05―黒の城の住人たち その2 幼稚な公爵
城を入ってすぐ見えていた、一階正面の狭い回廊を歩くことおよそ五分。
城内は広く、薄明かりしか灯されていないため、回廊を歩けば歩くほど方向感覚も次第に狂ってくる。
迷路のように入り組んだ道程は、さすがに覚えるのには時間がかかりそうだった。
そうして着いた一つの扉。
例に倣って、スペードの紋章が描かれた扉には、合わせて「クッキングルーム」と書かれたプレートが打ち付けられている。
「さあ着いたぞ、ここが厨房だ」
黒うさぎは亜莉栖の肩をポンと叩き、扉を開けるように促した。
一度顔を見返した亜莉栖は、「なんでわたしが?」といった表情を浮かべると、扉へ視線を移し、取っ手に静かに手を添える。
すると急に中から聞こえた妖しい声――。
「こ、公爵様、い、いけません……」
それは女性の声だった。
強く言いたいが遠慮がちで、でも満更でもないような声に次いで……、
「よいではないか。世は……世は……」
興奮したように鼻息を荒くする、野太い男性の声が聞こえる。
「ちょ、ちょっとちょっと……!」
亜莉栖は掴んだドアノブから手を離し、顔を背け、隣に立っているグリムの袖を掴みながら小声で話しかけた。
「なんだ? つうか汚れるだろ、離せ」
いまだ着替えを終えていないため、亜莉栖の服は泥で汚れている。
それが飛び火することを嫌ったグリムはすばやくその手を払った。
「さっき食べてる最中だって言ってたあれ……そ、そういうことだったのっ?!」
払われたことを気にすることもなく、しかし男女の情事を想像してしまい、瞬時に顔を真っ赤に染め上げる亜莉栖。
それに対して青年は、下へ視線を移してマティとアイコンタクトをとる。
「なにを想像しとるか知らんが、入らなきゃ話にならない。開けて見てみろ」
少女は半ばうんざりした様子で肩を竦めると、青年に向かって開けろと手で合図をする。
グリムは小さく嘆息し、ドアノブに手をかけた。
「ちょっと待って! わたしまだ心の準備が――」
ガチャ――。
亜莉栖の静止も意味を成さず、扉が開けられた瞬間香ったのは、甘い匂いだ。隙間から、まるで街のケーキショップにいるようなお菓子の匂いが洩れてきた。
暗がりな廊下に眩い光が射し込み、亜莉栖の視界がゆっくりと開けていく。
照明の光に慣れていない目を塞ぎ、背中を押されながら亜莉栖は数歩前へと進む。
耳をつくのは男の荒い鼻息、そしてそれを止めようとする女性の声。
亜莉栖は手で顔を覆ったまま、気恥ずかしさからイヤイヤを繰り返す。
――――ムシャ、ムシャ、ボリ。
「……ん?」
途端に聞こえた咀嚼音。
――ムシャ、ムシャ、ボリボリ……。
亜莉栖は指を少しだけ広げて、その隙間から向こう側を覗いてみた。
するとまず、がっくりと残念そうに項垂れる、メイドの格好をした女性の姿が目に付いた。
咀嚼音を聞きながら首を左右に振り、こめかみに手を添えてはまた首を振る。
そしてその視線の先、調理台の上に胡坐を掻いて座るのは、コスプレのような黒い王族衣装に身を包む中年の男だった。
鼻息を荒くしては、台の上に乗せられたクッキーやらケーキやらを大量に口へと運び入れている。
あまりに突飛な出来事に、亜莉栖は目を丸くした。
「なに、あれ?」
誰に向かって問うでもなく呟かれたその言葉に、グリムは愕然とした態度で答える。
「あれが黒の公爵だ――」
「ただの変態だ」
グリムの声に一拍の間も置かず、マティは顔を顰めて言い放つ。そしてそのまま公爵へと声を投げた。
「おい公爵、アリスが来たぞ」
「……世は……世は……」
少女の声が届いていないのか、ぶつぶつと呟きながら、ただひたすらに菓子を頬張る男。
その目は虚ろで、なにも映していないように見える。
「……なんか、危険な感じがするわね」
「まあ、お前にしてみれば、危険だと言わざるを得ないだろうな」
「え、それどういうこと?」
少女へ訊き返す亜莉栖の声が聞こえたのか、公爵らしき男はピクッと反応を示しその手を休める。
そして両の手に菓子を持ちながらゆっくりと振り返った。
「うぇ……?!」
目が合ったその男の顔を見た瞬間、亜莉栖は驚きのあまり大きく仰け反る。
お菓子が好きそうにはまるで見えない、厳つい強面のオヤジだったからだ。口の周りをケーキで汚したくりくりの金髪天パ男は、虚ろな瞳をしたまま順々に人物の確認をする。
見慣れた黒うさぎ、口うるさい帽子の少女、そして――。
今しがた目が合ったばかりの亜莉栖の姿を瞳に映すと、淀んでいた双眸は瞬時に光を取り戻す。
「あ、アリ……アリス、ちゃん?」
「ちゃん?」
強面オヤジから呼ばれるには、まるで似つかわしくない呼ばれ方をした亜莉栖は思いっきり顔をしかめた。あまりの気持ち悪さに、生理的に受け付けないと体は身震いする始末。
