10.再会
「まあ、オーレン様よ。相変わらず素敵な御方」
「エスコートされていらっしゃるのは、どちらのご令嬢かしら?」
人々の視線を浴び、囁き交わされる会話を聞き流しながら、にこやかに笑みを浮かべて歩いていく。
会場の入り口近くで来客を出迎えているデューク侯爵夫妻に歩み寄ると、挨拶と招待をしていただいたお礼を述べる。
以前招待を受けた時には、お互いに型にはまった短い挨拶を交わす程度で終わった。けれど、ランデル伯爵夫人と仲が良いこともあり、今回夫妻はオーレンのパートナーである私にも親しげに言葉を掛けてくださった。
「オーレン。こちらのコーデリア嬢が、フロイラインの言っていたきみの初恋の人なんだってね」
いかにも興味津々といった様子で目を輝かせているデューク侯爵に、オーレンは自然かつ堂々と答える。
「ええ、そうです」
「まあ! フロイラインの言っていたことは本当だったのね! なんて美しくて可愛らしい方なのかしら」
満面の笑みを浮かべて興奮している侯爵夫人にお礼を言いつつ、お世辞でも褒められたことが嬉しくて、つい表情が緩んでしまう。
私達と侯爵夫妻の会話を傍で聞いていた人達から、私がオーレンの恋人だという情報はさざ波のように会場へ広がっていった。至る所から、興味津々といったものから嫉妬を含んだものまで様々な視線が突き刺さるように集まってくる。
不特定多数の人から注目を浴びるのは、婚約破棄された夜会に次いで二度目だ。どうしてもあの夜のことが思い出されて身体が冷えてくる。
あれから半年近くが経過したというのに、それはつい昨日のことのように思える。悪意あるものと、悪意はなくとも好意とはほど遠い視線と嘲笑の中を、ふらつく足を叱咤しながら必死に進んだ、あの夜。
あの時、私は泣いていたのだろうか。泣くほどの力すら残っていなかったのだろうか。そんなことなど意識できるほどの余裕すらなく、よく覚えていない。
「コーデリア」
不意に耳元で囁かれて、暗い深淵を覗き込むような思考から引き戻されると、目の前で侯爵夫妻が満面の笑みを浮かべていた。
「どうぞ、今宵のひと時を楽しんで頂戴ね」
「ありがとうございます」
慌てて礼を返すオーレンに続いたけれど、侯爵夫妻は特に不審げな表情を浮かべることはなかった。
会場を進んでいくと、様々な人々に声を掛けられた。
オーレンは、妙齢の美しい女性達ばかりではなく、同年代から年配までの男性達とも親しく言葉を交わしている。女性遍歴の激しい彼は、同性や年配の方からは敬遠されていると思いきや、実はそうではない。
彼は王太子殿下の側近の一人で、宰相とまではいかなくとも将来は国の重役に抜擢される可能性が高い。その上、ランデル伯爵家は国内でも有数の資産家だ。彼と親しくしておきたいという人物は、男女問わず少なくないのだろう。
けれど、例えそういった下心があろうとなかろうと、彼自身の持つ魅力が人々を惹きつけているのだ。麗しい見た目を自慢する訳でもなく、財力をひけらかす訳でもなく、オーレンは穏やかに微笑みながら相手が誰であろうと同じように接している。
オーレンが友人や仕事関係の知人と話し始めた時、私は挨拶を終えた後、話の邪魔にならないように傍を離れようとした。けれど、オーレンに腰に手を回されて引き寄せられ、その場から動くことができなかった。
お邪魔ではないのだろうかと心配しつつ、これまで夜会に出てもアルベルト様の傍について回ることのなかった私には、貴族男性どうしの会話はとても新鮮で、つい聞き入ってしまった。親しげに談笑しているように見えて腹の探り合いをしていたり、冗談を飛ばし合ったりしている様子は見ていて面白い。思わず笑みを漏らしてしまい、慌てて扇で口元を隠す。
彼らが私達の様子を冷やかしながら立ち去ったタイミングで、オーレンに訊ねた。
「私、お邪魔じゃなかったかしら」
「いや。寧ろ、彼らはあなたに興味があるから寄ってくるのさ。ほら、また」
オーレンの視線を追えば、彼と同年代の青年達が歩み寄ってくるのが見えた。
「やあ、オーレン。きみがまた美しい恋人を連れていると聞いて、紹介してもらおうと思ってね。今度はどこのご令嬢を誑かしたんだい?」
「誑かしただなどと、人聞きの悪い事を言わないでくれ。私達は真剣に交際をしているのだから」
へえ、と青年は目を丸くする。これまで幾人もがこの青年と同じように話しかけてきて、オーレンに同じことを言われ、同じ反応を示した。
お互いに名乗り挨拶を交わすと、青年は不意に笑みを消して声を潜めた。
「きみ達は、彼らもこの夜会に参加していることを知っているのかい」
唐突な、具体名を出さないその言葉の意味を、私は瞬時に察した。
その青年が目の動きだけで示したその方向に、反射的に目をやる。視界の端にその姿を捉えた瞬間、危うく顔を強張らせてしまうところだった。
少し離れた壁際に置かれた長椅子。そこに、仲睦まじげに寄り添って腰を下ろしているアルベルト様とリリィ嬢の姿があった。
「さあ、そろそろ行こうか」
青年が去った後、オーレンが耳元で囁いた。彼もまた、あの二人の姿を視界に捉えていたようだ。
