19.衝動
問題は、寝室に付随している化粧部屋で起きていた。
ジョシーに急かされるように足を踏み入れると、そこには先ほどまで着ていたドレスを脱いで下着姿になったジュリア殿下が、肩で息をしながら立ち尽くしていた。こちらに背を向けているので表情は分からないけれど、乱れた髪や小刻みに震えるほど強く握りしめた拳を見ただけで、相当な怒りを爆発させたのだと察することができた。
ジュリア殿下の足元には、一着の赤いドレスが投げ捨てられたかのように落ちている。豪奢なそれは、私達のような中流貴族が袖を通すことなどない一級品だと一目見ただけで分かるものだった。
「一体、どうされたのですか」
私の背後に回り、あとはあなたに任せたとばかりに背を押してくるジョシーを振り返り、小声で問う。すると、彼女は顔を顰めながらも、何があったのか囁くような声で説明してくれた。
「先日の食事会で、アリアンナ様が赤いドレスを着ていらしたの。それがとてもよくお似合いだったものだから、それ以来ジュリア殿下は赤いドレスを避けるようになっていたのよ。それなのに、午後の公務用にとあの子が用意していたドレスがあれだったものだから」
床で哀れな姿を晒している赤いドレスを見て、ジョシーは溜息を吐く。
ジュリア殿下の視線の先には、完全に顔色を失った侍女がいた。何度も頭を下げながら許しを請うている彼女の様子からして、嫌がらせなどではなく、本当にうっかりそのドレスを選んでしまったのだろう。
けれど、ジュリア殿下はそうは思っていないようだった。
「……お前は、私が恥をかけばいいと思っているのだろう? 彼の公爵令嬢と比べられて、侮られてしまえばいいと、そう思っているのだろう?」
ジュリア殿下の、怒りのあまり震えている低く唸るような声を聞いて、胸が締め付けられるように痛んだ。
異国から嫁いで来られて、祖国から同行した侍女が倒れてしまった今、周囲に心を許せる者はおらず、頼れる方といえば王太子殿下ただお一人。それなのに、その寵愛も得られず、容姿に対する劣等感を募らせ、こうやって自分に仕える者達に怒りをぶつけ、ますます孤立を深めていく。
かつて私も、焦燥感から自分でもどうにもならない怒りに囚われていた。リリィ嬢の心がアルベルト様に向き、相手にされなくなった貴族令息達の婚約者が安堵の笑みを浮かべているのを見て、噛みつきたい衝動に駆られたものだった。
……あなた方は、私がリリィ嬢にアルベルト様を奪われてしまえばいいと思っているのでしょう? 彼女とアルベルト様が結ばれれば、自分たちの婚約者を奪われることはなくなるから。私一人が不幸になればいいと思っているのでしょう?
足掻けば足掻くほど自分が望んでいる方向から遠ざかり、泥沼にはまっていく。けれど、何かに縋ろうとしても、掴めるものもなくて。
今のジュリア殿下は、まるであの時の自分のようだ。オーレンによって、強引に絶望の淵から引き上げられる前の、怒りと悲しみに満ちた酷く脆い、あの時の私そのもの。
そう思った瞬間、見えない何かに背を突き動かされた。
私はなるべく穏やかな笑みを浮かべて、ジュリア殿下に歩み寄った。
『では、殿下は何色をお好みでしょうか』
フレンシス語でそう問いかけると、ジュリア殿下は怒りの表情の上に苛立たしさと困惑を上書きしたような、歪んだ表情を浮かべながらこちらを振り返った。
『……何色?』
感情の籠らない掠れたジュリア殿下の声に動揺しつつ、それを表情に出さないよう抑えつけながら冷静に言葉を続ける。
『お見受けしたところ、殿下ははっきりとした色ではなく、柔らかな色合いのドレスがお似合いになると思うのですが』
『柔らかな色? ……でも、私にピンクは似合わないわ』
ジュリア殿下の口から躊躇いがちに出たピンクという言葉に、それが彼女の好みながらも、似合わないと敬遠している色だと直感した。
『そうでしょうか。ひとえにピンクと言っても様々なものがありますから、殿下にお似合いになるものもあるはずですわ』
そう微笑んでみせると、蒼白な顔で立ち尽くしている衣装担当の侍女に声をかける。
「衣裳部屋を見せてください」
そう問うと、彼女は部屋の奥にあるドアを示した。
「そのドアが入り口です」
「わかりました。一緒に来てください」
えっ? と戸惑いの隠せないその侍女の手をやや強引に引っ張って、化粧部屋の奥にある衣裳部屋に立ち入る。
結構な広さのあるその部屋には、まさしくおびただしい数のドレスが出番を待っていた。
「ピンク色のドレスを探してください」
