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2.提案

「……復讐?」

 提案された言葉を頭の中で反芻するにつれ、じわじわと何とも言えない不快な感情が湧き上がってきた。

「復讐ですって? 私が?」

「そうです。あなたは、突然の婚約破棄によって、これほどまでに深く傷ついている。それなのに、あの二人は自分たちの仕出かしたことなどまるで省みることなく、幸せそうに過ごしているだなんて、酷いとは思いませんか?」

 オーレンの美しい顔が、憐れむように歪む。それを見ているだけで、まるで自分が理不尽に捨てられた哀れな被害者のように思え、じわりと胸が痛んだ。

 ……いや。確かに私は被害者だ。事情はどうあれ、私という婚約者がいながらリリィ嬢に心を奪われ婚約を破棄したのはアルベルト様で、婚約者がいると知っていながらアルベルト様と恋仲になったのはリリィ嬢。本来、責められるべきはあの人達であって、私は悪くないはずなのだ。

 けれど、それにしても復讐だなんて。

 アルベルト様に無実の罪を着せて陥れるというの? それとも、リリィ嬢に危害を加えるとでも?

 確かに憎いとは思うけれど、そこまでするほど私は堕ちてなどいない。

「随分と怖いことをおっしゃるのね。でも、私にはそのつもりはありません」

 自分の提案に乗って来ない私に苛立ったのか、オーレンは眉を顰めた。

「あなたはこのままでいいと? でも、私は嫌ですね。……あの二人は許せない」

 オーレンが低く呟いた許せないという言葉が、私の胸の奥底で沈んでいた感情をかき混ぜ、浮かび上がらせる。

 そう、私だって許せない。これから先も、決して許さない。

 例えあの二人が大勢の祝福の中で結ばれても、私だけは全力で呪い続ける。時が流れて、誰もが彼らの罪を忘れ去ったとしても、私はずっと覚えている。死んで生まれ変わっても、この恨みは永遠に忘れない。

「私は……」

 咄嗟に視線を落とし、膝の上で骨ばった手をきつく握り締める。

 大きなうねりとなって押し寄せてきた感情を、溢れ出す寸前で何とか堪え、落ち着けと何度も自分に言い聞かせる。

 あの日から、嘆き悲しみ、恨みつらみを涙と共に流し続け、もはや抜け殻になってしまったとばかり思っていたのに、自分の中にまだこんな激しい感情が残っていただなんて。

 けれど、不思議なのは、何故オーレンが私に復讐しようなどと提案しているのかだ。

 彼はリリィ嬢の崇拝者だった人だ。私に復讐を持ち掛ける言葉の裏で、どんなことを企んでいるか分かったものではない。

 私が憎しみのあまり狂気に走ろうとしているのではないかと疑い、事前にその出鼻を挫こうとでも思っているのか。それとも、私をけしかけておいて、復讐しようとしているところを返り討ちにでもするつもりなのか。

 何かを言い掛けたまま口を噤んだ私の言葉を待つように、オーレンは黙ったままこちらを見つめている。

 重い沈黙を破るように顔を上げた私は、今できる精一杯の笑みを浮かべてみせた。

「もういいのです。私は、もう別にあの方々のことなど、何とも……」

「嘘だ」

 渾身の強がりは、オーレンにあっさりと切り捨てられた。

「何とも思っていないのなら、これほどまでにやつれてしまうはずがない」

 ……確かにその通りだ。何も言い返せない。

 あの日から、何を食べても味が感じられない。食べたいという気力も湧かない。無理に食べると吐き気や胃痛が襲ってくる。次の食事の時には、食べるとまた具合が悪くなるのではないかと思うと、碌に食事が喉を通らなくなり、随分と食が細くなってしまった。

 眠れば、あの日の夢を見る。あの日に戻ってやり直せたらと願うのに、夢の中でさえ何一つ変えられない。繰り返し、何度もあの日の絶望を味わい、己の悲鳴で目を覚ます。そして、起き上がって溢れる涙を拭い、夜明け前の暗い部屋で、いっそこのまま闇の中に消えてしまえたらと願う。

