15.決心
華やかに咲き誇った庭の花々を打ちのめすように、春の雨が降っている。
どんよりと重く垂れこめる雲のせいで、昼間だというのに室内は薄暗い。その室内に引き篭もって、もう三日が経っていた。
あの夜、泣いたせいで施されたメイクがほとんど落ちてしまった状態で帰宅した私の姿に、出迎えた母も使用人達も絶句していた。申し訳なさそうに、何があったのかコーデリアは話してくれないのだと母に説明するオーレンの言葉を背中で聞きながら、ナタリーに支えられて自室に戻った。
翌日、オーレンから気遣う言葉が書かれたカードを添えた花が届けられたけれど、私は手に取ろうという気持ちにもなれなかった。
オーレンを嫌いになった訳ではない。寧ろ逆だ。好きだからこそ、彼が愛しているのは自分ではない事が辛くて辛くて、……辛過ぎて、心が擦り切れてしまったのだ。
あの夜の出来事を思い出しては、考えを巡らせていた。何故、あの時オーレンは、アルベルト様を擁護するような話をしたのだろう。
――アルベルトが母親のせいであなたを誤解していたのだとしたら?
もしかして、オーレンは私とアルベルト様によりを戻させようとしているのだろうか。
考えても考えても、最後はその結論に辿り着く。
だとしたら、それは余りにも遅すぎる。私の気持ちはもうアルベルト様ではなく、オーレンに向いているというのに。それに、愛している人に他の男性との仲を取り持たれようとしているなんて、こんなに辛いことはない。
もし私の推測が間違っていなかったとしたら、それはつまり、もうオーレンにとって私は不要の存在になってしまったということだ。だから、私とアルベルト様を元の鞘に収めて、偽りの交際関係を終わらせようとしているのだろう。
それも、仕方のないことかも知れない。
愛しいアリアンナ様が出席している夜会で、恋人役として仕立て上げた女がどこに行ったのか姿が見えなくなり、探し回ってようやく見つけたと思ったら、泣き過ぎて会場に連れ戻せないくらい酷い有様になっていた。オーレンにとってみたら、期待外れもいいところだっただろう。この日の為に、私を恋人役として磨き上げてきたのだろうに。
……もう、このあたりが潮時かも知れないと思われているのかも知れない。
一段と外が暗くなり、遠雷が空気を震わせる。その、人間の本能に刷り込まれている恐怖を呼び起こすような音は、まるで今の私の心境を表しているかのように響いてくる。
……嫌。離れたくない。
膝の上に置いた手をギュッと握り締める。
けれど、きっとオーレンはそう思っていないのだ。だから、アルベルト様が私の事を誤解していたのだと、彼が私に無関心だったのには理由があったのだと、今頃になって語ったのだ。
それを聞いた私が、誤解を解いて、アルベルト様ともう一度やり直そうという気持ちになれば、自然とオーレンとの関係を解消しようとするだろう。それが彼の手なのだ。
「…………そういうことなのね」
呟いた自分の声の空虚さに、ふと笑いが込み上げてきた。
いつかは、終わらせなければならない関係だったのだ。オーレンが望んでいるのなら、早いうちに身を引かなければならない。
オーレンが、私の傍からいなくなる。もう、夜会にエスコートしてくれることも、慰めるように手を撫でてくれることも、包み込むように抱きしめてくれることもない。そう思うと、まるで心を引き裂かれるようだった。
けれど、オーレンが本当に愛しているのは誰かということに気付いて、ショックを受けている今なら、まだ決心できるような気がする。でも、この先、今までのような関係をずるずると続けていれば、また私は愚かにも彼の優しさに勘違いしてしまい、ますます恋心を募らせてしまう。もう、後戻りできないほどに、彼を愛してしまったら……。
決心しなさい、コーデリア。
流行の最先端のドレスに身を包み、まるで別人のように美しくなることもできた。華やかな夜会の中心でオーレンに恋人として扱われ、人々から羨望の眼差しを浴びることもできた。
魔法は解けたのだ。私は元の地味で冴えない不幸なコーデリアに戻る。
でも、こんなにもオーレンに心惹かれてしまった今は、他の男性との結婚なんて考えられない。だから、修道院へ向かうことにしよう。もう二度と社交界へは戻って来られないけれど、オーレンと顔を合わせば未練が募るだけだから、その方がいいのかも知れない。
別れる理由は何にすればいいかしら。
私達の関係が最初から偽りだったと知られないよう、別れの理由も周囲から理解される筋道の立ったものにしなければならない。正直言って、私には苦手な分野だ。けれど、そういったことを考え付くのが得意なオーレンは、あれから一向に訪ねてくる気配がない。
