幻の速度試験
ベルリン、深夜2時。
不夜城であるこの都市の中央駅にはこの日、多くの人々が集まっていた。ラインの女神像が見下ろす、ハンブルク行きのプラットホームには足の踏み場がないほどだった。彼らは或る列車の出発を送りに来たのである。
ホームに停車しているのは、たったの三両編成の列車だ。アイボリーと濃い紫のツートンカラー。丸っこい機関車が同じく丸っこい二両の客車を繋いでいる。新品同様に磨かれた列車に、客は殆ど乗っていない。それどころか、座席は取り外されてたくさんの測定機器が並べられている。気難しい表情の男たちがずっと何かを記録し続けていた。
薄暗いドーム屋根の天井には、機関車から出る煙が篭っている。煙突からはもうもうと白煙が上がり、発車を今か今かと待ちわびているようだ。機関車のオペレータは喧しいホームはどこ吹く風、瞑目している。
信号が青く灯る。二時八分、定刻となった。
ポッ、と小さく汽笛を鳴らすと列車はゆっくりと動き出す。汽笛でホームは静かになるが、直後割れるような歓声に見送られ、列車は一路ハンブルクへと旅立った。
「定発、蒸気圧正常」
指差し確認でオペレータは言う。
運転室には彼一人だけ。石炭は自動で燃やされるシステムになっている。この大きな機関車の運転室は非常に狭く、ファイアマンのスペースは用意されていないのだ。列車はゆっくりと加速を続け、北へと進路を取る。制限時速80キロでベルリン郊外へ。機関車の調子はすこぶる良いみたいで、目を離すとすぐに100キロを超えてしまいそうな調子だ。
「まもなく本線に出ます」
通信相手は2人いる。片方は客車に乗っている、機関車の様子を見守る技師。この機関車のことを誰よりも良く知るヴェルケ社の連中だ。そしてもう片方は、線路の様子を見るベルリンの管理局である。
試験列車は硬い大地の上に敷かれたレールをためらうことなく加速する。
「現在速度、130キロ。まだまだ余裕はあります」
「そのまま行け」
オペレータは無茶を言え、と呟いた。
この機関車は普段、時速150キロを上限に走っている。区間は今と同じベルリンとハンブルクだ。最速達列車であるヴェルケ・ツークはこの区間を2時間丁度、ノンストップで走り抜ける。280キロに満たない、ゲルマンではさほど距離が長くない路線だ。
深夜2時半にもなれば、街から離れた線路は真っ暗になる。この機関車の性能が高いことも、路線の軌道が丈夫であることも知ってはいるが、万が一ということがある。大きなヘッドライトがついていても、照らされてからブレーキをかけて間に合うことはありえない。
列車は時速160キロを突破する。
先日、海の向こうのブリタニアでは、時速115マイル、つまり時速181キロメートルを記録したというが、この機関車はそれに追いすがり、超えることは出来るのだろうか? 蒸気機関の限界は技術進歩とともに見えてきているのだ。オペレータはその限界をなんとなく感じてしまっている。
この機関車、ワルキューレ型蒸気機関車「ローレライ」は、戦前に計画された国内高速列車網の唯一の生き残りである。12両作られるはずが途中で製造中止、戦争の悪化でどんどん潰されていく中、唯一原型を保っている6号機だ。戦後、ディーゼルエンジン車や電気車が試験される中、蒸気機関車の可能性を詰め込んで生き残ったのがこの機関車である。製造時からかなり改造されており、4割ほどは新製部品が詰められているのだ。
列車は時速170キロを迎えた。
線路の間に埋まるキロメートル表示がすごい速度で流れていく。試験列車の特別ダイヤのため、対向列車はなく絶好の機会ではあるが、徐々に加速は薄れていった。
しかし、ボイラー圧にはまだ余裕が見られる。
「まもなく速度が頭打ちになりますが、レギュレータは全開ではないのでどうします?」
「決まっている! 全開にしろ!」
「……全開にするなとおっしゃったのも、ヴェルケの皆さんですよね?」
「気にするな! ローレライのボイラーは相当丈夫だ!」
「了解」
普段、お客を乗せて走るときは決して使わない全開走行。試験走行でもやっていいのかわからなかったが、ブリタニアの記録を超えるには使わざるを得ないようだ。記録を越えないと終わらせてもらえなさそうでもある。
「少々揺れますよ」
一応客車に注意だけしておいた。
二秒おいて、レギュレータ全開。列車は背中を押されたような強い力を受ける。徐々に加速が戻ってきた。
夜を裂くように、試験列車は突っ走る。速度は時速178……、179……。
「180キロです!まもなく、ブリタニアの記録を越えます!」
オペレータは無線に叫ぶ。動輪からの騒音で、叫ばないと自分の声すらわからないのだ。
「時速181、182、183キロ!」
客車では歓声が上がった。相当な揺れだが、皆手放しで喜ぶ。
「よくやった、ジーメオン。減速に入ってくれ」
客車からは減速指示。石炭の残りは3分の1を切っている。何より水が尽きそうだ。ノンストップでも足りる量の水がもう無くなりそうになっている。ここまでの速度なら仕方ないか、と思った。
