吹き飛ばせる。社交界の中心で輝く、憧れでしかなかった存在になれる。それを経験できるだけでもありがたいことだ。
そしてあわよくば、リリィ嬢にハンカチを噛みしめて悔しがらせるなんてことができたら、どんなにすっきりすることだろう。
「大丈夫です。オーレン様こそ、こんな女じゃやっぱり駄目だった、なんて途中で放り出したりしないでくださいね」
まっすぐ目を見つめて答えると、オーレンは少し困ったように眉を下げた。けれど、それも一瞬のことで、すぐに彼らしい挑発的な笑みを浮かべる。
「勿論だ。じゃあ早速、皆に怪しまれず、醜聞を立てられないような上手いシナリオを考えよう」
「シナリオ、ですか?」
「そう。あの二人を見返す為に恋人同士になりました、だなんて正直に言い触らす訳にはいかないだろう?」
確かに、それでは対抗心剥き出し過ぎで、私達を見る世間の目も冷たくなるだろう。
「世間を味方に付けるには、流行の恋愛小説のような、ドラマチックなシチュエーションが必要なんだよ。例えば、リリィ嬢が身分の差を越えて恋を実らせたように」