仕事が忙しいのだろう。そう思いたいけれど、アリアンナ様がすでに王宮で生活を始めていることを思い出して、嫌な想像ばかり浮かんでしまう。
二人は、王宮でも顔を合わせることがあるのだろうか。そして、時折庭の片隅などで、仲良く語り合ったりしているのではないだろうか。そんな想像をするだけで、胸が焼き切れるような痛みが走る。
オーレンと別れた後、自分はどうなってしまうのか想像するだけで怖い。それでも、これ以上彼と一緒にいたら、私を愛してくれない彼を憎んでしまいそうで、その方が恐ろしかった。
「コーデリア。話があるの」
しん、と静まり返り、食器の立てる微かな音だけが響く食卓で、母が沈黙を破ったのは夕食時のことだった。
あの夜会から帰った翌日、何があったのかしつこく問い詰めてきた母だったけれど、私が何も話すつもりがないと分かったのか、次の日からは何も言わなくなっていた。それなのに、また理由を問い詰めるつもりなのだろうか。
眉を顰めながら、それでも母の話が何なのかも聞かずに席を立つわけにもいかず、私は食事の手を止めて母に向き直った。
「何でしょうか、お母様」
「あなたの様子がおかしくなったのは、今でもずっと気に掛かっているし、心配しているわ。でも、オーレンでさえ理由は分からないと言うし、あなたは何も話してくれないし」
予想通りの話の内容に、このまま食事を中断して部屋に戻ろうかと考え始めた時だった。
「だから、あなたが話そうと思えるまで待つわ。今日は、その話じゃないの。実は今日、王妃様から、あなたに侍女として王宮にあがるつもりはないかというお話があって」
「侍女? 王妃様の、ですか?」
「いいえ。王太子妃殿下よ」
王太子妃ジュリア様は、隣国フレンシスから嫁がれてきた彼の国の王女様だ。婚礼の儀から二年ほど経つけれど、まだご懐妊されたという話は聞かない。
「王太子妃殿下は、我が国の言葉で流暢にお喋りになられるけれど、やっぱり故郷の言葉を聞くと心が癒されるのだそうよ。でも、最近、フレンシスから連れてきた侍女が体調を崩して床についたままになっているの。それに加え、ご懐妊を切望する周囲のプレッシャーが大きくなってきて、塞ぎがちになられているのですって。あなたは、確かフレンシス語も学んでいたわよね?」
「はい。でも、それほど流暢には話せませんが」
「それでもいいのよ。フレンシス語で王太子妃殿下と会話ができれば」
王宮で侍女として働く。そんなこと、これまで考えてもみないことだった。
貴族令嬢は、大半が成人を迎えると、数年のうちに他家へ嫁ぐ。王族方に気に入られて望まれた場合を除き、よほど自立心が強く結婚を望まない奇特な人物か、経済的事情で働かざるを得ないか等の理由がない限り、我が国で侍女になる令嬢はいないと言っても過言ではない。
王太子妃殿下のお傍に仕え、話し相手になるだなんて滅多にない名誉なことだ。けれど、そんな大役、果たして私に務まるのだろうか。殿下は、いずれ王妃様になる御方だ。その御方をお支えするという責任の重さを考えると、尻込みしてしまう。
けれど、このまま部屋で鬱々と過ごしているよりは、いっそ思い切って環境を変えてみるのもいいかも知れない。
王宮で緊張しながら働いていれば、きっとその間はオーレンのことを考えずに済む。そのうちに彼との関係を解消することになっても、王太子妃殿下をお慰めするという遣り甲斐のある仕事があれば、きっと婚約破棄された時のように絶望に沈んでいる間もないだろう。
「お母様。その話、お受けします」
「え? ……ちょ、ちょっとお待ちなさい」
自分で話を持ってきたくせに、私が承諾の返事をするなり、母は目を丸くした。
「そんなに急いで返事をしなくてもいいのよ? 侍女になれば、そう簡単に職を辞することもできないのだし、オーレンに相談してからでも……」
「いいの。私がやると決めたのだから。王妃様に承りましたとお返事しておいてくださいね」
そう言うと、私は食事を再開した。
心なしか気分がすっきりして、ここの所失せていた食欲が戻ってきたような気がする。
アルベルト様やオーレンに必要とされなくても、こうやって誰かの為に私ができることがあるのだ。そう思えたことで、自然と気力が湧いてきた。
困惑したように私を見つめている母が、不意に苦笑した。
「お行儀が悪くってよ、コーデリア」
年頃の令嬢らしからぬ食べっぷりをみせる私を非難がましく叱りながら、母の顔は笑っていた。
きっと、母も私とオーレンの間に何かあったのだと、薄々察しているのだろう。いや、最初から私達が本気で愛し合っているなんて、心のどこかで疑っていたに違いない。
……強くならなければいけないのよ、コーデリア。
