24.嫉妬
翌日、同じ時間、同じ場所にニコルは立っていた。やはり、彼はオーレンと顔を合わせずに私と話すには、夕食後に寮への帰り道で待っていればいいと分かっているらしい。
一緒にいた侍女達に、先に寮へ戻っていてくれるように伝えると、私は通路の脇からこちらを見ているニコルに駆け寄る。私が近づいてくるのを見た彼は、安堵したように微笑んだ。
「手紙、読んでくれたようですね」
「ええ。それで、いつどこに行けばいいのかしら」
やや前のめりになってそう問えば、ニコルは意外そうな表情を浮かべた。
「正直、あなたが彼女に会う気になるとは思っていませんでした」
彼の様子からして、どうやら断る私を説得する気でいたのだろう。
「あの人の願いを叶えてやるだなんて癪だけれど、私に何を言いたいのか気になりますから。それに、私の方から言ってやりたいこともありますので」
自分勝手なリリィ嬢への憤りが、抑えようとしても言葉に滲み出てしまう。驚いたように軽く目を見張ったニコルは、堪えきれないといった様子で小さく噴き出した。
「あなたは私が思っていたより、強い人のようですね。それで、オーレン殿にはこのことは?」
「まだ話していません」
ニコルと何を話していたか問い詰められたあの日以降も、こうやって彼と言葉を交わしていること自体気に咎めていた。
オーレンが案じる事など何一つなく、ただリリィ嬢と会う為に必要だからしていることで、別に隠し立てすることではない。そう思いながらも、何となくオーレンにこの話を言い出しそびれていた。
「あなたがリリィ嬢に会うつもりがあるのなら、彼にはこの話を伝えない方がいいかもしれませんね。会いに行くこと自体を止められる可能性がある」
「そうでしょうか」
ニコルの仮説に疑問を投げかけながらも、私もオーレンに話せば反対されるかも知れないという予感がしていたのだ。
「ええ。それでも、オーレン殿に反対されるくらいなら会わないというつもりなら、どうぞご自由に」
ニコルの突き放すような言い方に心が揺れた。
オーレンに黙ってコソコソするのは、彼を裏切っているようで心が痛む。けれど、もし仮にニコルの言う通りに反対されてしまったら、私には彼の制止を振り切ることなどできない。そうなったら、二度とリリィ嬢に対峙する機会は訪れないだろう。
いや、それよりもっと困るのは、オーレンが一緒に行くと言い出すことだ。リリィ嬢を前に、私は自分が冷静でいられる自信がない。以前と同じように彼女を罵ってしまうかも知れない。そんな姿を、オーレンに見られるのは嫌だった。
「指定の場所には私が案内しますし、あなたが不安ならその場に立ち会います。だから安心してください」
目を伏せて俯いた私が不安そうに見えたのだろう。ニコルは優しい笑顔を浮かべながら頼り甲斐のある言葉を掛けてくれた。
すっかり暗くなり、人通りの疎らになった通路をニコルと二人歩いて寮まで戻る。
王宮へ来たその日にも、こうして彼に送ってもらったことを思い出す。今では道に迷う心配もないのだが、例え王宮内とはいえ様々な身分の使用人達が利用するこの通路を夜一人で歩くのは不安なのもあり、送ってくれるという彼の言葉にありがたく甘えることにしたのだ。
寮の門の前でニコルに礼を言って別れ、玄関を入って自室に戻ろうとしたところを不意に呼び止められた。振り向くと、廊下にセシルが立っている。
「話したいことがあるの。私の部屋まで来てくれる?」
廊下は暗く表情はよく見えなかったけれど、普段の彼女らしからぬ低く沈んだ声に、何か問題でもあったのかと心配になった。
案内されて入ったセシルの部屋は、さほど広くない私の部屋の半分ほどの大きさしかなく、小さ目のベッドが部屋の大半を占領している。収納らしき戸はおろか、衣装箱も見当たらない。荷物はベッドの下のスペースにでも押し込んでいるのだろうか。
そんなことを考えていると、先に室内に入ったセシルがこちらを振り返った。
「突然でごめんなさい。でも、どうしても確認しておきたいことがあって」
「何かしら」
「あなた、オーレン様とお付き合いしているのよね?」
セシルの台詞を聞いた瞬間、思わずぎょっとする。
「ええ、勿論よ……」
そう頷きながらも、脳裏を過ったのは、オーレンが私以外の女性と噂になっているのではないかという恐怖だった。
それとも、もしかしたら彼はこの王宮でアリアンナ様との距離を確実に縮めているのかもしれない。それが周囲の目に留まり、噂になっているのではないだろうか……。
