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20.羨望

 王太子殿下の突然の来訪に、当然私達侍女も驚いたのだが、この場で一番衝撃を受けていたのはジュリア殿下だった。

「……嘘。どうして、王太子殿下が」

 愕然とした表情でそう呟いた後、突如ジュリア殿下は顔色を失って震え始めた。その反応を目にして、私は自分が大変な事態を引き起こしてしまったことにようやく気付いた。

 美しく着飾ったジュリア殿下は、とても体調不良で急遽公務を取りやめざるを得ない状態には見えない。王太子殿下にこの姿を見られては、仮病を使ったことが明らかになってしまう。

 かといって、王太子殿下を追い返す訳にもいかない。会えないほど重篤なのかと思われて侍医を呼ばれたら、それこそあっという間に嘘がばれてしまう。

 異国から嫁いできたジュリア殿下は、両国を結ぶ架け橋であると同時に人質でもあり、我が国の中枢に置かれた隣国の駒でもある。つまり、彼女の立場は非常に繊細で危うい。もし、嘘が発覚して、王太子殿下との間に決定的な溝を作ることになってしまったら……。

 何とかしなければ、とただその思いだけで化粧部屋を飛び出すと、そこにはすでに王太子殿下のお姿があった。

 そして、その背後に付き従っている二名の側近達のうち、一人の姿が視界に入った瞬間、私は痺れたようにその場に立ち尽くした。

 ……オーレン。

 側近とはいえ、まさか王太子妃殿下の私室にまで随行することもあるとは思ってもみなかった私は、数日振りに見る彼の姿に目を奪われた。

 彼は、以前私との交際を申し込みに我が家を訪問した時と同じようにかっちりと髪を撫で付け、襟の詰んだ文官衣を着用していた。いつもの華やかさは鳴りを潜めているものの、こうして真面目な表情で王太子殿下のお側に控えている彼は、これまでとは違う落ち着いた男の魅力を醸し出していた。

 トクン、と心臓が高鳴り、頬が熱くなる。今は見惚れて立ち尽くしている場合ではないと分かっているのに、彼から目が離せない。

「本当に、ジュリアは大丈夫なのだろうな?」

 王太子殿下の低い声で我に返ると、問われた侍女達がしどろもどろになりながら、助けを求めるようにこちらを振り返った。

 普段、温厚で理知的な王太子殿下であるのに、今はこれまで見たこともないほど厳しい表情を浮かべている。柔和で整ったお顔にいつも笑みを浮かべている御方であるがゆえに、その激しい落差に冷や汗が全身から噴き出すほどの恐怖を覚えた。

 ……どうすればいいの。

 自分の思い付きのせいで、ジュリア殿下を窮地に追いやってしまったことに愕然とし、全身から血の気が引いていく。

 その時、化粧部屋から出てきたジョシーが私の横をすり抜けて行き、王太子殿下の前に畏まった。

「これは、王太子殿下。ご無礼をいたしまして申し訳ございません」

「何故、すぐに会えない。それほどジュリアの具合は悪いのか?」

「いえ。一時は体調が優れないご様子でしたので、午後からの公務はお休みなさった方がよろしいのではということになり、王太子殿下にもそうご連絡差し上げたのでございます。ですが、その後ジュリア殿下の具合が良くなられ、公務に参加したいというご意向を示されましたので、ただいま身支度を整えられていたところなのでございます」

 私が先に化粧部屋を出た後、僅かな時間でこの場をどう取り繕うかジュリア殿下と話をすり合わせたのだろう。ジョシーは、まるでそれが真実だ、それ以外の事実などないと言わんばかりに余裕の表情を浮かべたまま、淀みなくそう答えた。

 けれど、王太子殿下はそう易々とジョシーの言葉を鵜呑みにしてくださる方ではなかった。

「なるほど。では、何故それを知らせてこなかった?」

 近くに置かれてある椅子に腰を下ろすと、長い脚を組んだ王太子殿下は、ジュリア殿下の姿を見るまではここを動くつもりはないと言外に示していた。その様子からは、私などが想像もつかない、様々な疑念を抱いているようにも見える。

「は。ジュリア殿下の体調をよく見て、慎重に判断を下さねばと思っておりましたので。申し訳ございません」

 ジョシーがそう言って深々と頭を下げた時、化粧部屋のドアが大きく開いて、ジュリア殿下がゆっくりと姿を現した。



「ご心配をおかけして申し訳ございません、王太子殿下」

 王太子殿下の前までゆったりと進むジュリア殿下は、尊大で尖っていながら酷く脆い雰囲気だったこれまでとは打って変わって、穏やかで落ち着いた雰囲気を纏っていた。可愛らしさを強調した顔ににっこりと笑みを浮かべると、優雅に一礼する。

