12.恋心
社交界復帰後最初の夜会を乗り切った後、私は自分が少しおかしくなってしまったのを自覚していた。
地に足が着いていないような、妙に気分が高揚しているような。それでいて、不意にどうしようもなく切なくなって溜息を吐いてしまう。
オーレン。
自室の窓から、そこにいるはずのない人の姿を求めて外を眺めながら、また深い溜息を漏らす。
彼は多忙で、四日後に開かれる夜会の日まで会えないと分かっている。それなのに、ふとした瞬間に彼に会いたいという衝動に襲われ、居ても立っても居られなくなってしまう。
……オーレン。
昨夜、我が家まで送ってくれた彼を見送ってから、何度心の中で彼の名を呟いただろう。
失恋の痛みを忘れるには新しい恋をするのが一番だ、という話を聞いたのは、何時誰からだっただろうか。
アルベルト様とリリィ嬢に対して敵愾心を抱いても、結局傷つくのはこちらだということは、昨夜の夜会で思い知らされた。だからきっと、彼らのことなどこの際きれいさっぱり忘れた方がいいのだろう。
その為には、新しい恋をするのが一番いい。
……けれど、オーレンとは復讐という目的で繋がった偽りの関係だ。そんな彼に恋をしたところで、その恋は叶うことなどない。振り回され傷ついて、再び絶望の淵に立たされるのは目に見えている。
それでも。
「お嬢様。オーレン様から贈り物が届いております」
ナタリーの声に弾かれたように椅子から立ち上がり、跳ねるように駆け寄って、彼女が抱えてきた大きな箱を奪うように受け取る。
――愛しいあなたの努力と忍耐に敬意を表して。
最初の形容詞が、例え誰かの目に触れた時のことを考えてだとしても、添えられたカードに書かれた彼の整った筆跡に心が躍った。
箱の中には、大きな赤い薔薇の花束と、次の夜会に向けて準備しているドレスに合いそうな繊細な銀細工の髪飾り。
高価な品を貰ったというよりも、自分をより美しくみせる品を手に入れたというよりも、オーレンが私の為を思って何かをしてくれたという事実がとてつもなく嬉しい。
痺れるような幸福感に浸っていると、ナタリーが心配そうな顔で声を掛けてきた。
「お嬢様。……その、もしかしてお嬢様は本当にオーレン様のことを」
「まさか!」
反射的にそう答えた後、私はすぐには次の言葉を続けられなかった。
そんな私を、眉根を寄せて心配そうに見つめるナタリーに、小さく首を横に振る。
「……ちゃんと分かってるわ、ナタリー。だから、心配しないで」
笑顔を浮かべようとしたけれど、口元が戦慄いてうまく笑えなかった。
分かっている。そう、分かっていたはずだった。オーレンに近づき過ぎれば、傷つくのはこちらなのだと。
この偽りの関係が終わったら、魔法は解け、私は元の冴えないコーデリアに戻ってしまう。アルベルト様から婚約破棄された上に、オーレンに捨てられたという傷が加わった私に、新たな幸せが来ることはない。
だからきっと、私の中で高まっていくオーレンを求めるこの強い気持ちは、不幸になりたくないという思いの裏返しなのだろう。
私は、自分の幸せの為に、オーレンを失いたくないと思っているのだ。彼にとってはいい迷惑だろう。ただの契約関係であった恋人役の女に、本気になられてしまっては。
「……分かっているから」
まるで自分に言い聞かせるように、一抱えもある花束をギュッと抱き締めて目を閉じた。
薔薇は全て棘が除かれていた。
けれど、例え棘があったとしても、私はこの花束を躊躇なく抱き締めただろう。肌を刺す痛みは、きっとこの胸を締め付ける苦しみを紛らわせてくれただろうから。
先日のデューク侯爵とは異なり、ドレイク侯爵は貴族の格式を重んじる保守的な方だ。招待される客は伯爵家以上、しかも一定の歴史や家格のあるものに限られる。
これまで、我が家は父が招待を受けて夜会に参加していたが、私が招待されたのは今回が初めてだった。オーレンがそう手配したのか、それともランデル伯爵家と懇意にしているというドレイク侯爵がオーレンの恋人である私に興味を持ったのか。
けれど、私はオーレンと共に過ごせることができればいいのであって、招待された理由など正直どちらでもよかった。