けれど、続いたセシルの言葉は、私の予想とは全くかけ離れたものだった。
「それなのに、あなたはニコル様の気を引くような真似をしているのね」
目を見開いて絶句する私の前で、セシルは小さく身体を震わせている。
「オーレン様という素敵な恋人がいるにも関わらず、ニコル様の純粋な恋心を弄んで。あなたは酷い人だわ」
「違うわ、セシル。それは誤解よ」
私を睨みつけながら涙目で非難するセシルにそう訴えるものの、彼女が私の言葉を信じてくれた様子はなかった。
「あなたにとっては、継ぐ爵位さえ自分の実力で得なければならないニコル様なんて、取るに足らない存在かもしれないわ。でも、あの方は実力もあって人柄も優れていて、何よりお優しいのよ。本気でないのなら、ニコル様を弄ばないであげて」
「だから違うの。あの方の上司が私の元婚約者だから、何かと気を遣ってくれているだけなのよ」
「それだけには見えないわ」
セシルは全く私の言い分を聞き入れようとしない。
確かに、何の事情も知らない人から見れば、ニコルの行動は私に対して何か特別な感情を抱いているように見えても仕方がない。それは明らかな誤解なのだが、だからといってニコルが私とアルベルト様の復縁を画策しているというような、私の勝手な憶測までセシルに語る訳にはいかないのだ。
「まさか、セシル。あなた、ニコル様の事が好きなの?」
話を逸らそうという意図もあってそう訊くと、セシルの顔が一気に赤くなった。
「そ、そんなこと、……ただの憧れよ」
「ふうん、そうなの」
けれど、セシルがニコルに恋しているのは、その反応だけで一目瞭然だった。その分かりやすい反応に思わず口元がにやけてしまう。
すると、セシルは反発するようにこちらを睨みつけてきた。
「でも、それは私だけじゃないわ。あの方に憧れている侍女は結構いるのよ。勿論、オーレン様も人気があるわ。だからあなたが気付いていないだけで、あなたのことをやっかんでいる人は結構いるのよ。ただ、あなたに何かしたら、オーレン様やジュリア殿下の怒りを買ってしまうから、皆自重しているだけなんだから」
セシルの言葉に呆然としながらも、思い出したのは、何か辛いことはないかと問いかけてきたオーレンの言葉だった。
確かに、ずっと前から、寮内で侍女達に何か陰口を言われているような気はしていた。けれど、アルベルト様との婚約破棄騒動で社交界の話題に上った過去もあるので、悪意ある噂話のネタになっていてもしょうがないと気にしないよう努めていたのだ。
けれど、まさかやっかみとは。
――ずるい……。自分は愛する人を手に入れて、その上オーレンにまで愛されているなんて。
オーレンの本当の気持ちに気付いてしまった時に、そうアリアンナ様のことを憎んだことを思い出す。
ニコルが私の事を想っているだなんて、ただのセシルの勘違いだ。それに、オーレンも本当に私の事を愛している訳ではない。けれど、周囲の目には、私が皆の憧れである二人の男性に想いを寄せられている贅沢者のように映るのだろう。
「セシル。本当にニコル様の事は誤解よ。でも、そんな風に誤解されるような行動をしてしまった私も悪かったわ。今度会ったら、もうあの方の上司のことで私に気を遣わなくてもいいと伝えて、適切な距離を置くことにするから」
「そうした方が、ニコル様にとってもあなたにとってもいい事だと思うわ」
そう言って頷いたセシルだったけれど、その表情はまだ誤解だったとは信じていないと物語っていた。
暗い廊下を手燭の明かりを頼りに進み、ドアノブを掴もうとした瞬間、違和感を覚えて反射的に手を引っ込めた。明かりを掲げて目を凝らすと、ドアとその前の床が濡れているのが分かった。
漂う臭いからして、どうやらどこかを掃除した後のバケツの水をドアに掛けられていたらしい。もし気付かずに部屋に入っていたら勿論汚水で靴を濡らすことになっただろうが、下手をすれば足を滑らせて転んでいたかも知れない。
陰口は今までもあった。けれど、こんな風に目に見える形で嫌がらせを受けたのは初めてだった。
――何か辛いことがあったら言って。
息が苦しくなり、呆然と立ち尽くしながら、オーレンの言葉を思い出す。
オーレンに助けを求めなければ。でも、今からどうやって彼に連絡するの? 彼はもうすでに王宮から下がっている時間だ。それより、これでは部屋の中にも入れない。どうすればいいの……?