 王太子殿下は呆気に取られたように目を見開き、無言のままジュリア殿下を見つめている。

「あの、……殿下?」

 ジュリア殿下が不思議そうに小首を傾げると、王太子殿下はフッと照れたような苦笑いを浮かべた。

「ああ、すまない。今日は、いつもと随分雰囲気が違うね」

「ええ。新しい侍女に勧められて雰囲気を変えてみたのですけれど、……いかがでしょうか?」

 最後の問いを付け加えるのに、ジュリア殿下はきっと勇気を振り絞ったに違いない。けれど、そう言葉に出来たのは、きっと彼女が自分にほんの少しでも自信を持てたからなのだろう。

「よく似合っているよ。それに、そのドレス。私達が初めて会った時のことを思い出した」

「覚えていてくださったのですか?」

「勿論だ。やはり、ジュリアにはこの色合いのドレスが似合う。それに、今日のような雰囲気の方がジュリアらしく見えるよ」

「ありがとうございます」

 嬉しそうに微笑んだジュリア殿下だったけれど、不意に表情を曇らせて目を伏せた。

「どうした?」

「いえ。お褒め頂いたのは嬉しいのですが、王太子妃としては、もっと威厳のある姿をした方がよいのではと思うのです」

 ジュリア殿下のその言葉を聞いて、彼女が何故、似合いもしない濃い化粧をし、派手に髪を結い上げ、色の濃い重厚で派手なドレスを好んで着ていたのか、その理由が分かった。

 自分に自信のないジュリア殿下は、王太子妃としてどうあるべきか悩まれた挙句、あろうことか王妃様を参考になさっていたのだ。王妃様は切れ長の目が印象的な美人であり、ジュリア殿下とは対称的な御方だ。それなのに、自分とは真逆で親子ほども年の離れた王妃様を真似たせいで、ジュリア殿下は年齢よりもかなり老けて見え、彼女が本来持っている可愛らしさを台無しにしてしまっていたのだ。

 そのことに気付いたのは、きっと私だけではない。この場にいる大半の者が、そうだったのかと内心溜息を吐いているはずだ。そう、王太子殿下も。

「ジュリア。きみが王太子妃としての務めを果たそうと頑張ってくれていることは、私も皆もよく分かっているよ。だから、無理に背伸びしなくてもいい。きみはきみだ。そのままでいてくれればいい」

 王太子殿下の労わるような言葉に、ジュリア殿下は弾かれたように視線を上げた。そして、自分を愛おし気に見つめる王太子殿下と見つめ合いながら、真っ赤になって唇を戦慄かせている。

 そんなお二人の姿を見ている限り、王太子殿下のジュリア殿下に対する愛情が薄れているなどとは思えない。それなのに、何故お二人の仲を懸念するような声が聞かれるのだろう。やはり、いまだに御子ができないことが問題なのだろうか。

「具合はもういいのかい?」

「え、ええ……。心配なさってくださったのですか?」

「当然だろう。きみはここ最近、特に気を張っていた様子だったから、体調を崩したと聞いて無理をさせてしまったのだろうと思ってね。午前の仕事は早めに片付いていたから、公務に向かう前に様子を見に来たのだ」

「そうだったのですね。お気遣いくださいましてありがとうございます」

 どこからどう見ても仲睦まじい夫婦といったお二人の様子を眺めていると、じわじわと羨ましいという感情が胸の奥から滲み出てくる。

 そんな浅ましい自分が嫌で、さり気なく視線を移したその瞬間、オーレンと目が合った。

 再び、心臓が跳ねた。

 けれど、いつも目が合う度に甘く蕩けるような笑顔を浮かべていたオーレンは、今は冷たいとも思えるほど冷静な表情を少しも崩すことはなかった。

 ……まるで、睨まれているみたい。

 無意識にスカートのポケットに伸びた指先が、布越しに固いカードの感触を確かめる。

 遠くで見守っている。その言葉をくれた彼と、目の前の彼は同一人物なのだろうか。オーレンは、本当は私の事を見限っているのではないのか。遠くから見守っているとは、もう二度と関わらないという宣言なのではないだろうか……。

