26.虚勢
馬車に揺られながら、流れていく景色を眺める。けれど、先程リドルから聞いた話を思い返している私には、視覚からの情報など全く頭の中に入って来なかった。
リリィ嬢は、ダンネル男爵家の使用人だった母と、生まれた時からずっと王都で暮らしていた。
母親は女手一つで我が子を育てる為、彼女が物心つく前からとある商人の妾になっていた。リドルは、その内縁の夫と親しかった商人の息子で、リリィ嬢とは幼馴染だった。
リリィ嬢の母親が病気で亡くなると、母親の内縁の夫はダンネル男爵に娘の存在を知らせた。内縁の妻は愛していたが、血の繋がりのない娘のその後を引き受けるつもりはなかったらしい。こうして、リリィ嬢は男爵家に引き取られることになった。
だが、ダンネル男爵家で暮らすようになったリリィ嬢には、厳しい現実が待ち構えていた。実父や義母、義兄弟は彼女を喜んで迎え入れたのではなかったのだ。彼らから毎日のように出自や知識の無さを馬鹿にされ、彼女は辛い日々を過ごしていた。
自分に辛く当たる男爵家の人々を黙らせるにはどうすればいいか、リリィ嬢は考え、そしてある日思いついた。彼らの頭が上がらないほど高位の貴族家を味方につければいいのだと。
そこで、誰もが認める完璧な貴族令嬢を目指そうという発想に至らなかったのは、ある意味リリィ嬢らしいとも言える。持って生まれた愛らしさで手に入れられる物があると知っているからこそ、彼女は他人に縋る方法を選んだのだろう。
リリィ嬢は社交界デビューするや否や、誰彼構わず愛敬を振り撒いて、自分を護ってくれる身分の高い恋人を物色した。貴族の常識の枠に捕らわれない彼女に、物珍しげに近づいてくる貴族令息達。世間知らずを装いながら彼らの庇護欲をそそり、確実にその心を惹きつけつつ、リリィ嬢は自分を心から大切にしてくれそうな相手を冷静に物色していた。だから、これまで数々の浮名を流してきたオーレンは不誠実な男だと認識されていて、最初から問題外だったのだろう。
リリィ嬢を心から愛し、婚約破棄までしてくれたアルベルト様は、まさに彼女が求めていた存在だった。付き合いを重ねていくうち、リリィ嬢の理想とは違う彼の一面を目にして失望することもあっただろう。それでも彼女はアルベルト様の自分への想いの強さを信じ、彼と共に生きていく決意を固めた。
けれど、自分の存在のせいでアルベルト様と彼の両親との関係が悪くなり、彼は家を出て王宮の騎士寮で暮らすことになってしまった。そのせいで二人は会える機会が益々減ってしまい、アルベルト様と恋人関係になったことで一時和らいでいたリリィ嬢に対するダンネル男爵家の人々からの風当たりも再び強くなっていた。
そして、ある日リリィ嬢は唐突にダンネル男爵から勘当を言い渡され、屋敷を追い出されてしまった。
リッツスタール侯爵家に対する不敬という、彼女にとっては理解できない理由だったが、再三の説得にも関わらずアルベルト様との関係を解消しようとしなかったことに対する制裁であることは間違いなかった。
王宮でアルベルト様との面会を希望したものの、すでにリッツスタール侯爵家から根回しされていたのか、門番はリリィ嬢の希望を撥ねつけた。そして、行き場に困った彼女が縋ったのが、幼馴染のリドルだったのだ。
だが、その一連の行動さえ、リリィ嬢が恋人を捨てて新たな男の元に走ったのだと、彼女を悪者にするかの如く歪曲され拡散されてしまった。当初、彼女は深く傷つき、部屋に引き篭もっていたという。
では、どうして私に対して、世間の悪意ある噂を肯定するような嘘を吐いたのか。リドルは、憶測に過ぎないが、きっと彼女の中で複雑な感情が入り混じっているのだろうと語った。
結ばれる見込みのない相手との愛を貫こうとしたばかりに、多くの人々の人生を狂わせ、迷惑を掛けてしまった。それは分かっているのに、私への憎しみと悔しさから素直に自分の非を認められないのではないかと。
私がアルベルト様と復縁することなど有り得ない、そうなれば私にとって屈辱以外の何物でもない、そう分かっているからこそ、彼女は私への腹いせにアルベルト様の力になって欲しいと言った。そうして、私の心をかき乱して面白がっていたのだ。
私とアルベルト様が婚約破棄に至ったのも、リリィ嬢が悪かったのではなく、彼女を貶めた私の自業自得だったのだと。そして、アルベルト様と別れることになったのも、彼女自身の意志だったのだと。それが真実だということにしたかったのも、彼女の私に対しての精一杯の強がりだったのではないかと。
それほどまでにリリィ嬢に嫌われているのかと苦笑する私に、リドルは仕方がないでしょうと溜息を吐いた。
