07―アリスの資格
少女の発した言葉に亜莉栖は戸惑う。
たしかに襲われた影は血で形作られていた。霧散して消えた後には血溜まりが出来ていたし、臭いも血液そのものだ。
しかしあれが「アリス」の血で出来ているとはどういうことだろう。混乱冷めやらぬ頭で考えてみるも、まともなものが浮かばない。
「お前、さっきのグリムの話を聞いて疑問に思わなかったか? 首が城にあるのなら、体はドコへいったのか」
その時、ゴクリと音がした。唾を飲み込む音だ。それは亜莉栖の喉元から発せられた音だった。
「本当かどうかは定かじゃないが、アリスの体はジャバウォック本体の餌らしい。本体が食し、そこから影は生まれるんだそうだ」
「あの血液が、アリスのものだっていうのはそういうことなのね……」
「まあ、チェシャの話によると用途はそれだけじゃないみたいだけどな」
マティはチラリとグリムを見やる。視線に気づいたのか、黒うさぎは顔をしかめて一瞬睨むと、明後日の方へ視線を飛ばす。
その反応を面白がった少女はケラケラと笑いをこぼした。
二人のやり取りに不思議な顔をしていた亜莉栖だったが、そういえば、と思い出したように口を開く。
「まだ見てないけど、チェシャっているの?」
腹を抱え目に涙を溜めるマティは、笑いながら水滴を拭い亜莉栖の問いに答える。
「くくっ、ああ、いるさ。ワンダーランドでやつを知らないものはいない、なあ、グリム?」
「うるさい、オレにその話を振るな」
なぜか会話に入ろうとしない黒うさぎは、微かに震えている気がした。見れば耳まで真っ赤にし、鋭い犬歯を剥き出しにして怒っている。
「黒の国の住人じゃないのかしら?」
「まさか。やつは女王のペットだぞ? ここにいるわけがない」
「え? ならどうしてチェシャから敵の情報が聞けるのよ」
「それはやつが情報屋だからだよ。それ相応の見返りがあれば口を開く。それに、あいつはペットといっても忠誠を誓ってるわけじゃない。あちらの情報を黒に教えてくれたりもする。だが反面、こちらの情報までリークするから困ったもんだが。恐らく、新しいアリスが来たことも既に女王へ報告済みだろうな」
少女は腕組しながら頭を悩ます。
与えられる情報全てが真実ならいいのだが……。如何せんチェシャは自由すぎる性質の持ち主だ。その情報には出鱈目なものも多く含まれる。楽しければいい、面白ければいい、ただそれだけの思考の持ち主なのだ。
「てことは、わたし外出たらもう完全に標的なわけね」
「ま、そういうことだな」
がっくりと項垂れる亜莉栖の表情に、絶望と言う二文字はない。落胆してはいるものの、別な感情が新たに芽生え始めていた。
「でもわたし、戦えないんだけど……」
「それなら安心しろ。本当かどうか定かじゃないが、ジャバウォックを倒せる剣がこの世界のどこかにあるらしい」
「……それって、ヴォーパルの剣のこと?」
「ほぅ、そこまで知ってるとは、今回のアリスは博識だな」
マティは機械の左手を打ち鳴らして、感心の拍手を表す。
「それなら話は早い。ウチらの当面の目的は、ヴォーパルを探しながらヤツらの数を減らしていくことだ」
「それで、何が安心なわけ?」
「これもチェシャがいつか言っていた話だが、ヴォーパルはアリスにしか扱えないらしい。そしてその条件をクリアしていないとそれに触れることすら叶わないという」
「その条件って……」
「狂気、だよ」
マティの言葉に亜莉栖は目を白黒させる。言われたことの意味がまともに頭に入ってこない。文字通りの耳から耳へと、脳を介さずに右から左へ聞き流す。
「なんだその顔は、これは光栄に思うべきだぞ。なんせ有史以来何人たりとも触れることすら叶わなかった、ヴォーパルとやらに選ばれるかもしれない資格を、お前なんかが有しているかもしれないんだからな」
「資格? 資格って、なにが……」
「だから言ったろ? 狂気だよ、狂気。狂った気質だ」
「狂った……って、わたしが??」
唖然として訊ねると、少女は首を縦に振った。
「どこが?」
「アリスがアリスの血液に中てられない時点で、もう既にお前は狂ってる。アリスじゃない者なら話は別だがね……」
再びマティの視線はグリムへ移った。お前もなにか言ったらどうだ? そんな意味合いも含んだものだったが、それ以上に意味深な色が見て取れる。しかしその真意に亜莉栖が気づくはずもなく、言葉の意味をようやく理解した彼女は強く首を振り回した。
「わたしは狂ってなんかないわよ、至って普通だわ。ただ、慣れてきたってだけで……」
「それがもう異常なんだよ。自覚はないんだろうけどね」