「いいや、まだだ!出せるだけ出せ!」
ずっと黙っていた側から返答があった。
「指令!? どうしたんですか?」
「いいかジーメオン、よく聞け。時速115マイルの世界最速記録は先程破られた」
「なんですってぇ?」
やかましいというのもあるが、オペレータは何を言っているのかわからなかった。
「つい先程のエディンバラ発のロンドン行きだ。平均時速160キロで、ノンストップ走行を達成したらしい」
「平均時速160キロお?」
ヴェルケ・ツークよりも20キロも早いじゃないか。
「それよりも最高速度だ。時速125マイルを超えたらしい」
「125マイルって、200キロオーバーか!」
今度は客車の方から割り込んできた。
「おいジーメオン!」
「いいからもっと出せジーメオン!」
オペレータはレギュレータを更に押しこむことはできなかった。先程からずっとピストンの擦過音がいやにやかましい。通常の走行では出ることのない音だ。
「ですが、もう燃料が」
「燃料だと?」
「それに、ローレライではもう185が限度です。ロッドが折れかかってます!」
あの音は、動輪を繋ぐロッドが限界に来ていることを教えてくれているのだ。
「うるさい! 限界でも出せ! 今日を逃すと、あと半年はハンブルク線で速度試験が出来ないのだぞ!」
「ですが、機関車がイカれてしまってはどうしようも……」
オペレータが叫んだその時、金属にヒビが入る音がした。
「緊急停車あーっ!」
オペレータは叫びながら、ブレーキペダルを思い切り踏み込む。動輪あたり二つのブレーキシューがフランジに食い込むようにして制動をかける。蒸気はすべてカット。客車の非常ブレーキも同時にかける。
「止まれぇぇぇぇっ!」
時速160……、150……、140……。なかなか列車は止まらない。ブレーキが強く動輪を固定してしまい、レールの上を回らずに滑ってしまっている。
「車輪がロックしたっ! 客車、万一に備えてどこかに捕まって!」
ブレーキを離しても動輪は回らない。気づけば、足元がひどい火花だ。動輪がレールを削っているのか、レールが動輪を削っているのか。恐らく折れたロッドがブレーキと干渉してしまったのだろう。
時速100キロを割る。オペレータはボイラーの火を確認すると、動輪の逆回転を試そうとする。逆転機でギアを変えて其の一瞬後に全部の蒸気をピストンに送るのだ。そうすればロッドとブレーキの干渉はずれるだろう。まともなブレーキをかけれるように成るかもしれない。
「今だ!」
タイミングを見計らい、逆転機を引っ張った。タイムラグはほぼゼロに近い状態で、蒸気をピストンに流し込む。
その時。
先程とは逆の方向のロッドが裂ける音がした。ロッドは5メートル近くある鋼材である。
一瞬で大量の蒸気を受けたピストンは動輪を確かに逆回転させ、ブレーキとの干渉は外れたが、そのロッドが次に向かった先は地面だった。
突き刺さるのは一瞬だった。二本の折れたロッドは、運悪く枕木に突き刺さり、軌道を一瞬だけ叩いた。そして、根本から折れ、高く投げ出される。
叩かれた軌道の振動をもろに受けたのは機関車である。三対の動輪はレールの上に乗り上げると、左の動輪がレールの間に落ち、ぐらりと車体が左に傾く。
まずい、浮いている。
オペレータがそう感じた時には、列車は時速70キロにまで減速できていた。ローレライは枕木を割り、バラストを吹き上げながら300メートルほどで停止した。
機関車と客車がしっかりと連結してあったことが救いだった。
二十余名の乗客も、オペレータも無傷で被害者なしという事故だった。本線は2日ほどで仮復旧するという。
オペレータは、ローレライの運び込まれたハンブルクの工場に来ていた。
「おう、無事で何よりだったな」
「ええ。……やっぱり廃車ですか?」
ローレライは無残な姿になっていた。
ロッドは折れ、接地の衝撃でシリンダーも割れていた。動輪も歪み、まっすぐ走ることすらままならない。
「おそらくな。なんだ、気になることでもあるのか?」
「いえ、ここまでひどいと仕方ないなって思うんですが」
「下回りは完全に作り直しだろうな」
技師は淡々と様子を見ていく。
「動輪径をゼクス型と同等までに上げたら、もしかすると200キロを越えれるかなって思いまして」
「動輪をでかくするとパワーが足りなくなるぞ。わかってるよな?」
「ええ。おそらくヴェルケ・ツークも牽けなくなるでしょうが、こいつには速度を叩き出す使命が残っていると思いまして」
「ふむ……。お前がそう言うなら検討してみるか」
オペレータ、ジーメオンは工場を後にする。無残な姿のローレライを見るのはあまりいい気分ではない。
あれだけの事故を起こしてしまったのだ。自分の進退すらいまは保留だが、おそらくローレライと走ることは今後ないだろう。
しかし、オペレータが誰に変わろうとも、あの機関車はブリタニアを、後から聞いたがミッドランド鉄道のヘルメスという機関車を越えていかなければならない。それが、生き残った唯一のワルキューレの使命なのである。