リリィ嬢は、リッツスタール侯爵夫人から事ある毎に私と比べられ、教養がない、下品だ、次期侯爵夫人として相応しくないと厭味を言われていたそうだ。私の時と同様に、アルベルト様のいないところで言われていたらしいが、勿論リリィ嬢が言われっぱなしで泣き寝入りするはずもない。アルベルト様に申し上げ、そうして親子関係に亀裂が生じることになってしまったのだが、リリィ嬢にとってはそんな風に事ある毎に私の残滓に悩まされることが苦痛だったのだという。
だとしたら、社交界に復帰した私を見た時の彼女の心情はさぞ大荒れだったことだろう。自分が思ったように幸せになれずにいるのに、絶望のどん底に叩き落してやったと思っていた相手が誰からも羨まれるような姿で現れ、幸せそうに新しい恋人と寄り添っていたのを目の当たりにしたのだから。
でも、何故リリィ嬢はリドルの力を借りてアルベルト様に救いを求めなかったのか。何故、世間で流れている噂は嘘だ、自分は不当に排除され貶められただけなのだと釈明しないのだろうか。
きっと疲れたのだろう、とリドルは語った。
平民でありながら貴族に見初められたものの、子を宿した途端に捨てられた母の成れの果てをリリィ嬢はよく知っている。保身の為、そして自分を馬鹿にした者達を見返したいという思いから意地になっていたものの、結局このままでは母親と同じような運命を辿ってしまうかも知れないと気付いたのだ。だから、こんな女でもリドルが受け入れてくれるのなら、自分は悪役になって身を引くと彼女は語ったのだという。
そして、最後の我儘だと彼女が願ったのが、私との対面だった。
乗り気はしなかったものの、どうしてもと願うリリィ嬢に押し切られ、リドルは私と接触を図ろうとした。その際、顔見知りだったニコルが私と親しいと知って、彼に連絡役を引き受けてもらったのだという。
リリィはあなたに謝りたいのだと思っていたが、まさか憂さ晴らしの為だとは思わなかったと、リドルは申し訳なさそうに頭を下げた。
私が彼女への復讐を胸に社交界へ復帰したように、きっと彼女も私に一矢報いなければ終われないと思ったのではないだろうか。ふと、そんな気がした。
「……自業自得ね」
ぽつりとそう呟くと、隣に座っているナタリーが目の色を変えて首を横に振った。
「とんでもありません。お嬢様は、常識のない令嬢に苦言を呈され、貴族令嬢に相応しい行動を諭されただけですわ。それを逆恨みし、婚約者を奪い取るなどという不埒な真似をしたのはあちらです」
そんな風に擁護してくれる人が自分以外にもいることが有難かった。例え、それが使用人という、主に逆らえない立場の人間の言葉だったとしても。
「お嬢様。このまま、ご実家にお戻りになりませんか? 明日早朝までに戻れば、勤務にも差支えございませんでしょう?」
ナタリーにそう気を遣われるほど、私は疲れているように見えるらしい。実際、随分と気を張っていたようで、身体がだるくて気も重かった。
それでも、私は微笑んで首を横に振った。
「ありがとう、ナタリー。でも、このまま王宮に戻るわ」
「ですが……」
「オーレンに、今日の事を早く報告したいの。いくら口止めしたと言っても、私がリリィ嬢を訪ねたことが、何時誰から彼の耳に入るとも限らないから」
本当は、予めオーレンに相談すべきことだったのだ。今になって、彼に隠し事をしていることが心苦しくなっている。
それに、彼に会って確かめたいことがあった。
そんなことをすれば、私たちの関係は壊れてしまうかもしれない。このまま知らない振りをして結婚まで漕ぎ付ければ、その後で多少の諍いがあったところで、彼との関係が完全に終わってしまうことはないだろう。それまで待てばいいではないかと思う一方で、それは嫌だという心の声を無視することはできなかった。
オーレンの名を耳にしたナタリーは、それ以上私を引き留めはしなかった。
それほど彼のことを信頼しているのだろう。当初の警戒ぶりからの変わりようを考えると可笑しくて笑いが込み上げてきそうになった。
王宮の門の前で馬車を降り、まだ少し心配顔のナタリーに別れを告げた。
去っていく我が家の馬車を見送り、寮に戻ろうと振り返った時だった。軽やかな笑い声が耳に飛び込んで来たのは。
振り向くと、門の内側にある広場に停められていた立派な馬車が目に入る。その側面に描かれた家紋を見て、それがマクレーン公爵家のものだということはすぐに分かった。それだけでもぎょっとしたのに、聞き覚えのある涼やかな声で呼ばれた名に愕然とする。
「……ね、オーレン」
反射的に、門の陰に身を隠して胸を押える。