すると突然、グリムは思いつめたような顔をして亜莉栖に振り向いた。その目付きは相変わらず鋭いままだ。なにか言いたげに口が一瞬動いたが、そこから声が漏れることはなかった。
「さて、話も一通り終わったことだし、そろそろ解散するか」
そう言って一度手を叩くと帽子の少女は歩き出す。
「あの、ちょ、ちょっと……」
だが亜莉栖はそれを呼び止めた。ん~? と怠慢そうに見返すのは他でもない帽子の少女。
「まだ何かあるのか?」
「いや、あなたたちのこと、まだよく知らないんだけど」
「そんなものはここにいれば自ずと分かるだろ、じゃあな」
さも面倒臭そうに言葉を返すと、長いローブを引き摺りながらマティは階段を下りていく。どうやら謁見の間から出て行くようだ。しかし扉の脇で頭を下げるメイド長の横までやって来ると、くるりと振り返り声を発した。
「ああそうだ、アリス、後でウチの工房に来い。ヴォーパルがどこに在るかまだ分からんからな。とりあえず繋ぎの為の武器をくれてやる、絶対に来いよ、遅れたらミンチだからな!」
「え、あ、うん。いや、時間――」
何時に行けばいいのか聞こうとした亜莉栖の言葉に耳を傾けることもなく、それだけを一方的に言い残すと、マティはメイド長によって開けられた扉から小さな歩幅で足早に出ていった。
「時間……は? って、わたしミンチ?」
グリムに振り返り亜莉栖は訊ねると、知らん、そう言って黒うさぎはため息を吐いた。
少しの沈黙が場に流れる。
空気は徐々に重たくなっていき、けれどある人物の呟きによりそれは打ち砕かれた。
「アリスちゃん、はぁ、はぁ……」
瞬時に顔を引き攣らせ、最大級の嫌悪感を顕にする亜莉栖。玉座に振り返ると、鼻息荒く、公爵がなにやらカメラのようなものを連写しているのが見えた。
「な、なにしてんの、あれ?」
「見ての通りお前を撮ってる。アリスを愛でるのが公爵の趣味なんだ。放っておけ、あれがあいつの楽しみだからな」
「さっきマティが言ってたのって、あれだったのね……。いや、てか撮られてるわたしの気にもなってよ」
「じき慣れるさ」
慣れたくないんだけど、と身の危険を感じ身震いしながら呟く亜莉栖に、メイド長も共に不快感を顕にしていることは気付く由もなかった。
一度肩を竦めると、黒うさぎはそっと近づき亜莉栖に耳打ちする。
「マティの用事が済んだら、あとでオレの部屋に来い。話がある……」
「え……?」
甘美な響きが直接脳内を愛撫する。
……身の危険はすぐ近くにも?!
ゾワゾワとした悪寒にも似た寒気に身を震わすと、亜莉栖は一瞬で耳まで真っ赤にし、光の速さでグリムから飛び退いた。自身の体を抱きしめてイヤイヤを繰り返す亜莉栖を尻目に、黒いうさ耳は扉へと徐々に遠のいていく。
メイド長になにか話しているようだが、それは亜莉栖の元まで届かない。すると出ていくグリムの背に礼をして、メイド長は亜莉栖の方へと歩いてきた。その顔に満面の笑みを貼り付けて。
「ヒッ?!」
先ほど身体を散々玩ばれたのを思い出したのか、完全に怯える亜莉栖はにじり寄るメイド長から後退る。
「アリス様~、マティ様がお待ちですので、早く参りましょう~」
鼻にかかるような甘い声を出しながら、十メートルほどの距離を一瞬で詰めたメイド長。亜莉栖の腕をがっしりと掴むと、涙目の亜莉栖にお構いなしに謁見の間から連れ去った。
「あ……」
そうして謁見の間に一人取り残された強面のオヤジ。愛でる対象である亜莉栖がいなくなったことにより、凛々しい顔つきに戻る。
しかし――
「うっ……う……」
俯き肩を震わせる公爵は次第に涙声になると、「アリスちゃーん!!」と大声を上げてとうとう泣き出した。
瞬間、柱の影から現れたのは複数人のメイドさんだ。耳には用意のいいことに耳栓が装着されている。
各々役割があるのか、ある者は公爵をあやし、ある者はカメラを取り上げ、そしてある者は――――。ドンッ、と鋭い手刀をその後頭部にかまし、公爵を気絶させると面倒臭そうに肩に担ぐ。
「あーあ、またやっちゃったわね」
「仕方ないでしょ? まったく、いい年こいたオヤジが女々しい……」
「後が大変なんだから……また記憶失うのよ?」
「分かってるけど……」
互いに文句を言いながらも、メイドたちは公爵の体を支えて出口へ向かう。それは玉座の後方にあるもう一つの扉だった。
見事な連係プレイにより気絶させられた公爵は、謁見の間からの退場を余儀なくされる。今までの記憶を一時的に失って、また亜莉栖が来た事から教えられることになるとは、眠る彼には思いもよらないことだろう。