18.出勤
翌朝。
無事に早起きできた私は、前日に他の侍女達から教わっていた通りに身支度を済ませた。
前日に管理人の女官から受け取っていた侍女の制服を着て、邪魔にならないよう長い金髪をひっつめてまとめた化粧っ気のない私は、以前の冴えないコーデリアに戻ってしまったかのようだった。
そんな鏡の中の自分を不思議な気持ちで見つめる。
……これが、今の私。
本当に、私が王太子妃殿下の為に、何かをして差し上げることなどできるのだろうか。不安を吹き飛ばせるほどの自信など持てるはずもない。これまで、私は誰かに仕えた経験などないのだから。けれど、やると決めたからには全力でぶつかるしかない。
――遠くから見守っています。
オーレンから貰ったカードをお守り代わりにポケットに仕舞うと、部屋を出て階下に降りる。
すると、玄関付近で待っていた侍女がこちらを振り返った。
「あなたが、コーデリア嬢ですね?」
「はい」
「お聞き及びだと思いますが、私がジョシー・レイトンです。僭越ながら、王太子妃殿下にお仕えする侍女の先輩として、あなたを指導させていただくことになりました」
ジョシーと名乗った女性は、背が高く凛とした佇まいながら、女性にしては鋭い目つきの近寄りがたい雰囲気を持った人だった。
「よろしくお願いします」
私は貴族令嬢として一通りの礼儀や仕来たりなどは身に付けているけれど、王宮に努める者として知っておかなければならない事や、侍女としての知識は無いに等しい。だから、侍女とは言っても、私は王太子妃殿下のお側で話し相手になる他は、お茶を淹れる等の簡単なお世話をするだけということになっている。
それでも、侍女という立場上、知っておかなければならないことは山ほどあるので、教育係として中堅侍女がついてくれることになっていた。それが彼女、ジョシーだ。
「ひとつ、よろしいですか?」
笑顔で会釈した私に、非友好的な視線を返してきたジョシーは、挑むような口調でこう言った。
「私は男爵令嬢です。あなた様よりも身分は低いですが、それでも侍女としては先輩になります。ですから、あなた様のことはコーデリアと呼ばせていただきますし、厳しいことも言わせていただきます。よろしいですね?」
「ええ、勿論です」
当然のことだろうと頷いたのに、ジョシーに疑わし気に表情を歪められて首を傾げた。さっきのやり取りの中で、私は早速何か粗相をしてしまったのだろうか。
「……本当かしら」
辛うじて聞き取れる程度の彼女の声に驚く。その直後、私は自分について社交界で囁かれていた噂を思い出した。
――身分の高い者に媚びへつらい、自分より目下の者には容赦しない。
リッツスタール侯爵家に溶け込もうとする努力と、他人の婚約者を奪おうとするリリィ嬢に対する非難の言葉をそう歪曲されて流されていた私への評価は、ランデル伯爵夫人によって払拭されたと思っていた。けれど、一度そう認識されてしまった評価は、そう簡単に払拭できるものではない。
特に、リリィ嬢と同じ男爵令嬢であるジョシーなら、警戒するもの当然だろう。
先を行くジョシーの細くいかった肩を見つめながら、早くも胸の内に不安が広がっていく。
婚約を破棄される前、一人二人と離れていった友人達のことを思い出す。確かに、リリィ嬢を責める私は貴族令嬢としてあまりに見苦しかっただろう。けれど、彼女らに味方となって貰えなかった悲しみは、今も心の傷として残っている。
そっとスカートの上から押さえて、ポケットの中にあるカードの感触を確かめる。
……大丈夫。
フッと気合いを入れて弱気になりそうになる自分に気合いを入れると、私は彼女の後に続いて玄関を出た。
「……あなたが、コーデリア・ウィンスバーグ?」
「はい」
訝し気な表情で小首を傾げた王太子妃ジュリア殿下の前で深く頭を垂れた私は、彼女の問いを肯定する。すると、突如フレンシス語で、思わぬ直接的な感想を投げつけられた。
『そう。もっと美人かと思っていたわ』
あまりに明け透けな言葉に驚きつつ、何故でしょう? とフレンシス語で返すと、ジュリア殿下は不機嫌そうに溜息を吐いた。
『……そうだわ。あなた、フレンシス語が分かるのですってね』
『はい』