馬車の向こうに、オーレンがいるのだ。しかも、アリアンナ様と一緒に。
このまま、彼らがいなくなるまで隠れていたかったが、挙動不審な私を訝し気に睨んでいる門衛と目が合ってしまった。不審人物として拘束されてしまうようなことになれば困ったことになる。仕方なく、何でもない風を装って門衛に微笑み、なるべく馬車から距離を置くように広場の端を歩き始めた。
幸い、彼らは馬車の向こう側にいて、こちらにいる私には気付いていないようだった。
それに、以前の夜会での様子を思い返せば、アリアンナ様を前にしたオーレンがこれほど離れたところを歩いている私に気付くとは思えない。そもそも、オーレンは私が今日休暇を取っていることも知らない。まさか、私がこんな時間に侍女のお仕着せではない姿でこんな所にいるとは思わないだろう。
……私が危惧していた通り、やはりオーレンは王宮でアリアンナ様と会っていた。
時間と場所を考えれば、これからどこかに出掛けるアリアンナ様をオーレンが馬車まで見送りにきたのだろう。けれど、何故王太子殿下の側近である彼が、第二王子殿下の婚約者であるアリアンナ様を見送る必要があるのだろう。それは、王太子殿下の意向? それとも、彼自身の意志? どちらだとしても、到底納得などできそうもない。
オーレンに話したい事はあるけれど、アリアンナ様との貴重な時間を満喫している彼の前に現れて、二人の時間を邪魔するような度胸など私にはない。寧ろ、こんな場面など見なかったことにしたい。
そう、彼らに気付かない振りをして、さり気なく通り過ぎればいいのだ。こちらがオーレンの存在に気付いていない様子だったら、仮に彼が私に気付いたとしても、わざわざ呼び止めたりなどしないだろう。
私はできるだけ馬車から距離を取りながら、毅然と顔を上げ、寮に向かって歩き始めた。
それでも、アリアンナ様の楽し気な声は嫌でも聞こえてくる。耳を塞ぐわけにも、走って逃げる訳にもいかない。彼女に夢中になっているオーレンの姿を想像するだけで胸が抉られるようで、込み上げてきそうになる涙をぐっと堪える。
例えば、今ここで踵を返して二人の間に割って入り、アリアンナ様に向かって私の恋人を奪わないで下さいと申し上げたらどうなるか。公爵令嬢に謂れのない不貞の濡れ衣を着せようとしたと、マクレーン公爵家から家族共々報復を受けることになってしまうだろう。そしてオーレンは、アリアンナ様を傷付けた私を絶対に許さない。
……いっそ、そうなった方が楽かも知れないわね。
そんな自暴自棄な考えが脳裏を過ってしまうくらい、今の私は疲れ切っているのだろう。リリィ嬢との対決で消耗しているところに、追い打ちをかけるような状況に遭遇してしまったのだから仕方のないことだ。
だから、全く気付かなかった。
「コーデリア」
名を呼ばれ、腕を掴まれ、驚いて足を止め、顔を上げて、強張った表情のオーレンを認識するまで、私は彼に見つかっていることも、彼が私を追ってきていることにも全く気付いていなかった。
「何度も声を掛けたのに、どうして無視する?」
「え?」
「惚けるつもりか? 私に内緒で誰とどこへ行っていた。あの男も休暇を取って王宮の外へ出ていることを、私が知らないとでも思っているのか?」
掴まれた腕が痛い。耳元で囁かれたオーレンの絞り出すような声と射るような鋭い視線を前に、頭の中が真っ白になる。
彼は今、とても怒っている。きっと、私がニコルと示し合わせて外出したと思い込んでいるのだ。けれど、こうやって嫉妬してくれるということは、彼は私の事を本当に愛してくれているという事になるのではないだろうか……?
「おやめなさい、オーレン。彼女が怖がっているじゃないの」
その時、すぐ近くから聞こえた非難の声に、現実に引き戻された。ふわりと甘い花の香りが鼻孔をくすぐる。
「気持ちは分かるけれど、少し落ち着きなさい」
白く長い指が、私の腕を掴んでいるオーレンの腕に掛けられる。
それを見た瞬間、熱くて苦しいものが胸から喉へとせり上がってきた。
「……らないで」
私の、オーレンに触れないで。
「触らないでっ。離してっ……!」
抑えきれずに思わず叫んで身を捩ったその瞬間、突然、私の身体は支えを失って後方に傾いた。何とか踏みとどまろうとしたものの、高いヒールの靴を履いていたのが災いし、よろけてそのまま地面に倒れ込んでしまう。
愕然としながら見上げた先には、立ち尽くしたままのオーレンと、その腕に縋ったままのアリアンナ様。
まるで絵画のような美しい二人を前に、無様に地に這う自分を認識した瞬間、堪えきれず、私の目から涙が溢れ出た。