混乱する頭の中で、先ほど聞いたセシルの言葉が脳裏を掠めた。
――あなたに何かしたら、オーレン様やジュリア殿下の怒りを買ってしまうから、皆自重しているだけなんだから。
侍女の中には、経済的な理由等やむにやまれぬ事情で働かなければならない者も多い。もし、私のせいでこんな浅はかな真似をしてしまったが為に、侍女の職を失い窮地に立たされることになってしまったら。
呼吸を整えると、私は廊下を引き返して管理人室のドアをノックした。
こんな時間に何の用だという表情を浮かべている管理人の女官に、部屋の前の廊下が濡れているのだと訴え、彼女と二人掃除道具を手に部屋へと戻る。
ドアを開けて部屋に入れば、汚水はドアの隙間から室内にも入り込んでいた。ただ、その範囲はそれほど広くなく、敷物や家具まで達していなかったので被害は最小限で済んだ。ただ、雑巾臭い空気が室内に充満していたため、窓を開けて空気を入れ替えなければならなかった。
「掃除担当の子が、バケツをひっくり返しでもしたんでしょうかねぇ」
モップで床を拭きながらそう溜息を吐く女官の言葉に一瞬反発しかけた私だったが、すぐにその可能性もあるのかと思い直した。
セシルにあんなことを言われたせいで、これは誰かの嫌がらせだと頭から思い込んでいた。神経質になり過ぎていた自分がおかしくて、自嘲気味に溜息を吐く。
「全く。やってしまったことは仕方ないにしても、ちゃんと後始末もしないなんて」
「次からはこういう事の無いようにお願いします」
憤慨している女官に、雑巾でドアを拭きながらそう言うと、彼女は勿論ですと鼻息も荒く答え、バケツに張った水の中にモップをやや乱暴に突っ込んだ。
翌朝、管理人の女官と、まだ十四~五歳の下働きのお仕着せを着た少女が階下で待っていた。少女は涙ぐんでいて、私を見るなり膝に額が付きそうなほど深く頭を下げた。
申し訳ありません、気付かなかったのです、お許しくださいと何度もか細い鳴き声で謝る少女に、何事かと足を止めて好奇の視線を向けてくる侍女達。まるで私が虐めているかのような侍女達の表情に内心焦りを感じながらも、できるだけ穏やかに微笑み、分かったから次から気を付けるようにと優しく声を掛ける。
涙を拭いた少女が持ち場へと戻っていく。その背を見送りながら、管理人の女官が教えてくれた。あの少女は母を亡くして路頭に迷っていたところを街の有力者に助けられ、王宮での下働きを紹介されて働いている。母は、父は貴族だったと言い残して亡くなったが、それが誰であるかは分からず、彼女を探して認知しようとする者も現れないのだという。
まだ幼さの残る顔に、折れそうなほど細い体躯。可哀想なほど荒れて傷ついた手。同じように貴族の私生児として産まれたのに、あの少女とリリィ嬢のあまりにかけ離れたこの現状の差は何なのだろう。
人の運命というものは計り知れない。
一つ何かが違えば、リリィ嬢は私達と関わることもない市井で一生を終えていたかも知れないのだ。もしそうなっていたなら、私とアルベルト様は今頃、神の御名の元に結ばれていただろう。
今となっては、その先の未来が幸福に繋がっているとは思えない。けれど、もしかしたらその困難も乗り越えられたかも知れないのだ。失われてしまった運命の先にどんな未来があったのかなんて、もう永久に分からないのだから。