 そんな日々を過ごしていると見ただけで明白なほど、今の私の有様は酷いものだ。

 そして、そんな私のせいで、今やウィンスバーグ伯爵家は火が消えたようになっている。

 父は格上のリッツスタール侯爵家から突然突きつけられた婚約破棄の後始末に奔走し、随分と老け込んでしまった。

 母は王妃様のお話し相手として王宮へ足しげく通っていたのに、世間体を慮って屋敷に閉じこもりがちになった。

 騎士団に所属している兄は、所属こそ違えど上役にあたるアルベルト様との関係が悪くなって苦労しているのか、たまに休暇で帰ってきても溜息ばかり吐いている。

 ……それなのに、恨んでないなんて、何とも思っていないなんて嘘に決まっている。

「あなたも、あの二人が憎いはずだ」

「おやめください……」

「あなたは、何の落ち度もないのにあのような理不尽な仕打ちを受けた。一月程度で、そんな風に割り切れるはずがない」

「もう、やめて!」

 耳を押さえて首を激しく横に振る。もうこれ以上、心をかき乱すようなことは言って欲しくない。

 だって、もう全ては終わったことで、何一つ取り戻せないのだ。

 私はアルベルト様に捨てられたのだ。例えどんな奇跡が起きて結婚できるようになったとしても、私は以前のようにアルベルト様を慕うことなどできない。それに、もしそんなことになったとしても、愛するリリィ嬢との仲を引き裂いた私を、アルベルト様は一生許さないだろう。

 今更何をしても無駄だ。いい加減ボロボロになった心に、更に深い傷を負うだけ。

 それなのに、この男は私を唆して何をさせようというのだろう。

 折角、諦めようとしていたのに。ようやく、暴れ回る感情を涙で溶かして、我が身に起きた不幸を抱え込んだまま朽ち果てていく未来を受け入れようとしていたのに。

「今更、どうしろとおっしゃるのです? こんな風に私を揶揄って、楽しいですか?」

 漏れそうになる嗚咽を必死で堪えながらオーレンを睨みつける。その視界がみるみるぼやけて、涙がボロボロ零れ落ちた。

 ……無様に泣く姿など見られたくなかったのに。

 堪えきれない嗚咽が漏れる。と、流れるような動作で自然にハンカチを差し出されて、思わず受け取ってしまった。

 さり気ない彼の優しさに少しだけ心が緩む。けれど、涙を拭って視線を上げた時、オーレンの口元に笑みが浮かんでいるのが見え、悔しさのあまり、胸が捩じり切れてしまいそうなほどの痛みを発した。

「……何と言われようとも、私は家族にこれ以上の迷惑を掛けるような短慮を起こすつもりはありません。どうぞお帰り下さい!」

 ハンカチに顔を埋めながら、必死にそう言い放つ。本当はビシッと突っぱねてやりたかったのだけれど、涙も鼻水も止まらない状態では格好がつかなかった。

 そんな私を、オーレンは笑った。ほんの微かだったけれど、彼が声もなく笑う音が耳に届いた。

 信じられない。女を泣かせておいて、それを見て笑うなんて。

 やっぱりこの人は、私を揶揄って面白がっているだけなのだ。そして、無様に泣いた私の姿を酒の肴にして、どこぞの貴婦人方と笑いながら夜を過ごすのだろう。

「帰ってください。帰って!」

「いや、すまない。復讐、という言葉が悪かったのか、あなたは少し勘違いをしているようだ」

「もう、どうでもいいですから、帰って」

 オーレンは、泣きじゃくる私をあやすように、先ほどの遠慮のない物言いから穏やかな口調に改めた。

「落ち着いて、少し私の話を聞いてくれ。こう言えば分かりやすいだろうか。彼らを、見返したいとは思わないか?」

「……見返す?」

「幸せになって、彼らにその幸せな姿を見せつけてやるのさ」

「幸せですって?」

 今、私と全く縁のない言葉に、思わず鼻で笑ってしまった。

 一体どこの誰が、私と結婚してくれるだろう。新たな結婚相手が見つかったにしても、二回りほど年の離れた寡か、誰からも敬遠されるほど酷い人物か。そんな人と幸せになれると思えるほど、私は楽観的ではない。それでも相手がいればマシな方で、下手をしたら、このまま修道院へ行くしかなくなる可能性の方が高いのだ。

 それに、例えどんな人が相手であっても、アルベルト様がお相手だった時以上の幸せなんて感じられる訳がない。私の幸せは、アルベルト様と共にあったのだから。

 馬鹿にしたように笑う私の前で、オーレンは至極真面目な表情でこちらを見つめている。この男は本気でこんなことを言っているのだろうか。本気で、私があの人たちに見せつけられるほど幸せになれると思っているのだろうか。

「それで、一体誰が、私を幸せにしてくれると言うのですか?」

「ふつつかながら、私がその役を仰せつかろう」

 ……はあああっ!? ふざけないで!!

