22.懸念
『アレクシス様が何を考えていらっしゃるのか、さっぱり分からないわ』
ジュリア殿下が唐突にフレンシス語でそう呟いたのは、他国の大使を招いての昼食会に向かう為に髪を結い上げている時だった。
これまでは、ご夫婦だというのに夫である王太子殿下と他人行儀な呼び方をされていたジュリア殿下だったけれど、数日前から親しみを込めてお名前で呼ばれるようになっていた。
詰っている口調ではなく、ただふと思いついたような溜息交じりの声だったにも関わらず、フレンシス語を理解できない髪結い担当の侍女が何か粗相をしたのではないかと肩を震わせる。
「心配しなくても、あなたのことを言っているのではないわ」
小さくそう耳元で囁いて安心させると、私はジュリア殿下の前方に回り、その豊かな胸元を形よく際立たせるシャンパンゴールドのドレスを微調整しながら問いかけた。
『王太子殿下とは、このところ毎夜仲睦まじく過ごされておいでではありませんか。どうしてそう思われるのでしょう?』
ジュリア殿下は頬を赤く染めると、不機嫌そうに唇を尖らせた。
『……だからよ。何故急に、頻繁に足をお運びになられるようになったと思う?』
何をお惚けたことを、と思わず溜息を吐きそうになった。そこをぐっと堪えて、勿論表情には一切出さずに微笑んで答える。
『それは、ジュリア殿下が急に魅力的になられたからでしょう』
『馬鹿ね。そんな理由ではないわ』
ムッと頬を膨らませて、ジュリア殿下は私の言葉を真っ向から否定した。その突き放すような口調に、フレンシス語を解しない侍女達が不安げに顔を見合わせているが、私は彼女達を安心させる為にもと平気な顔をして小首を傾げてみせた。
『では、どうしてでしょう』
『それが分からないから、頭を悩ませているのでしょう?』
馬鹿な子ね、とジュリア殿下は私を詰りながらも、どこか楽しそうに目元を細めている。揶揄っているのか、じゃれ合いのつもりなのか、ともかくジュリア殿下はこうして私に飾らない態度で接して下さっている。
視界の片隅で、ジョシーが厳しい表情をしてこちらを見ているのは分かっていた。私の態度が侍女に相応しからぬものだと立腹なのは、直接言われなくとも察している。彼女が正しいことは分かっているのだ。分かっているのだけれど、他の侍女達と同じように一歩引いた態度では、ジュリア殿下もお心を開いてくださらない。そう思うから、私は何度かジョシーに指導されたけれど、敢えてそこを改善しようとはしなかった。
それにしても。何故、ジュリア殿下が私の言った理由をこうも素直に受け入れようとしないのか不思議でならない。私達侍女の側から見た限りでは、王太子ご夫妻は仲睦まじいことこの上ない。この様子ではご懐妊も間近だろうと、周囲も期待に胸を膨らませている。
それなのに、当のご本人であるジュリア殿下は、夫である王太子殿下の愛情を素直に受け止められないご様子だ。閨の中でのことは私達には窺い知ることもできないので、お二人の間にどのような会話が交わされているのかなど分かるはずもない。けれど、王太子殿下がジュリア殿下を見つめるその眼差しに愛情が満ち溢れていることは、見ているだけで分かる。それなのに、ジュリア殿下は王太子殿下の一体何が不満だというのだろうか。
『アレクシス様の御心が、覗ければいいのに』
ジュリア殿下がぽつりと呟いた言葉に、私は思わずハッと息を呑んだ。それは、私がこの数日、胸の奥に仕舞い込んだままの願望だったからだ。
オーレンの心が知りたい。彼が何を見て何を感じ、そして本当は私の事をどう思っているのか。私の事を愛していると言ったのは本心なのか。それとも、心の中にまだアリアンナ様への想いを秘めたままなのか。
彼の心を覗き込んで、嘘偽りないその真実をこの目で確かめたい。そんなことは出来はしないのに、そう出来たらと願ってしまう。