「ええっ? 一体、何着あると思っているのですか?」
驚き呆れて声まで裏返ってしまった侍女に、私は逸る気持ちを抑えて条件を付け加える。
「なるべく淡くて温かみのある色合いのピンクです。殿下は背が低めでお胸やお腰回りが豊かな方ですから、シンプルですらりとしたラインのものは避けてください」
「分かりました」
動揺しながらも、衣装担当としての意地がそうさせるのか、突き動かされるように彼女は素早くドレスを選び出していく。
勿論、私も負けじとドレスの群れに立ち向かった。
額に汗を滲ませながら、色合いやデザインが異なるピンクのドレスを手に戻って来ると、ジュリア殿下は幾分落ち着きを取り戻した様子で、椅子に腰を下ろして疲れたように鏡に映るご自分を見つめていた。
私達が戻ってきたのが鏡越しに分かったのだろう。彼女は、ふと目を閉じて深い溜息を吐いた。
「もう、今日は公務への参加を見合わせるわ。体調不良だと王太子殿下に連絡して頂戴」
「畏まりました」
ドレスを抱えたまま呆然としている私の目の前で、ジュリア殿下の前に畏まっているジョシーが恭しく一礼し、化粧部屋を出て行く。
……このままでは駄目だわ。
すでに午前中と同じドレスを着ているジュリア殿下の暗い表情を見つめながら、ぎゅっと腕の中のドレスを抱き締めた。
アルベルト様に婚約を破棄された私が立ち直ることができたのは、オーレンが力になってくれたからだ。彼は、ただ優しかっただけではない。高価な品々を与えてくれただけでもない。
彼は、私の可能性を引き出してくれた。これまで信じ切っていた幸せの形だけが全てではないと気付かせてくれた。それまで私が過ごしていた狭い世界から、広い場所へ連れ出してくれた。
「ジュリア殿下」
どうか、気付いて欲しい。あなたが、自分の作った檻の中に囚われていることに。
「では、せめてお召替えをいたしませんか? 僭越ながら、私はこのドレスが殿下に一番似合うと思うのですが」
「……必要ないわ。どうせ、今日はもう部屋から出ないのだし」
面倒くさそうに眉を顰めたジュリア殿下だったが、その目が私の差し出すドレスを捉えた瞬間、表情にほんの僅かな動揺が浮かんだ。
脈ありと踏んだ私は、すかさず化粧部屋の入り口からこちらを窺っていたセシルに問いかける。
「ねえ、あなたはどう思うかしら?」
「えっ!? ……ええっとぉ」
彼女は慌てふためきながらも、化粧部屋に入ってきて、ハンガーラックに掛けられたドレスを品定めした後、その中から一着を手に取った。
「わ、私はこれがっ! で、殿下に一番、似合うと思います!」
私が選んだものよりも更にふんわりとスカートが広がったドレスを手に取ったセシルは、私の意図するところを汲んでくれたらしく、どもりながらも胸を張ってそう言い切った。
「では、あなた方は?」
そう他の侍女達に呼びかけると、彼女らは一瞬ギクッとしたように身体を強張らせた。それでも皆、年頃の女性だけあって、綺麗な物には目がない。煌びやかなドレスを前に目を輝かせながら品定めをし、自分はこれが、自分はコーデリアの選んだドレスが、いや私はセシルの選んだものが、と口々に意見を述べる。
その様子を眺めているジュリア殿下の表情は、少しずつ変化していった。はしゃいでいる侍女達を蔑むように睨んでいるようでいて、目は侍女達の手元にあるドレスをしっかり見ている。
そして、その視線はいつしか一着のドレスに固定されるようになっていた。
私は、侍女達の意見を集約し、最終的に絞り込まれた二着のドレスを手にジュリア殿下の前に立った。勿論、そのうちの一着は、彼女がご執心らしきドレスだ。
「殿下は、このうちのどちらがご自分にお似合いになると思われますか?」
「そ、……そんなこと、分かる訳ないじゃない」
ジュリア殿下はフイとそっぽを向いて頬を膨らませる。
「でしたら、ぜひ着てみてくださいませんか?」
「絶対、私達の選んだ方がお似合いになると思うのです」
「いいえ。殿下の魅力を引き立てるのは、絶対にこちらですわ」
興奮した侍女達の勢いに押されるように身を引いたジュリア殿下は、大きく息を吐きだすと椅子から立ち上がった。
「わ、分かったわよ。着ればいいのでしょう?」
つっけんどんな物言いながらも了承してくださったことに、私を含めその場にいた侍女全員がホッと胸を撫で下ろす。
両方袖を通していただいた結果、やはりジュリア殿下が最初から気に入っていたらしいドレスの方が似合っていた。
「さすがはコーデリアね。ドレス選びのセンスは抜群だわ」