 オーレンの申し出に、思わず怒鳴り声を上げそうになった。

 馬鹿にするのもいい加減にして欲しい。自分によほど自信があるのだろうが、どんな態度を取っても女は必ず自分に靡くとでも思っているのだろうか、この男は。これまでの遣り取りで私がどれだけ傷付いたのか、この人は全く分かっていない。だから、いけしゃあしゃあとこんな台詞を吐けるのだ。

「お断りします」

「待ってくれ。そう急いで結論を出すものではないよ。一晩ゆっくり考えて答えを出してくれ」

「考えるまでもありません。誰があなたのような方と……」

 思わず本音を口に出してしまい、拙いと思って言葉尻を濁したけれど、彼の耳にははっきりと届いていたらしい。

 オーレンは不敵に口角を吊り上げると、ローテーブルに左手を付いて、挑発的に身を乗り出してきた。

「そう? これでも結構、ご婦人方には人気があるのだけれどね?」

 長い右腕が伸びてきて、綺麗な指先が私の頬を撫でる。その手を、ハンカチを握り締めた手で咄嗟に払いのけた。

「好みは人それぞれですから」

「食わず嫌いは良くないよ。付き合ってみれば、意外と馬が合うかも知れない」

 見惚れるほど綺麗な、けれど悪魔のように妖しげな顔が近づいてくる。

 小さく悲鳴を上げて目をギュッと瞑った時、ハンカチを握っているのとは反対側の手に、何か固くて冷たいものが押し付けられた。

「取り敢えず、これはお見舞い。明日また来るから、返事を聞かせてくれ」

 身体を強張らせて震えながら、離れていくオーレンを見つめ、それからゆっくりと手の中にあるものに視線を移す。

「……これ」

 可愛らしい形の青いガラスの小瓶に、お洒落なラベルには確かにアマルレール社の文字がある。

 それは、花園の国と異名をとる隣国から輸入される香油だった。あまりに人気が高く、店頭に並ぶ前に消えてしまうほどの品で、私も高位の貴族令嬢が自慢げに見せびらかしているのを何度か目にしたことがあるだけだった。ただ、さほど裕福とも言えない伯爵家の娘である私が、自分の為に手に入れるには気が引けるほどの高価な品なので、欲しいとねだったことはない。

 私の中で湧き上がった物欲と歓喜を、辛うじて理性が抑えつけた。

「こんな、こんな高価なもの、いただく訳には……!」

「お見舞いだと言っただろう? ああ、それに、泣かせてしまったお詫びだと思って貰えればいい」

 可笑しそうに笑うオーレンには、言葉とは裏腹に緩んでいる私の表情筋から、こっちの内心が透けて見えているのだろう。そう思うと、悔しくて仕方がない。

「物で釣るおつもりですか?」

「はは。随分と遠慮がなくなってきたね。それでいい。ちなみに、あなたにとっては高価かも知れないが、私にしてみれば、ご婦人方の機嫌を取る為に誰にでも配っている、その程度のものだから気にしなくていい」

 頭に血が昇った。何故、この男にこれほどまでに馬鹿にされなければならないのか意味が分からない。

 アルベルト様に婚約を破棄されてから、踏んだり蹴ったりもいいところだ。あの二人を呪うどころか、私の方が誰かに呪われているに違いない。

「じゃあ、また明日」

 爽やかな笑みを浮かべながら立ち上がるオーレン。

 あれだけはっきり拒否したのに、この男はまだ分かっていないらしい。最後にガツンと言ってやらなければ。

「もう来なくて結構です! 復讐だなんて、絶対にお断りし……」

 けれど、勢いよく立ち上がった瞬間、目の前が真っ暗になり、私は力なくその場に崩れ落ちてしまった。



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