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13.非難

 テラスは柵で囲われていて、その一角には庭に降りられる通路が伸びていた。

 柵に手をかけ、空を見上げる。今夜は真円に近い大きな月が、暗い夜空に輝いていた。

 ……オーレンは、アリアンナ様に恋をしている。

 認めたくないけれど、それはきっと事実に相違なかった。

 ふと、彼が復讐に当たって作り上げた物語を思い出し、ああそうか、と嘆息する。

 オーレンは、一人の少女に恋をした。けれど、その少女にはすでに自分が対抗できないほど格上の婚約者がいた。……それは、全くの作り話ではなかったのだ。

 ――息子の横恋慕を理由に、リッツスタール侯爵家と事を構えるつもりだったのですか?

 いつだったか、オーレンが彼の母親にそう言ったことを思い出した。

 オーレンが、どれほど焦がれても、アリアンナ様への恋心を誰にも言えなかったのは、きっと彼が自分の両親の性格をよく知っていたからだろう。少なくとも彼の母親は、自分の息子が想う相手と結ばれるよう、行動に移してしまうような性格の人に思えた。正面切ってではなくとも、王家と事を構えるようなことになれば、いかに繁華なランデル伯爵家であってもひとたまりもない。

 それに、第二王子の婚約者を愛してしまったと周囲に知れれば、要らぬ疑念を招いてしまう。だからオーレンは、叶わない恋を諦める為、不毛な遊びの恋に興じるようになった。

 あれは、全て作り話だったのではなく、真実を織り交ぜたシナリオだったのだ。ただ、愛してしまった少女というのが、アリアンナ様であって私ではなかったというだけで。

 彼はアリアンナ様を諦める為に、今も私との関係を続けているのだろう。

 それはいつまで? アリアンナ様の結婚式が終わるまで? それとも、彼がアリアンナ様の事を忘れることができるまで……?

 滲み出てくる涙を、そっと指先で拭う。けれど、拭ったそばから熱い涙が込み上げてくる。

 何故、傷つく必要があるの?

 溢れてくる涙を止めようと、私は悲恋に嘆く自分自身を嘲笑した。

 彼との関係は、偽りのものだと分かりきっていたはずだ。それなのに、まるで裏切られたとでもいうように嘆いて、オーレンに対して恨むような感情を抱くなんて。

 そもそも、私に彼を恨む資格なんてない。同じ復讐という目的の為に手を組み、お互いの存在を利用してきたのだから。

 ……それに。

 思い返せば、オーレンは私に触れることはあっても、唇を奪うことはなかった。容姿を褒めてくれることはあっても、演技ではなく、本気で愛を囁くこともなかった。

 恋人同士に見えるようにという彼の演技に、勝手に本気になって、勝手に傷ついているのは私だ。これで恨まれたら、オーレンもたまったものではないだろう。

 愚かな自分を笑った。オーレンは悪くない、馬鹿なのは自分だと何度も言い聞かせた。

 ……それでも、悲しみは抑えきれずに、じわじわと心を浸食していく。

 だって、馬鹿だと分かっていても、思い描いてしまったから。オーレンと本気で愛し合って、幸せになれる未来を望んでしまったから。

 テラスの柵を掴んだ手に力を込め、嗚咽を飲み込んだ時だった。


「コーデリア・ウィンスバーグ伯爵令嬢ですね?」

 不意に、男性用の香水が鼻孔をくすぐった。それは、オーレンが愛用しているものとは違う、もっと甘くて鼻の奥に残るような香りだった。

「失礼。あなたがとても美しいので、つい声を掛けてしまいました。私はセルジュ・ノーリスと申します。少しお話ししてもよろしいでしょうか」

 セルジュ・ノーリス伯爵。三十を過ぎているにも関わらず、妻帯せずに社交界で浮名を流していると評判の男性。確か、ドレイク侯爵とは従弟になる人物だと、以前オーレンから聞いたことがある。既婚者から世間知らずの若い娘まで誰彼構わず手を出す危険な人物だから気を付けるように、という彼からの忠告を思い出す。