 悪い想像をし始めると止まらなくなる。そんな私を現実に引き戻したのは、オーレンの声だった。

「王太子殿下。そろそろお時間でございます」

 彼が王太子殿下にそう声を掛けたのを合図に、周囲が慌ただしく動きだす。

「コーデリア。今日はここに残りなさい」

 素早く近づいてきたジョシーが、私の耳元でそう囁いた。何故、わざわざそんなことを伝えに来たのかと小首を傾げる私に、ジョシーは表情を険しくした。

「あなたはまだ、公務に随行する際の侍女がどう振る舞うべきか、教わってはいないでしょう?」

「ええ」

「では、いいわね?」

 念を押すように私の目を睨みつけると、ジョシーは踵を返してジュリア殿下の元へ急いで戻っていった。

 扉が開き、王太子殿下とジュリア殿下、その後にオーレンともう一人の側近、そしてジョシーと二人の侍女が部屋を出て行く。

 遠ざかっていく彼の後ろ姿が閉ざされていく扉の向こうに消えるのを、私はただ見送ることしかできなかった。



 ジュリア殿下が公務から戻って来られるまでの間も、私達侍女には色々とやるべき仕事がある。

 私はセシルや他の侍女達に仕事を教わりながら、ひたすらに動き回っていた。仕事に集中していないと、オーレンのあの冷たい目を思い出してしまう。最悪の想像が頭の中を支配して、時と場所を選ばずに泣き伏してしまいそうで怖かったのだ。

「本当なら、ジョシーはあなたを一緒に連れて行くべきだったと思わない? あなたはジュリア殿下の相談役なのだから、お側に控えているのが当然なのに」

 セシルが眉を顰めながら、他の侍女たちに聞こえないようにそう囁いてくる。私が浮かない顔をしているのを、ジョシーへの不満からだと思っているのだろう。

「いいえ。私は侍女としての知識がないから、何か不測の事態が起きても対処できないわ。事実、さっきも王太子殿下のお出ましに、何も出来ずに立ち尽くしていただけだもの。公の場に出られるジュリア殿下のお側に着くのは、もう少し先でいいと思っているの」

「でも、せっかくオーレン様もいらっしゃったのに。公務に随行できていれば、あの方と少しでも近くにいられたんじゃない?」

 セシルの、私に代わって嘆くような声の響きに、胸が軋むような痛みを発した。

 彼女は、私とオーレンが真に愛し合う恋人同士だと思っている。だから、例えどんな状況であったとしても、少しでも近くにいたいと思うのが当然だと思っているのだろう。

 ……私だって、オーレンの傍にいたい。けれど、彼はそう思ってはいないのだ。

「いいの。今は、私も彼も仕事中だもの」

 苦い胸の内を見透かされないように微笑んでみせれば、セシルは愛されているという自信があるから心に余裕があるのねと羨望の混じった溜息を吐いた。

 それが真実なら、どれほどいい事か。

 けれど、嘆いても願望は現実にはならない。そう、どれほど嘆いても。



 公務から戻られたジュリア殿下は、至極ご機嫌だった。王太子殿下との会話も弾み、これまでになく楽しく有益なひと時を過ごすことができたらしい。

 日が傾いて終業を知らせる鐘が鳴ると、夜間もお側に控える侍女数名を残して他の侍女たちは退出する。

「初日だから疲れたでしょう? 今日は先にお上がりなさい」

 ジョシーに、いずれは夜間の業務もやってもらいますから、とまた念を押すように言われて、私はセシル達と共に食堂へ向かった。


 ここのところジュリア殿下に仕える侍女達の仕事がなかなか終わらなかったのは、機嫌の悪い殿下の気まぐれな指示に振り回されていたからだった。それに加え、ここ二日ほどは、異動した三人に代わってやってきた二人の侍女に仕事を教えなければならなかったので、大変だったのだとセシルは愚痴を零す。

 衣装担当であるアリーが、ジュリア殿下に赤いドレスを用意するという失態を犯したのも、彼女が他の部署から異動してきたばかりだったからだそうだ。それでも、たった二日で衣裳部屋のドレスをそれなりに把握していた様子だったのは、彼女がそれだけ自分の担当業務に責任感を持って取り組んでいたからだろう。

 ……私も、頑張らなければ。

 最初は、オーレンとの関係が終わっても、他の生き甲斐を見出せるようにという不純な動機が大半を占める形で引き受けた仕事だった。

 けれど、私の行動が少しでもジュリア殿下のお役に立てたのだと思うと、胸の奥からじわりと温かい喜びが沸き上がってくる。まるで自分自身が満たされるようで、次も頑張ろうという気持ちになった。

 こうやって別の事で心が満たされるようになれば、オーレンが私の傍から完全にいなくなったとしても、きっと倒れずに立っていられる。

 そんな思いを胸に、セシル達と語らいながら後宮を出て、食堂のある建物に向かって篝火に照らされた通路を歩いている時だった。

「あっ……」

 セシルが、驚いたように小さく声を上げ、私の袖を引く。けれど、それより先に、私はその姿を視界に捉えていた。

「オーレン……」

 政務の中心である中央宮から自宅へ帰るのに通るはずもないこの通路の端に一人佇んでいた彼は、ふとこちらに顔を向けると、ふわりと顔を綻ばせた。

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