家族の為にも自分の為にも、他人の思惑に翻弄されてただ嘆くことしかできない自分を変えなければ、いつまでも同じことを繰り返すだけ。それではいけないのだと、いつもより厚めに切り分けた肉を頬張りながら、自分自身にそう言い聞かせた。
母が、王妃様に会う為王宮へ行き、私の意志を伝えてくれてから三日後。
「お嬢様。オーレン様がいらっしゃいました」
ナタリーの声に、私は荷造りの手を止めて振り返った。
侍女として早急に出仕するよう王宮から返事がきたのは昨日のことだった。
侍女の制服は王宮から支給される。ただ、騎士と同じく侍女も王宮に設けられている寮で生活することになる為、身の回りのものや私服など持っていくものは沢山ある。
これからはナタリーに頼らず、一人で頑張って行かなければならないのだ。そういう現実にも、採用が決まってから気付いた迂闊な私は、せめて荷造りからでも自分の力でやろうと四苦八苦しながら持っていく物を選び出し、鞄に詰めていたところだった。
「そう……」
何となく、もうそろそろ彼が来る頃ではないかと覚悟していた。私が知らせなくても、彼は何らかの方法で私が侍女になる話を耳にするだろうと思っていた。
私の勝手な行動に、彼は怒っているだろう。
……でも、あなたの思い通りにばかりはならないわ。
そんな小さな反発心が、竦みそうになる私の背を押す。
私は、いずれオーレン無しで生きていかなければならないのだ。いつまでも、彼の言う通りにしている訳にはいかない。
掛けていた長椅子から立ち上がってスカートを叩くと、ついでに両手で頬を軽く叩いて気合いを入れた。
「あなたが、侍女として王宮へあがるという話を聞いた」
私の姿を見るなり、オーレンは応接室のソファから立ち上がると、詰め寄ってきて私の肩を掴んだ。
「ええ」
「何故? 何故、私に一言も相談なくそんな重要なことを決めたんだ?」
批難されることは覚悟していた。復讐の計画はどうなるのだと、恋人役としての務めを果たさないつもりかと、叱られることも予想していた。
けれど、詰め寄ってくるオーレンの表情は、怒っているというよりは、まるで泣きだしそうに見えた。
今になって、後悔がじわじわと沸き起こってくる。
……オーレンを傷付けるつもりなんてなかったのに。
でも、彼にとってみれば、私に裏切られたも同然なのだろう。もし、自分がオーレンの立場だったら。そう考えると、オーレンを想い続ける苦しさに負けて逃げ道に飛び込んだ自分の愚かしさに、今更ながらに気が付いた。
「相談しなかったのは悪かったわ」
俯きながら声を絞り出す。
「でも、やりたいと思ったの。王太子妃殿下の為に、私ができることがあればして差し上げたいの」
本当に心からそう思って依頼を受けたのかと言えば、それは真実ではない。けれど、だからといって、本当の理由を正直に話すことはできない。
本心を悟られまいとまっすぐオーレンの顔を見上げて申し上げると、彼の手が私の肩から滑り落ちていった。
「……今更、何を言っても遅い。正式な辞令が発令された後では、もうお断りすることはできない」
「あなたは反対なの? 私が侍女になることに」
「当たり前だ!」
声を荒げたオーレンに驚いて目を見開くと、彼は動揺したように視線を彷徨わせながら小さく謝罪の言葉を口にした。
「すまない。……あなたが決めたことだ。やりたいなら、やってみるといい」
勝手にしろ。そう言われたようで、胸がぎゅっと痛んだ。
……お願い、オーレン。私の事、嫌いにならないで。
心の中で縋りつきながら、私は話題を変えようと口を開いた。
「……あの。また素敵なお花をいただいたわ。いつもありがとう、オーレン」
「ああ。今日は、王宮から直接来たから、何も持ってきていないんだ。すまないね、後で何か届けさせるよ」
素っ気ない口調で返されたその言葉は、まるで彼が私のことを、会う度に対価が必要な相手だと言っているように聞こえた。
私はこれまで、彼が与えてくれるものを受け取ってきた。彼が私を恋人役に相応しい女にするために必要なのだと思っているのなら、受け取って活用しなければいけないと思って。
けれど、そのせいで、彼が私の事を、物で釣らなければ関係を維持できない女だと思い込んでしまっているのなら、それは間違いだ。
「何もいらないわ。気にしないで」
私はあなたに感謝しているのよ、オーレン。私の心が弱いばかりに、あなたの期待に応えられなくて心苦しいくらいなのに。
「……そう」
こちらを振り向いたオーレンは、何故か寂しそうな笑顔を浮かべた。
「実は、仕事の途中で抜けてきたんだ。急いで戻らないと」
ナタリーが淹れたばかりの熱いお茶を飲み干すと、オーレンはそう言い残して去っていった。