 けれど、振り向いてそれが誰か認識した時には、すでにノーリス伯爵は彼が手を伸ばせばこちらの腕を掴めるほどの距離にいた。

 近過ぎると感じるほどの距離からこちらを見下ろしてくるノーリス伯爵の瞳が、月明かりを受けて異様な光を湛えているのを見た瞬間、全身に鳥肌が立った。

 未婚の、しかも婚約者や恋人同士ではない男女が会話を交わすには、夜のテラスは相応しい場所ではない。その上、相手はノーリス伯爵だ。

 脳内で警鐘が鳴った。

「申し訳ございません。すぐに戻らなければなりませんので」

「そう言わずに。月明かりの下に佇むあなたは、月の女神のように美しい。愚かにも心を奪われてしまった哀れな男に、もう少しこの幸せなひと時を分け与えてはいただけないでしょうか」

 歯の浮くような台詞を平然と言ってのける目の前の男に、ただただ不愉快さが募っていく。

 けれど、適当にあしらってこの場から離れるべきだと分かっているのに、この男は何を言っても引き下がろうとしない。断り文句の通じない相手に、次第に気力が削がれていく。

 ノーリス伯爵は会場への入り口方向に立ちはだかっているので、オーレンの元へ戻ることもできない。かといって、後方にある通路を通って庭に逃げたところで、余計に危機的な状況へ陥りそうな嫌な予感がしてならない。

 こちらの気持ちなどお構いなしにじりじりと距離を詰めてくるノーリス伯爵の手が伸びてきて、柵の上にある私の手に触れた。慌てて振り払おうとしたところを、逆に握り込まれてしまう。

 柵とノーリス伯爵との間に挟まれ、身動きもできないまま肩を引き寄せられた。甘ったるい香水の匂いに頭がくらくらして、至近距離から歯の浮くような台詞を囁かれ続けるのが苦痛でならない。

 ……助けて、オーレン。

 心の中で助けを求めると同時に、ふと、アリアンナ様を見つめているオーレンの横顔を思い出して、絶望のあまり凍り付いた。

 ……助けなど、来ない。

 必死に突っ張って抵抗していた腕から力が抜ける。私が力を抜いたことで、好意を受けたと思ったのか、ノーリス伯爵の鼻息が荒くなった。

 …………オーレン!