先日の夜会の帰りに言った通り、オーレンは随分と早い時間から我が家を訪ねて来た。
「今日のドレスもよく似合っているよ。思った通り、その髪飾りはドレスに映えるね。とても素敵だ」
オーレンは、事もなげにさらりと褒め言葉を口にする。
「ええ、とても綺麗ね。いつもありがとう、オーレン」
手を伸ばして、ナタリーがつけてくれた髪飾りに指先で触れる。その、硬質で、指先だけで繊細な細工が施されていると分かる銀細工に触れただけで、幸福感が沸き上がってくる。
この五日というもの、彼に会いたくて仕方がなかったのに、いざ会えば気恥ずかしさが先に立ってオーレンの顔がまともに見られない。
胸の奥で心臓がトクトクと音を立てているのが分かる。彼と気まずくなりたくなくて、当たり障りのない楽しい会話をしたいと思うのに、何を話せばいいのか分からない。
「そんなに気負うことはないよ。今日の夜会には、リリィ嬢はいないから」
「え……?」
私が挙動不審になっているのを、オーレンは緊張のせいだと勘違いしているらしい。そっと私の手を取って、両手で優しく包み込んだ。
「いくらリッツスタール侯爵子息の恋人といっても、リリィ嬢は男爵令嬢。しかも、ダンネル男爵が平民の使用人に手を付けて産ませた子だ。ドレイク侯爵は、そういった節操のない行いが大嫌いな御方でね」
「そう……」
節操のない行いという言葉が引っかかって首を傾げると、オーレンは苦笑いを浮かべた。
「あ、今、私はどうなんだと思っただろう?」
「……え、……その」
「誤魔化さなくてもいい。勿論、良くは思われていなかった。ドレイク侯爵だけではなく、両親を始め親しくしてくれている人達にも、行いを改めるようずっと苦言を呈されていた。けれど、あなたと真剣に交際を始めたことで、周囲の私を見る目も変わってきた」
……でも、私とあなたの関係は偽りなのに。
喉元まで出かかった言葉を寸前で飲み込んだ。
オーレンが私に復讐話をもちかけてきた本当の理由は何なのだろう。ふと、そんな疑問が脳裏を過った。
最初は、彼は自分に振り向かなかったリリィ嬢を悔しがらせたいのだろうと思っていた。けれど、それだけが目的ではないのかも知れない。
自由奔放な遊びの恋から足を洗い、真面目になったと見せかけることで、彼には何かしらのメリットがあるのだろう。例えば、ドレイク侯爵のようなお堅い方々の機嫌を取り、貴族社会における自分の立場を良くする為だとか。
けれど、例えそんなことに利用されているのだとしても、それでもオーレンの役に立てているのだとしたら嬉しい。そんな風に思えてしまう私は、自分でも思っている以上に重症なのかも知れない。
でも、これまでオーレンが私にしてくれたことに対して、私が彼にしてあげられることといったら、ハンカチに家紋を刺繍するくらいなものだった。だから、他に彼の為にできることがあるなら、協力してあげたい。
……そうそう。彼に要望された時にすぐ渡せるようにと刺した家紋入りのハンカチが、私の机の中にもう十枚以上仕舞われていることは、誰にも言えない私だけの秘密だ。
ドレイク侯爵邸に集った方々は、先日の夜会とは異なり、年齢層も高く身分の高い方々ばかりだった。オーレンの話では、今夜は第二王子エリクス殿下も参加されているらしい。
エリクス殿下も、婚約者がいながら、一時期リリィ嬢に心を奪われた殿方の一人だった。けれど、リリィ嬢がアルベルト様を選んだことで婚約者との仲を修復し、今年のうちに結婚の儀が執り行われるのだそうだ。
もし、リリィ嬢がアルベルト様ではなく、エリクス殿下を選んでいたら。
そう思うと、苦い感情が胸の内に広がる。
もしそうなっていたなら、私は今頃とっくにアルベルト様の元へ嫁いでいた。婚約者を奪われて絶望の淵に立たされ、これまで築いてきた全てを失っていたのは、私ではなく彼女だったはずだ。
行く手にある人の輪の中心に佇んでいる、一際美しい大輪の花のような女性。エリクス殿下の婚約者であるアリアンナ・マクレーン公爵令嬢は、私達の年代ではカリスマ的な存在だった。
