2.
初夏。外は連日うだるような暑さだったが、大学の構内は比較的涼しく、講義が行われる教室は寒いくらいだった。
次の講義がある教室に辿り着くと、室内にはすでにたくさんの学生がいた。この講義は内容自体が興味を引きやすいのと単位が取りやすいという理由から、人気があるのだ。
「本当、あいつ最悪だったわ。私ら慰めてるのにあの言い草」
「そんなに元カノのことが忘れられないなら、そもそも合コンなんかに来んなって話だよね」
座る席を探すため教室内を歩いていると、そんな会話が聞こえてきた。話し声がしてきた方に視線を遣ると、この前参加した合コンにいた女達のグループが近くにいた。そのうちの一人と目が合った。
「『久住』なだけに本当『クズ』だったわ」
すぐに視線を逸らされたものの、聞こえよがしにそう言った。
「何それ、上手い。『クズみ』みたいな」
ケラケラと彼女達は爆笑する。僕は不愉快だったが、無言のまま素知らぬ顔でその横を通り過ぎた。
大半の席が埋まっている中、なんとか前の方に空席を見つけ、僕はバッグを床へ降ろし、座った。
「よお。隣、座ってもいいか?」
筆記用具を机の上に置くと声を掛けられた。目を向けると案の定、石田がそこにいた。
「どうぞ」
僕はバッグと筆記用具を持ち、内側に一席分詰めた。
「なあ、この前の合コンでさ、お前が気を損ねるのもわかるんだけどさ。あれはやっぱりまずかったと思うんだよ。彼女らもさ、悪気があって言ったわけじゃなかったんだろうしさ。あんなこと言ってそのまま勝手に帰ったのはいけなかったと思うんだよ」
「つまり、彼女らに謝れと」
歯切れ悪く話す石田のまわりくどさに苛立った僕は、彼が言いたいであろうことを口にする。
「まあ、要はそういうことだが……」
「『久住』なだけに僕は本当に『クズみ』たいらしいから、今更謝ったところで意味ないんじゃないかな? 『久住』を『クズみ』と表するなんて、あの女達は実にすばらしい発想力を持ち合わせているようだね」
「それ、彼女らが言ってたのかよ……」
僕の皮肉に気づいてか、石田は苦い顔をした。
「俺はさ、お前が愛歌ちゃんのことをいつまでも引きずっているから、それをどうにかして欲しくて合コンに誘ったんだよ。愛歌ちゃんの代わりでもいいから新しい彼女でも作れば、立ち直ってくれるんじゃないかって思ってな」
「愛歌の代わりを作る気はない。そもそも誰にも愛歌の代わりなんかできない。愛歌は消耗品なんかじゃない。僕が愛す人間は今も、そしてこれからも愛歌だけだ」
「お前が愛歌ちゃんのことを誰よりも愛していたのは――いや、今でも愛しているのは、高校の頃からずっと一緒だった俺が一番よく知ってるさ。だが愛歌ちゃんはもうこの世にはいないんだぞ」
「……」
強く僕は唇を引き結ぶ。無意識のうちに歯を食いしばっていた。
「俺は心配なんだ。愛歌ちゃんが亡くなってからお前、ずっと死んだような目をしてるしよ。元々仏頂面ばかり浮かべてて人当たりの悪い奴だったが、今よりもずっと自分ってものを持っていて覇気があった。なのに、今のお前はいつまでも愛歌ちゃんのことを引きずり続けて暗い顔をしている。ただ生きているだけで意思ってものが感じられない。一挙一動がまるで生ける屍みたいな感じがして、見てて不安になるんだよ」
「だからどうしたって言うんだい? 別に僕は誰にも迷惑を掛けていない。愛歌が望んだからこの大学に合格したし、きちんと通ってる。愛歌が望んだから僕は今もこうして生きている。それで充分だろう!」
「……」
つい口調を荒らげてしまった僕を見て、石田は絶句した。きっとすごい形相で彼を睨みつけてしまったのだろう。また思いのほか声が大きくなってしまったのか、僕らの周囲にいる他の学生からの視線を感じた。
「……確かに誰にも迷惑は掛けちゃいないさ。今のお前もそれでいいかもしれない。けどよ、そのままじゃ前に進めないぜ。いつまでも立ち止まったままでいることを愛歌ちゃんが望むとでも思っているのか?」
「……それで君は僕に愛歌のことを忘れろと」
石田の言葉に自分の声が低くなるのがわかった。
「別に愛歌ちゃんのことを覚えているのは構わないさ。だがいつまでも縛られてちゃ駄目だと俺は思うんだ。愛歌ちゃんは死んだけどお前は生きてるだろう。そのままズルズル引きずり続けるぐらいならいっそ忘れた方がお前のためだろうけどな」
石田はそう言った。高校の時から強引でお調子者な彼が真顔で話しているということは、それだけ真剣に僕のことを思っているからこそなのかもしれない。しかし、僕にはその発言の一つ一つが気に障る。