どうやら、ジュリア殿下は私に聞かせる為ではなく、ただ思ったことを呟いただけだったらしい。
『別に。ただ、彼の有名なオーレンの新しい恋人になった令嬢が、以前よりとても美しくなったと聞いていたから、拍子抜けしただけ』
『期待を裏切ってしまい、申し訳ございませんでした』
笑みを浮かべながら頭を下げると、ジュリア殿下はフイと視線を逸らした。
私の事が気に入らないのかも知れないが、それ以前にまるで子供のような振る舞いだ。こんな風に使用人に対して我儘で居丈高な令嬢はそれなりにいるけれど、これが一国の王太子妃だと思うと不快感より不安が先に立つ。
他国の美醜の基準はよく分からないが、フレンシス王国の王女であったというのに、丹念に施された化粧を落して侍女服を着てしまえば完全に紛れてしまえるほど、ジュリア殿下は平凡な顔立ちの女性だった。そのことに劣等感を抱いているのか、私とさほど変わらない年齢の割に化粧が濃い。その上、不機嫌そうに口角を下げてこちらを睨みつけてくるので、王家主催の夜会で何度か挨拶をした程度でほぼ初対面と言っていい私でも、嫌な印象を抱いてしまう。
アリアンナ様の大輪の花のように華やかな笑顔を思い出す。比べてはいけないと思いつつ、やはりジュリア殿下はあらゆる点でアリアンナ様に比べて劣っているように感じる。
いくら隣国との同盟関係上必要だったとはいえ、将来この方が王妃陛下となるのかと思うと、暗い気持ちになるのを止められなかった。美醜の問題だけではない。年齢の割に幼く脆そうなジュリア殿下を見ていると、とても一国の国母が務まるとは思えない。
「……でも、あなたはあの(・・)オーレンに愛されているのよね」
「……え?」
突然、我が国の言葉でそう言われた意図が分からずに首を傾げると、ジュリア殿下は意地悪そうな笑みを浮かべた。きっと、他の侍女達にも分かるよう、わざとフレンシス語を使わなかったのだろう。
けれど、何故急にそんなことを……?
「今日は、午後から公務があるから、午前中はゆっくりテラスで寛ぐとするわ。お茶はあなたに淹れてもらおうかしら、コーデリア」
まるで芝居の悪役夫人のように手にした扇で私を指すと、ジュリア殿下は椅子から立ち上がり、そのままさっさと一人でテラスへと向かわれてしまう。
慌てて日傘や椅子を用意しようと続く侍女達を見つめながら呆然としている私の腕を、ジョシーが掴んだ。
「ご命令よ。お茶を用意しますから、こちらへ」
お茶を上手に淹れる技術も、貴族令嬢としての嗜みの一つだ。
婚約者だったアルベルト様に振る舞う機会はほとんどなかったけれど、ここ数カ月、オーレンが珍しい茶葉を持って我が家を訪れた時には、彼に教えられた通り蒸らす時間に気を配りながら淹れたものだった。
その経験があったお蔭で、ジョシーに支援してもらいながらも用意したお茶は、ジュリア殿下から及第点をいただくことができた。
ただ、話し相手としては全く役には立たなかった。
私が振る話題に、ジュリア殿下は詰まらなそうに溜息を吐き、鬱陶しげな表情を浮かべた。そして、最終的に私は、テラスから室内に追い払われてしまったのだった。
「さっき、ジュリア殿下が言われた、あなたが愛されているっていう言葉の意味だけどね」
ジュリア様が部屋に戻られた後、テラスの片付けをしていると、セシルという名の侍女がそう話しかけてきた。
彼女は子爵令嬢で、最初から私に対して友好的に接してくれていた。今も、ジュリア殿下から投げかけられた言葉が気になっているのではないかと、私を案じてくれているような表情だった。
「一昨日、突然ここの侍女が三人も異動になったのは聞いているでしょう?」
「ええ」
「実は、三人ともそれぞれ問題のある子で、私達も困っていたし、ジュリア殿下も神経を逆撫でされることが度々あったの。けれど、三人ともこの国の貴族令嬢でしょう? 小言は言えても、強い態度には出られなかったの。侍女長にも何度か苦言を呈してきたけれど、その度に指導しますのでの一点張りで、何の解決もされなかったわ。それが、あなたが来る直前にいなくなった」
ほらね? と言わんばかりに輝いているセシルの視線を受けながら、納得どころか困惑してしまった。