セシルがそう感嘆したのは、そのドレスを最初に選んだのが私だったからだ。
ほんの数か月前まで、オーレンに野暮ったいと酷評されるような格好をしていた私には、身に余る褒め言葉だ。
「どちらも良くお似合いだと思いますが、先ほどのドレスはどちらかといえば華やかな夜会向きで、こちらは可愛らしいながらも上品な感じですね」
「そうね。で、これであなた方の気は済んだかしら」
相変わらずつんけんしているジュリア殿下だけれど、似合うドレスを着て心が浮き立っているのか、照れ隠しにわざと反発しているようにしか見えない。
それは、他の侍女達も感じ取っているのだろう。
「まあ。せっかくですから、御髪も整えさせてくださいませ」
髪を結う担当の侍女が、他の侍女達を押しのけるように歩み出てきた。
「でしたら、ぜひお化粧も直させてください」
化粧担当の侍女達も負けじと声を上げる。
双方の侍女達に詰め寄られ、ジュリア殿下は呆れたように「勝手にすればいいわ」と悪態を吐きながらも、まんざらではなさそうに口の端に笑みを浮かべていた。
髪型も化粧も、私はそれぞれ担当の侍女達に意見を求められた。
どうやら、オーレンと共に出席した二度の夜会で流行の最先端をいく装いをしていたことで、私はお洒落に詳しくセンスがいいと評判になっているらしい。とんでもない誤解だが、ここで尻込みして、この一連の流れを引き起こした責任を放棄する訳にはいかない。
私はここ数カ月で身に付けた付け焼刃的な知識の中から、可愛らしくも上品なドレスに合うようにと、それまで派手に結い上げられていたジュリア殿下の髪を下ろし、優雅に編み込んでまとめるよう伝えた。まるで相手を威嚇するような派手なメイクも一度落として、控えめにかつ愛らしく見えるよう変えてもらった。
そうして出来上がったジュリア殿下は、当然ながら、それまでとはまるで別人のように変わった。鏡の中に映る自分の姿に戸惑ったように、呆然と立ち尽くしている。
「お綺麗ですわ、殿下」
「よくお似合いですわ。ああ、なんて素敵なのでしょう!」
皆で寄って集って着飾らせた達成感もあるのか、侍女達は皆顔を輝かせてジュリア殿下を褒め称える。
「……そんなことないわ。綺麗だなんて、とんでもない」
褒められて恥ずかしいというよりは、まるで今の自分が綺麗だと認めたくないとでもいうように、ジュリア殿下は鏡の中のご自分から目を逸らしてしまった。
「いいえ。殿下はお綺麗ですわ」
『そんなこと……! あの、……あの公爵令嬢と比べたら、私なんて!』
皆で寄って集って褒めていると、突然、ジュリア殿下は泣きそうな表情で叫んだ。
フレンシス語で発せられたその言葉が理解できない侍女達は、ぎょっとしたように肩を震わせ、表情を曇らせて困ったように視線を彷徨わせる。
空気が、以前と同じ重苦しくて冷え冷えとしたものに一変する。その光景を目の当たりにして、私は何となく察した。
今、ここにいる侍女達は、きっとジュリア殿下のことを嫌っているという訳ではない。寧ろ、未来の王妃殿下に誠心誠意お仕えして、お力になりたいと願っている者達ばかりなのだろう。まだ半日足らずしか共に働いてはいないけれど、私はそんな風に感じていた。
けれど彼女達は、ジュリア殿下がふと漏らすフレンシス語を理解できない。何を言われているのか分からないから、次第にその言葉そのものを聞くことが恐怖になって、目を逸らし黙り込んでしまう。そんな悪循環に陥ってしまっているのではないだろうか。
『殿下。そのようにご自分を卑下なさってはいけません。心の内は表面にも滲み出てしまうのです。自分は美しいのだと自信を持つことが大切なのです』
それは、私が冬の間、オーレンに叩き込まれてきたことだった。
『でも……』
『何故、殿下がアリアンナ様のことをそれほど意識されているのか存じませんが、あの御方にはあの御方の美しさがあるように、殿下には殿下の美しさがあるのです。それを引き出し、いかに磨き輝かせることができるか。それが重要なのだと存じます』
ジュリア殿下は、目に涙を貯めたまま、まるで子供のような表情で私を見つめていた。
その目から、ポロリと一粒の涙が零れ落ちる。それがきっかけのように、ふっと目を伏せた彼女は、そうね、と聞き取れるかどうかほどの小さな声で呟いた。
『……その通りだわ』
自嘲気味な笑みと共にジュリア殿下がそう呟いた時だった。
突如、化粧部屋に血相を変えたジョシーが飛び込んで来た。
「大変でございます。王太子殿下がお見えになられました」