「みんな僕にそう言うよね。愛歌のことは忘れろ、いつまでも引きずるな、立ち直れって。それが僕のためだって。でもそれが仮に僕のためになったとして、そうしたら愛歌はどうなるんだよ。忘れられた愛歌は可哀想じゃないないのかい? 死んだらもうどうでもいいって言うのかい? 随分と薄情なんだね」
「俺は……」
石田が口を開きかけたが、僕はそれを遮るように席を勢いよく立った。バッグをわざと机の上に落とすように乗せ、そのチャックを力任せに開き、筆記用具をその中へと押し込んだ。
「お前、何やってるんだよ。もうすぐ講義、始まるぞ」
戸惑いの声を石田は上げる。
「帰る。出るからちょっとどいてくれないかい?」
僕はバッグを肩に掛けた。気圧されたのか、はたまた僕が他人の説得を頑として受け入れない人間であることを知ってからなのか、石田は顔をしかめたまま立ち、通路へと出た。
彼に一瞥もせずに僕は無言で一人、教室を出た。そして歩みを緩めず、そのまま床に足を叩きつけるようにしながら僕は黙々と進む。
行き先なんか考えてなかった。けれど足は自然と人通りがほとんどなくなった階段を上っていく。何かに急き立てられているわけでもないのに駆け気味になりながら、一階、また一階と上の階へと行く。上へ、上へという衝動だけに僕の心は支配されていた。
最上階からさらに上へと続く階段は、高校と違い通行禁止のプラカードこそ下げられていないものの、同様にロープで封鎖されていた。僕は高校時代と変わらずロープを飛び越え、その先へと階段を上る。そして屋上へと通じるドアの前まで来た。
ドアノブを捻るが、当然のことながら扉には鍵が掛かっており開かない。僕はバッグからずっと愛用しているピックとテンションを取り出し鍵穴に突っ込み、あっという間に解錠した。ピッキングは中学時代からずっとしてきているし、ここのドアの鍵はもう何回も開けたことがある。
ドアを開け屋上へ出ると真っ先に蒸し暑い外気を肌に感じた。冷房が効き、冷たく少し乾燥した構内のとは違い、今も熱され続けムワッとべたつくような空気。全身の毛穴が一気に開く感覚と共に早くも身体が汗ばむ。
僕はドアのすぐ脇に座り込んだ。そこ以外に日陰となる場所がないからだった。直射日光に肌を焼かれる気にはさすがになれない。それにただでさえ暑いのに真夏の強い日差しを浴びれば、間違いなく熱中症になる。
空は真っ青で、白くて大きい入道雲が浮かぶものの太陽は隠れておらず、これ以上にないぐらい今日もまた快晴だった。
地面に投げ出した手を僕はすぐに離した。コンクリートの地面は日陰であってもそこそこの熱を持っていた。服越しに座る分には問題ないが、手を置くには少し熱すぎた。
夏は強い日差しに照らされ日陰にいても周りが熱されているため暑く、冬は冷たい風が地上以上に吹きすさび寒い屋上。屋内にいた方がはるかに快適だろうし、高校までと違い大学には教室以外にあちこちに休憩できるスペースがある。
しかし僕は今でもこうして屋上に行く。ピッキングしてまで来る。
愛歌との思い出がある場所だから、というわけじゃない。今の僕には愛歌との日々をも想起させるが、空に近いこの場所が一番落ち着ける場所だからだった。
常に何かに縛られ閉じ込められている感覚。それは家、教室といった檻、そしてそれらを内包した住んでる街そのものという巨大な箱庭であり、さらにそこで親や教師、クラスメイト等に関係という鎖で繋がれている。上にはどこまでも続く広々とした空しかない、誰もいない屋上だけが箱庭外へ解放される、自由な僕の居場所だった。
快適とは言い難いけど、そこは空だけが広がる何もかもから開放された場所だった。
愛歌は屋上を居場所とするそんな僕のテリトリーに踏み込んできて、そのまま居着いて、いつの間にかかけがえのない存在になっていた。他人とのありとあらゆる関係が煩わしくてたまらなかったのに、愛歌だけはなぜか追い払うことが当時の僕にはできなくなっていた。
愛歌が隣にいるのが当然になっていた。一緒にいたいと思った。触れたい、近づきたい、愛歌とさらなる関係を築いていきたいと考えていた。
けれどその愛歌はもうこの世界のどこにもいない。僕の隣に誰かが来ることも、座って話しかけてくることももうない。
屋上には僕一人。一人きりだ。ぽっかりと空いてしまった僕の隣はもう永久に埋まらない。
お昼ごはんを食べたり会話したり、一緒に屋上での時間を共有した愛歌の姿が今なお鮮明に僕の脳裏に浮かぶ。