「……ええ、そうね」
余裕ぶってそう答えはしたものの、本当は息が詰まりそうなほど苦しかった。
あの夜から今夜までの間、様々なことがあった。オーレンのお蔭で立ち直った私は、もうあの二人のことを見返してやりたい復讐の相手としか思っていないと、そう思い込んでいた。
けれど、アルベルト様の姿を一目見ただけで、胸の中に様々な感情が溢れ出してくる。まるで、別れを告げられたあの夜の続きが繰り広げられているかのように、寄り添っている二人を見ているだけで身体の奥から震えが沸き起こってくるようだった。
私の変化に気付いたのか、オーレンは足を止め、二人から私の姿を隠すような位置に立った。
「コーデリア?」
「オーレン。ごめんなさい。私……」
少しだけ、ほんの少しだけ待って。そうしたら、心を落ち着けて、あなたの恋人役としての仮面をもう一度付け直すから。
俯いた私の耳に、オーレンの長い溜息が微かに聞こえてきた。
「止めた。まずは踊ろう」
そう言うが早いか、オーレンは返事も待たず、やや強引に手を引いて、踊る人々の中へ私を連れ出した。
きっと、オーレンはあのままあの二人の元へ行って、私達がいかに幸せか見せつけるつもりだったのだろう。それで、少しでもあの二人に悔しい思いをさせられたのなら、それでよかったに違いない。
それなのに、情けなくもあの夜負った心の傷に引きずられて心を乱した私のせいで、彼はせっかくの機会を逃してしまった。
「ごめんなさい……」
向かい合い、密着して踊りながら目を伏せると、オーレンが耳元でクスクス笑った。
「まだ私の足を踏んでいないだろう。何故謝る?」
思わず顔が赤くなる。
「いつの話をしているの。最近では、足を踏むなんてことはなくなったはずよ」
「そうだね。あなたは随分上手くなったよ」
オーレンにダンスの特訓を受けるようになったばかりの頃、よく彼の足を踏んでしまったことを、いまだに根に持っているらしい。
「私の足が再起不能になる前に上達してくれて助かった」
揶揄うオーレンに、顔を真っ赤にしながら膨れてみせると、彼は私の耳元に顔を寄せて笑う。あまりに可笑しそうに笑うので、その笑い声を聞いているうちにこちらも可笑しくなってきた。
「もうっ。そんなに笑わないで」
「すまない。私の足を踏んだ時の、あなたの泣きそうなくらい情けなそうな顔を思い出したら、可笑しくて笑いが止まらなくなってしまった」
「っ、……ふふっ、本当、あの時はどうなることかと思ったわ。でも、ここまで踊れるようになれたのはあなたのお蔭よ、オーレン」
本当に、オーレンには感謝してもし尽くせない。ダンスのことだけではなくて、見舞いと称して復讐を持ち掛けてきた日から今日に至るまで、彼が私にしてくれたこと全てが有難いことだった。もし、彼がいなければ、私は今日ここで踊っていられないどころか、生きていられたかさえ疑わしい。
オーレンはちょっと目を見開いた後、まるで子供みたいに無邪気な笑顔を浮かべた。その笑顔を見ているだけで、自分を肯定されているような安堵感を感じる。
この冬、練習に練習を重ねただけあって、私とオーレンの息はぴったりだった。奏でられる音楽と完全に調和しながら動くことがこれだけ楽しいものだなんて、初めて知ることができた。
アルベルト様と踊っていた時はいつも緊張していた。ステップを間違えないように、彼の足を踏んでしまわないようにと必死で、失敗しないうちに早く曲が終わってくれないかと冷や冷やしていた。だから、ステップを踏むごとに流れるように動く周囲の情景や、踊りを見守る人々の笑顔や、一緒に踊っている人々と息を合わせることの楽しさなど知る余裕もなかったのだ。
後ろなど気にしなくても大丈夫。だって、オーレンがしっかり私をリードしてくれているから、人や物にぶつかる心配なんてない。
顔を上げれば、吸い込まれそうに美しいオーレンの笑っているように細められた目が、優しく私を見下ろしている。
思ったよりもずっと早く、あっという間に一曲が終わってしまった。
割れるような拍手に若干驚きながらも、充実感に包まれながらオーレンを見上げると、火照った頬に彼の大きな手が添えられた。
「素晴らしかったよ」
「本当に?」
「ああ。……あなたには見えてないだろうが、後ろで彼が凄い形相で睨んでいる」
不意に耳元でそう囁かれて、高揚していた気分に冷水を浴びせかけられたように、気持ちが一気に下がっていった。
「嫉妬しているのさ」
「……そう、かしら」
オーレンと向かい合う位置から彼の隣に移動しつつ、さり気なく視線を走らせる。すると、思ったよりもずっと近い位置にその人はいた。
薄ピンク色の可憐なドレスを着た儚げに見える美少女の傍らで、眉間に皺を刻んでこちらを見つめている長身の偉丈夫。
思わず身体が竦みそうになって、オーレンの腕にしがみ付く。
……あれが嫉妬している顔だなんて、オーレンも適当なことを言ってくれる。
アルベルト様は怒っているのだ。愛しいリリィ嬢を攻撃していた憎らしい私が、のこのこ社交界へ戻ってきたことを。