 心の中で彼の名を叫びながら、ぎゅっと目を閉じた。

 その時、不意にノーリス伯爵が物凄い勢いで私から離れていった。

 くぐもった悲鳴が聞こえ、慌てて顔を上げれば、ノーリス伯爵が情けない格好でテラスに座り込んでいる。

 屈みこみ、その胸ぐらを掴んでいる相手を見た瞬間、息が止まりそうになった。

「嫌がる女性に非礼を働くなど感心しませんな、ノーリス伯爵」

 彼の、こんな風に絞り出すような攻撃的な声を、これまで聞いた事がなかった。

「ひっ……」

「ここは、大人しく引き下がってもらおうか。それとも、異論がおありかな? それならば、今夜会の主催者に事の子細を話して仲裁に入っていただこうか」

「……失礼する」

 ドレイク侯爵の存在を匂わせた途端、ノーリス伯爵は血相を変え、もがくように立ち上がると足を踏みながらして逃げていった。



 ノーリス伯爵がテラスから会場へと姿を消すのを見送って、アルベルト様はこちらを振り返った。

 逆光でよく顔が見えない。それでも、さっきまで相手を絞め殺してしまうのではないかと思えるほど発せられていた威圧感は消えていた。

「大丈夫か?」

 差し出された大きな手を、柵に縋り付いた情けない格好のまま、私はじっと見つめていた。

 何故……。

 その手から腕へ、そして彼の背後に視線を彷徨わせる。無意識のうちに、私はアルベルト様の後ろに、リリィ嬢の姿を探していた。

 会場の光がほとんど届かない、薄暗いテラス。目の前に立ちはだかるアルベルト様の姿は、婚約破棄を告げられたあの夜の状況を思い出すには充分だった。

「……コーデリア」

 私の名を呟いたアルベルト様の声は、さっきまでノーリス伯爵を威嚇しているような低く太い声ではなく、力なく掠れているように聞こえた。

 それでも、アルベルト様に名を呼ばれた瞬間、反射的に肩が震えた。

「会場へ戻ろう。こんな所に一人でいたら、またさっきのような輩が寄ってくる」

 さあ、と急かすように大きな手が私の目の前で揺れる。

 かつて、物怖じする幼い私を庭に誘ってくれたその手は、日に焼けて節くれだち、立派な剣ダコができている。

 この手を、愛しいと思っていた時があった。この手に抱かれ、導かれ、共に歩む未来が確かに来るのだと疑いもしなかった時があった。

 ……でも、今、私が求めているのは、この手じゃない。

 一向に動こうとしない私に苛立ったのか、アルベルト様は差し出していた手をそのまま自分の額に当て、髪をかき上げて溜息を吐いた。

「オーレンのような男と付き合ったりするから、同類だと思われてあんな輩が寄ってくるんだ。……私への当てつけかも知れないが、こんなことをしていてはあなたの為にはならない」

 責めるようなアルベルト様の言葉を耳にした瞬間、全身を言い知れない強い感情が荒れ狂った。

「オーレンは、絶望のあまり生きる気力さえなくしていた私を救ってくれたのです。私は心から、オーレンを愛しています」

 涙と共に溢れたか細い悲鳴のような私の声は、情けなく震えていた。

 けれど、それは復讐のシナリオをなぞる演技ではなく、紛れもなく私の本心だった。

 一瞬、虚を突かれたように立ち尽くしたアルベルト様は、呆れたように息を大きく吐き出す。

「あの男の女性遍歴を知っているだろう? あなたも遊ばれているだけだ」

 遊ばれている訳ではない。お互い分かっていて恋人の振りをしているだけだ。

 それでも、私はオーレンに惹かれてしまった。彼の傍にいたい。例え、オーレンの心の中に別の女性がいたとしても。不思議とその気持ちだけは揺るがなかった。

「私にあんな酷い仕打ちをしたあなたが、オーレンを非難できるのですか?」

 気付けば、アルベルト様に向かってそう言い放っていた。

 悔しかったのだ。オーレンのことを、あのノーリス伯爵と同類だと言われたことが。

 オーレンはいつだって優しかった。私の為を思って行動してくれていた。唯一の汚点とも言える女性遍歴も、叶わない恋を諦める為だった。

 そんなオーレンを、悪く言われることが我慢できなかった。

「婚約者がいながら他の女性に心を奪われて恋仲になった挙句、己の不貞を省みるどころか、婚約者を責め立てて捨てたあなたに、オーレンの何が分かるというのですか」

 込み上げてくる怒りに似た感情を言葉に乗せて、思い切りアルベルト様に叩き付けた。

 逆光で表情は良く見えなかったけれど、アルベルト様は口元に手を当てて黙り込み、私の足元に視線を落とした。

 言ってやった、という悦びと、言ってしまった、という後悔が胸の中でせめぎ合う。

 例え、どんなに憎いと思っていた相手でも、自分の放った言葉で傷つけてしまったのだと思うと後味が悪い。

「……私の事は、放っておいてください」

 胸の中で荒れ狂っていた感情がすっと冷めていって、蚊の鳴くようにそう言い捨てると、私は柵に縋りながらアルベルト様に背を向けた。

 こんな泣き顔のままでは、会場へは戻れない。どこか人目のつかない場所で気持ちを落ち着けなければ、オーレンのところへ帰ることもできない。

「待て、どこへ行くつもりだ」

 非難するように問いかけてくるアルベルト様の声を無視して、私はテラスの通路を通り、庭へと足を踏み入れた。


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