『……そうですよね』
気付けば、私の口からそう言葉が漏れていた。
『そなたも……?』
驚いて目を丸くしたジュリア殿下は、呆れたように口の端を下げて溜息を吐いた。
『王宮内でも人目をはばからずいちゃついていると噂になっているそなたが?』
『そんな、誤解です!』
慌てて否定したけれど、ジュリア殿下は生暖かい目で私を見つめてくる。
オーレンとは、仕事終わりに待ち合わせをして僅かな時間を共に過ごしているけれど、決していちゃついてなどいない。
時には、共に食堂へ行き、通路を挟んで隣り合う侍女と文官の席にそれぞれ向かい合うように座って夕食を取ることもある。けれど、他人の耳目もあるので、聞かれても何の差し障りもない内容の話ばかりで、甘い要素など何もない。それなのに、時々そこへ勤務を終えた兄が乱入してきて、こんなところでいちゃつくなと目くじらを立てるので、その度に宥めるのが大変なのだ。周囲が誤解しているとしたら、きっと過剰な反応をする兄のせいに違いない。
そう努めて冷静に説明しようとするものの、必死過ぎて顔が熱くなる。そんな私を、ジュリア殿下は面白そうに眺めている。何だか、遊ばれているようで悔しい。
けれど、それで少しでもジュリア殿下の御心が楽になるのなら、それでいいかと思う自分もいた。
侍女になって、十日が経過した。
今日は、王妃様主催のお茶会が開かれる。出席者は王太子妃であるジュリア殿下をはじめ、王族や高位貴族のご婦人やご令嬢方だ。
私も少しずつ侍女としての規範を学び、ジョシーと共にジュリア殿下の公務にも同行するようになっていた。
明るいブルーのドレスを纏ったジュリア殿下は、いつもよりも緊張しているようだった。
今日は女性同士の集まりの為、愛らしさよりも知的な印象を際立たせるドレスを選んだ。シンプルながらも流行のデザインを取り入れ、ジュリア殿下の上品さを引き立てる一着だ。
ジュリア殿下は、あの日以来ピンク色がお気に入りで、今日もピンク色のドレスを希望されたのだけれど、私は首を縦に振らなかった。
今日の茶会は、彼女よりも年少の王女殿下や貴族令嬢も多数参加されると聞いていた。自然、彼女たちの中にはピンクのドレスを選ばれる方々も多いだろう。年少の方々と愛らしさを競っても勝てない。それよりも、今回ジュリア殿下には、王太子妃殿下に相応しい知性に満ちた凛とした佇まいを示していただきたかったのだ。
髪型もメイクも、いつもより落ち着いたように見えるようアレンジした結果、ジュリア殿下は高貴で知的な印象の美人に仕上がった。
『素敵ですわ、ジュリア殿下』
私は勿論、他の侍女達もその出来栄えに満足していたのだが、当の本人は少し不満そうに表情を曇らせた。
『……これでは、あの人には敵わないわ』
微かに聞こえたジュリア殿下の呟きに驚いて視線を上げると、鏡の中の彼女と目が合った。
『ねえ、そうでしょう? コーデリア』
『申し訳ございません。おっしゃられている意味が分かりかねます』
『アリアンナ・マクレーン公爵令嬢よ』
突然、ジュリア殿下の口から飛び出したその名に目を見開くと、その反応を鏡越しに見た彼女は薄笑いを浮かべた。
『あなたも知っているでしょう? 彼の公爵令嬢は、かつてアレクシス様の妃候補の筆頭だったということを』
そう言われて、思わず眉を顰める。
確かに、我が国とフレンシス王国との間に同盟を強固にする為の縁談話が持ち上がるまでは、王太子殿下の妃候補として高位貴族のご令嬢方の名が囁かれていた時期もあった。けれど、それももう何年も前の話であるし、そもそもそれ以前にアリアンナ様は第二王子と婚約されていた。王太子妃候補の筆頭と言われていた時期があったにしても、それはアリアンナ様がまだ十歳前後の子供の頃だったはずだ。
『アレクシス様は、あの人のことをとりわけ気に掛けておいでなのよ』