指定された日に私は休暇を申請し、王宮を出て王都にあるリリィ嬢の住まいを訪ねることになった。
それに際し、私は実家から私の侍女であるナタリーを呼び寄せ、同行してくれるというニコルの申し出は断った。王宮の外とはいえ、彼と行動を共にしているところが誰かの目に留まるようなことになれば、オーレンは勿論、ニコルに想いを寄せるセシルを始め侍女達の誤解を益々深めることになってしまう。
当日、我が家の馬車で王宮までやってきたナタリーと久々の再会を喜び合う。外出用の身支度は整えていたが、馬車の中でナタリーに仕上げをしてもらい、王都の中央広場へ向かった。
広場で馬車から降り、指定の場所で待っていたリリィ嬢の家の使用人と落ち合って、そこから伸びる表通りを少し歩いたところにある比較的新しい家の門をくぐる。
リリィ嬢の新たなお相手は成金商家の息子というだけあって、門構えから貴族の館と見紛うほど立派な邸宅だった。応対に出た執事らしき痩せた老人に案内され、玄関に足を踏み入れる。
「お待ちしておりました」
そこで待っていたのは、以前会った時とは異なり、ぐっと大人びて見えるリリィ嬢だった。
……いや、大人びた、というのは褒め過ぎだろう。老けた、と言った方が的確かもしれない。
彼女が身に付けている装飾品を見て、苦笑いが出そうになるのを必死で堪える。それは、私がオーレンの勧めに従って愛用していたブランドと流行を二分している、別のブランドのものだった。主に私達の親の年代が好んでいるそのブランドのデザインは、私達の年代には少し重厚で華美過ぎる。案の定、それらの品をゴテゴテと身に付けているリリィ嬢は、その長所である愛らしさが見るも無残に失われていた。
けれど、当の本人が誇らしげに胸を張っているということは、彼女は今の自分に満足しているのだろう。ひょっとして、私への対抗意識から似合いもしない高価なその品々を入手し、身に付けることで悦に入っているのではないだろうかと邪推してしまう。
対する私も、いつも薄化粧にお仕着せという侍女の格好とは打って変わって、今日は流行のドレスに身を包み、入念に化粧を施して完全武装している。だが、リリィ嬢のように高価ならば何でもいいというのではなく、華美になり過ぎないよう自分の魅力を引き立てる努力をしているつもりだ。
彼女の新たな恋人である商人の息子というのは結構な資産家らしいので、彼女に高価なブランドの品を惜しげもなく買い与えることなど苦ではないのだろう。だが、ただ欲しがるものを闇雲に買い与えるというのもどうなのだろう。オーレンなら、そんな相手の為にならないようなことは絶対にしはしない。
「私、コーデリア様と二人でお話したいのですけど、よろしいでしょうか」
客間に案内され、ソファに腰を下ろし、侍女らしき少女が淹れてくれたお茶に口をつけたところで、リリィ嬢がそう提案してきた。
「他人の耳目がある場では、お互いに言いたいことを全て吐き出せないのではと思いますの。お庭で二人、じっくり本音を語り合いませんか?」
「そうですね。分かりました」
「……お嬢様!」
座っていたソファから立ち上がると、ナタリーが心配そうに表情を曇らせる。
「大丈夫。あなたはここで待っていて」
あくまでもついて来ようとするナタリーを安心させようと笑顔で頷いて、私はリリィ嬢に続いて部屋を出た。