「それが何故、私とオーレン様の話に繋がるの?」
「侍女長を動かしたのが、王太子殿下だったからよ」
嫌だわ、と揶揄うようにセシルは指先で私の腕を突っつく。
「ここのところ、王太子殿下はジュリア殿下に関心をお示しにはならなかったもの。その王太子殿下に進言してくださったのは、間違いなくオーレン様よ。恋人のあなたが、ジュリア殿下にお仕えするのに困らないように」
私は言葉を失った。
「本当は、あなたがオーレン様に頼んだのではなくて? 王太子妃殿下に仕えている侍女で、目障りな人達がいたら先に排除してくださらない? って」
「そんなこと、する訳ないでしょう!」
咄嗟に否定した後、セシルの表情が引きつるのを見て、自分が大声を上げてしまったことに気付いた。
「何をしているの」
ジュリア殿下について部屋に戻っていたジョシーが、険しい顔でテラスへ戻ってきた。
「まだそんなことをしているの? 殿下にはご予定があるのよ。急いで頂戴」
「申し訳ありません」
手際の悪さと、はしたなく大きな声を上げてしまったことに恥じ入って頭を下げると、ジョシーはフンと鼻を鳴らして踵を返し、再び室内へ戻っていった。
「ごめんなさい。ほんの冗談だったの」
か細い声に振り返れば、セシルがしょんぼりとした表情で肩を震わせていた。
「いえ。こちらこそ、大声を出したりしてごめんなさい」
謝り返すと、セシルは俯いたまま、呟くように語った。
「私、嬉しかったの。異動になった人たちに辛く当たられていて、いつも面倒な仕事を押し付けられてきたから。だから、もし彼女達がいなくなったのがあなたのお蔭だったのなら、お礼が言いたくて……」
「私は、オーレン様に何も頼んでいないわ。きっと偶然よ」
そう言ったものの、心の中ではもしかしたらという思いが膨らんでいく。そう、彼なら出来ない事ではない。
けれど、そもそもジュリア殿下に相応しくない侍女を配置換えするのは当然のことだ。今まで何の改善もなされずに放置されていたことがおかしかったのだ。
もしかしたら、王妃様のお声掛けで私が侍女として採用されたのを契機に、王太子殿下が侍女達の勤務状況を改めて調査させたのかも知れない。その結果、勤務態度に問題があると発覚した者を異動させた。きっと、ただそれだけのことだ。オーレンが私の為にそこまでするだなんて、そんなことはあり得ない。
けれど、結果としてそのお蔭でジュリア殿下の過ごされる環境が改善されたのなら、それでいいのではないだろうか。
何故、わざわざそれが私の仕業だと邪推して、愛されているだなんて当て付けのようなことを言わなければならないのだろう。
「コーデリア」
ジョシーに固い口調で呼ばれたのは、ジュリア殿下のお部屋の隣にある侍女の休憩室で、セシルを含む数人で食事をとっていた時だった。
ジュリア殿下が昼食を取られている間、ジョシーとあと何名かの侍女は先に昼食をすませていた。ジュリア殿下の昼食の準備や給仕に残った私達と入れ違いに、今は彼女達が午後の公務へ向かう殿下の身支度を整えて差し上げていたはずだ。
「何でしょうか」
「早くこちらへ」
ジョシーは、いいからとにかく早く来いと言わんばかりに手招きをする。
昼食は、簡単に済ませられるようにと、様々な具を挟んだサンドウィッチだった。それでも、まだ半分も食べられていない。けれど、食べ終わってからでは駄目でしょうかなんて、冗談でも言えるような雰囲気ではなかった。
席を立つと、向かいに座っていたセシルから、お気の毒にという顔をされた。小さく笑みを浮かべて大丈夫だと一つ頷くと、硬い表情を浮かべたままドアの外で待っているジョシーの元へ歩み寄る。
「どうされたのですか?」
「ジュリア殿下が御仕度中にご機嫌を損ねられて。あなた、こういう時の為に雇われたのでしょう?」
焦燥感が窺える表情に歪んだ笑みを浮かべたジョシーの顔を見る限り、嫌な予感しかしない。けれども、ジョシーが言った通り、私はジュリア殿下のお力になる為に侍女になったのだ。尻込みする訳にも逃げる訳にもいかない。
意を決し、ジョシーの後に続きジュリア殿下の部屋に戻ると、そこには想像以上に重苦しい空気が流れていた。