ジュリア殿下が、悲哀に満ちた声でそう呟く。その声に、私は殴られたような衝撃を受けた。
『弟殿下の妻として、新たに王族に加わる方への特別なご配慮なのではないでしょうか』
狼狽えそうになるのを必死で堪えて、考え過ぎでしょうと宥めたけれど、私の心は穏やかではなかった。
まさか、庶民あがりの男爵令嬢が、侯爵家と伯爵家の婚約関係を破談に追い込むことなどできない。アルベルト様に近づくリリィ嬢に、当初そう高を括っていた私は、徐々に追い詰められて醜態を晒し、最悪の結果を迎えることになってしまった。あの過去の苦い思い出が、今も私の心に大きな楔となって撃ち込まれている。
国同士を結び付ける婚姻関係を破たんさせるということは、両国の間に修復不可能な亀裂を生むことになる。賢い王太子殿下がそのような短慮を起こされるはずはないと思いながらも、それでも恋は時に人の心を狂わせる。
王太子殿下は、アリアンナ様のことをどんな風に気に掛けているというのだろう。まさか、ジュリア殿下が危惧しているように、本当に心惹かれているのだろうか。ジュリア殿下が、ただ勘違いしているだけならいい。けれど、もし本当なら……。
そんな不安に勘付かれないように、さり気なく話題を変える。
『少し硬い印象に見えますね。髪型を変えてみましょうか』
前からサイドにかけての髪を少し垂らし、ゆるく巻いて華やかさを足した。メイクも、気持ちが晴れやかになるようにと明るめの口紅に変更し、目元も可愛らしく見えるように変更した。知的な印象はやや薄れてしまったけれど、満足げに笑みを浮かべるジュリア殿下を見ていると、これでよかったのだという気持ちになる。
提案や助言をすることはできる。頼られたら手を差し伸べることもできる。けれど、彼女が望まないことまで一方的に押し付けることはできない。
ゆったりと椅子から立ち上がり、こちらを振り返って「行くわよ」と笑みを浮かべたジュリア殿下は、手直しを加える前よりもずっと美しく見えた。本人が納得し、自信を持てることが何よりも大切なのだと改めて気づかされた瞬間だった。
ジュリア殿下の後に続いてお部屋を出れば、廊下で待機していた近衛騎士達が一礼して護衛に着く。その中の一人が、蜂蜜色の髪を揺らしてこちらを振り返り、にっこりと笑みを浮かべた。
アルベルト様の部下であるニコルは、ジュリア殿下付きの近衛騎士の一人だった。今は職務中の為、お互いに言葉を交わすことはないけれど、こうやって目が合えば目礼くらいはする。勤務外の時間に会えば、挨拶や簡単な会話を交わすこともある。彼は、自分の上司の元婚約者という微妙な存在である私に対して、そう悪い感情は持っていないようだ。
お茶会の会場へ向かう途中、中庭を挟んで向こう側の渡り廊下を歩いて行く人達が視界に入った。
「第二王子殿下だわ」
ジュリア殿下が歩みを止めれば、あちらもそれに気付いたのか足を止め一礼する。それに応えるジュリア殿下の後ろに控えて礼をとりながらも、心が騒めいた。
第二王子エリクス殿下の近衛騎士の中に、アルベルト様の姿があった。ニコルから聞いてすでに知っていたけれど、アルベルト様はエリクス殿下の護衛担当になっているのだ。
エリクス殿下は、かつてリリィ嬢に心惹かれた男性の一人だ。そのリリィ嬢の心を射止めたアルベルト様のことを、エリクス殿下はどう思っていらっしゃるのだろう。
いや。エリクス殿下には、アリアンナ様という素晴らしい婚約者がいらっしゃるのだ。それに、第二王子ともあろう御方が、嫉妬心でかつての恋敵である近衛騎士に辛く当たるようなことなどなさらないだろう。
沸き上がってきた嫌な想像を振り払いながら、再び進み始めたエリクス殿下と近衛騎士達の後ろ姿を目で追っていた私は、小さな咳払いで我に返った。
振り向くと、ニコルが意味深な笑みを浮かべて私のすぐ背後に立っている。
……気になる?