冬の間に結婚の儀の日時も取り決められ、すでに王宮で生活を始められているという彼女は、先日の夜会には参加していなかった。もう第二王子妃としての公務を始められているらしいので、お忙しいのだろう。
王宮へ入られてから、ますます美しくなられた。きっと、愛するエリクス殿下との結婚を目前に、幸福感に包まれているのだろう。
そんなことを考えていると、不意にアリアンナ様がこちらを振り向き、満面の笑みを浮かべた。
「あら、オーレン」
これまで、取り巻きの侯爵令嬢の、さらに取り巻きでしかなかった私は、アリアンナ様と会話を交わしたこともなければ、その視界に入ったことさえなかった。
それなのに、今、アリアンナ様は自分を取り巻いている人々を押しのけるようにして、私達の前に現れたのだ。
オーレンは恭しく頭を垂れた。
「アリアンナ様。お元気そうでなによりです」
「まあ、随分と他人行儀な挨拶をするのね。それより、紹介して頂戴。あなたの大切な恋人を」
アリアンナ様は、私と同い年とは思えないほど大人びていて、それでいて私たちに見せる笑顔は子供の様に無邪気で好奇心に満ちていた。
その笑顔に魅せられつつも、不意に私の心は騒めいた。私を紹介するオーレンの声が、いつもと違って聞こえたからだった。
どこか躊躇うような響きを含んだその声は、僅かに掠れていた。誰かに私を紹介する時にはいつも私の腰に回されていた彼の左手は、今、私に触れることもなく、そのまま彼の側に垂らされている。
……まさか。
至近距離から見上げたオーレンの表情は、切なげに歪んで見えた。
…………そんな。
嫌な予感は、胸に苦い痛みとなって広がり、嫌でも辛い記憶を呼び起こした。アルベルト様が、リリィ嬢に恋をした瞬間を目撃した、その時の衝撃を。
「あなたが真面目になってくれて嬉しいわ。これで私も安心して結婚できるというものよ」
「ご心配かけて申し訳ありません」
親しみの籠ったアリアンナ様の言葉に、やけに丁重な言葉を返すオーレンの不自然さが、覚えた嫌な予感を確信へと変えていく。
やがて二人の会話は、私の分からない共通の知人の話へと移り変わっていく。いつもなら、私も会話に参加できるよう気を配ってくれるオーレンなのに、今はまるで私の存在など忘れてしまったかのように次々と話を展開していく。そのうちにオーレンの口調も次第に砕けた親しみの籠ったものに変わっていった。
会話の内容から、二人は幼馴染だったらしいと推測することができた。そう言えば、これまでもオーレンがアリアンナ様と親しく言葉を交わしているところを何度か見かけたことがある。その時は、二人とも私の手の届かない世界にいらっしゃる方だからと、特に興味もなく見過ごしていた。
二つ年下ながら、アリアンナ様はまるで姉のようにオーレンを諭したり揶揄ったりし、オーレンは苦笑いを浮かべながら伏し目がちに答える。けれど、時折視線を上げた時、彼の瞳にこれまで見たこともないほどの熱が込められているのが見て取れた。
そんな二人の傍に、会話が終わるまで作り笑顔を貼りつけたまま立ち続けていることなどできなかった。
「申し訳ございません。私、少し外させていただきますわ」
二人の会話が途切れる瞬間を待ってそう言うと、オーレンが一瞬不快そうに眉根を寄せた。
「コーデリア?」
「化粧室ですわ。お気になさらず」
彼にだけ聞こえるように囁き返すと、私はにっこりと作り笑顔を浮かべ、アリアンナ様に恭しく礼をして踵を返した。
追いかけてきてくれるだなんて期待はしていなかった。
いや、きっと談笑の相手がアリアンナ様でなければ、間違いなくオーレンは私を気遣い、会話を打ち切って後を追ってきてくれたに違いない。
けれど、会場の出入り口まで来て足を止めて振り向くと、二人がまだ親し気に会話を続けているのが見えた。
私はそのまま化粧室には向かわず、そこから庭へと通じるテラスへと足を向けた。
元から、化粧室になど行くつもりなどなかったのだ。ただ、あの場から逃げる為の口実だった。一人になって心を落ち着けられる場所なら、どこでもよかった。
薄暗いテラスに足を踏み出せば、まだ肌寒い春の夜風が身に沁みて、不意に涙が込み上げてきた。