彼の心の声が聞こえたような気がして、私は苦笑しながら首を横に振り、先を行くジュリア殿下に追いつこうと足を速めたのだった。
例え、過去に王太子妃候補の筆頭と言われていたことがあったにしても、何故ジュリア殿下がそれほどまでにアリアンナ様の存在を気にされているのか、釈然としないものがあった。私が知る限り、王太子殿下がジュリア殿下以外の女性に心惹かれている様子は見受けられない。けれど、妻であるからこそ察することができることもあるのかも知れない。
きっと、オーレンに相談すれば、彼は私の疑問を解決してくれるに違いない。けれど、彼にアリアンナ様のことを訊ねたくはなかった。彼の口から、アリアンナ様の事が語られるのを聞きたくない。それに、彼も忘れようと努力している女性の話題など避けたいに違いない。
茶会の会場で垣間見たアリアンナ様は、相変わらずお美しかった。濃い緑のドレスは少し重々し過ぎる印象だったけれど、それしきのことで彼女の魅力が損なわれることはない。
私達侍女は、主に呼ばれない限り、部屋の壁際に並んで控えている。王族や高位貴族のご令嬢方が交わされている言葉の内容まではよく聞き取れないけれど、主催者である王妃様は隣に掛けているジュリア殿下のことをとりわけ気に掛けておられるように見えた。
王妃様に何かお声を掛けられ、嬉しそうに目を伏せて微笑むジュリア殿下は、侍女としての贔屓目だとは思うがとても可愛らしい。アリアンナ様のような、誰もが認める美人という訳ではないけれど、ジュリア殿下には彼女にしかない魅力がある。
対して、アリアンナ様は年若い王女殿下や貴族令嬢の話の輪の中心にいて、大輪の花のような笑顔を浮かべている。
私がどんなに努力しても、決して彼女のようにはなれない。彼女には敵わない。それを思い知らされているようで、じくじくと胸が痛んだ。
けれど、彼女は婚約者であるエリクス殿下を愛している。だから、例えオーレンがどんなに手を尽くして政治的な問題を解決しようとも、当の本人である彼女が彼の手を取ることはない。彼もそれを分かっているのだ。だから、アリアンナ様の立場を悪くするような無謀な行動に踏み切らないでいるだけで、きっと心の中では苦しんでいる。
そんな風に、他人が苦しんでいることなど露知らず、いつもこんな風に朗らかな笑顔を浮かべているアリアンナ様。
いけないと思いつつも、胸の奥からどす黒い感情が沸き上がってくる。
あなたのせいで、オーレンもジュリア殿下も、そして私も苦しんでいるというのに、あなたは何故、それに気付かないの?
いつの間にかアリアンナ様を睨みつけるように見つめていたことに気付いて、私はそっと毛足の長い絨毯に視線を落としたのだった。
ニコルに声を掛けられたのは、ある日の夕刻のことだった。
いつも通り、定時でジュリア殿下のお部屋を退出し、オーレンとの待ち合わせ場所になっている通路の一角に佇んで人の流れを見つめていると、不意に彼が話しかけてきたのだ。
「今、少し話せるでしょうか」
「人を待っていますので、それまでの間、ここでなら」
それでも構わない、とニコルは私の横に立った。傍目には、私達が一緒に誰かを待っているように見えるだろう。
行き交う人々は、仕事終わりの安堵感と、この後の夕食や娯楽のことで頭がいっぱいで、誰も同じ方向を見ながら隣り合って立っている男女に興味を持って耳をそばだてる者などいない。
それが分かっているのだろう。ニコルは二言三言雑談を交わした後、突然話題を変えた。
「そう言えば、あなたは知っていますか? 副隊長とダンネル男爵令嬢が別れたことを」
「……そう、なのですか?」
驚きのあまり目を見開いて見上げた隣に立つ彼の表情は、揶揄っている様子は微塵もなく、寧ろこちらの感情を窺おうとしているようだった。
何故、いつ、どういう理由で? という問いが喉から飛び出しそうになるのを飲み込み、表情を繕う。
「でも、もう私には何の関係もありませんから」
さらりと言ってのけたつもりだったのに、内心の動揺が声に出てしまったかも知れない。ニコルの目が、疑うように若干細くなった。
「あなたには、もうすでに恋人がいるからですか?」
「ええ」
「でも、はっきり言って、彼はあなたには相応しくない」
何故、ニコルにそんなことを言われなくてはならないのか。カッと頭に血が昇った時、ニコルは別の方向を見つめながら苦笑いを浮かべた。
「噂をすれば何とやら……」
彼の視線を追えば、人々の向こうにオーレンの姿が見えた。私に気付いて笑みを浮かべたものの、すぐに真顔に戻り、冷たい視線でこちらを睨みながら足を速めて近づいてくる。
「あなたの待ち人は彼でしたか。どうやら私が一緒にいるのを見て怒っているようですね」
可笑しそうに笑いながら、ニコルはわざとらしく私の耳元に口を寄せて囁いた。
「では、私はこれで。副隊長のこと、考えておいてください」
一体、何を考えておけというのか、という疑問を残したまま、ニコルは爽やかな笑みを浮かべて去っていった。