しかし呼んだ本人はどこか不思議そうに小首を傾げている。
「なにあの人、どうしたの?」
隣で腕組して立っているグリムへ訊ねると、
「ああ、お前の服装が普通じゃないからだろ。そういえば着替えさせるの忘れてたな……。おい公爵、知っての通り、ここへ来るのはアリス以外いないんだ。いいかげんそれくらい学習しろ」
言いながら亜莉栖の肩を引っつかんで、グリムは亜莉栖を公爵の前に立たせる。
軽く背中を押され前のめりながら男の眼前まで来ると……、男は目を血走らせ、荒かった鼻息はまるで機関車のように噴出する。
「アリ……アリスちゃーん!!」
「うわっ?!」
いきなり調理台から飛び上がった公爵は、そのまま亜莉栖へ向かってダイブした。
亜莉栖はそれを脅威的な危険回避能力で咄嗟に避けると、男はそのままロケットの如く勢いで壁に激突する。
シューと煙を上げる厨房の下壁に振り返ると、脅えた様子で亜莉栖は言った。
「なに?! 敵なの?」
「敵じゃないさ、こいつはこう見えても、この国で一番偉いんだ」
少女は言いながら公爵へ近づく。そしてみっともなく倒れる男の尻に蹴りをかました。
「いつまで寝てんだ! さっさと起きろ」
「は、ハイ!」
声を裏返しつつも、少女の怒声に男は跳ね起きる。
すると一瞬で表情を作り変え、「世は……」言いながら凛々しい男性像を取り繕った。
しかしそれも束の間。やはり公爵には無理があるようで、厳つい強面は瞬時に崩れ、親バカ過ぎる父親のようにだらしない顔になった。
「アリスちゃん……」そう言って頬を赤く染め、手をもじもじとさせてはハッとする。
「はあー、まあいい。ようやくこれで揃ったな」
グリムはその様子を見て呆れ顔で呟くと、
「ああそうだ。アリスの着替えを頼む」
いまだに頭を抱えるメイドの一人へ指示をした。
「畏まりました」そう言いながらメイドは、アリスの腕に自身の腕を絡ませた。
「さあアリス様、お召し替えを致しましょう」
「え、ちょ、ちょっと……」
「オレたちは先に謁見の間へ行っている。着替えを終えたらお前も後から来い」
黒うさぎの声を後方に聞きながら、亜莉栖はメイドに連れられて厨房を後にした。
◆◆◆◆◆◆
来た道を戻り、二階へと上がってしばらく明るい回廊を歩き、やってきたのは衣装ルームだ。
亜莉栖が来るのを待っていたのか、中には数人のメイドが待機している。
室内を見渡すと、ポールに吊るされたハンガーには所狭しと衣服が掛けられていた。
中には王族衣装や執事服なんかもあり、この部屋が城の住人全ての衣装を収納している場所であることが自ずと理解できる。
「アリス様、まずはその小汚ならしいお召し物をお脱ぎになってください」
入口を入ってすぐ、いきなり亜莉栖はメイドから衣服を脱ぐように催促された。
「ってここで?」
「はい。お脱ぎになられましたら、奥の部屋まで進んで頂きます」
言いながらメイドは、部屋の奥を手で示した。
入口からでも見えるガラス張りの小部屋。マジックミラーなのか表面は鏡になっている。
「そこでシャワーを浴びて頂き、終わりましたら体を拭き、全裸のままこちらへいらしてください」
「え?! ぜ、全裸??」
「はい。アリス様のお体を隅々までたっぷりねぶ――――嬲り……」
先の公爵のように目を血走らせ生唾を飲み込み……しかし至って冷静に淡々とメイドは答える。
「いえ、隈なくサイズをお計りし、お体に最適なドレスを仕立て上げるためですので、ご了承下さいませ」
途中如何わしい単語をいくつか挟んだ気もしたが、美しい礼をされ亜莉栖はたじろぎながらも渋々頷いた。
泥だらけのジャージとティーシャツを脱ぎ、水に濡れた下着を脱いでいる途中、幾方向からの視線を感じた。
気になりそちらへ目線を向けると、メイドたちは各々適当な作業を見繕っては目をそらす。
首を傾げながらも脱いだ衣服を籠に入れ、亜莉栖はそのままシャワールームへと歩いていった。
……およそ十分後。
もう何日もシャワーを浴びていなかったかのように思えるほど、泥に汚れ気持ちの悪かった体を洗い流してさっぱりとした亜莉栖は、濡れた髪を拭きながらシャワールームを出てきた。
……視線を浴びているのも忘れて。
開放感を感じたのだろう、家にいる時と同じ感覚で浴室から出てきた亜莉栖はその視線に気づき……。数度の瞬きの後、
「キャアアアアー!!」
髪を拭いていたタオルで咄嗟に体を隠して屈み込む亜莉栖。その顔は羞恥で真っ赤に染まっている。
「取り押さえろ!」
血眼になって声を上げるのは先のメイドさん。メイド長の声を合図に幾人ものメイドが機敏な動きを見せる。
一人がすばやく亜莉栖を立たせ、一人はその背後に滑り込む。一瞬抱えあげられた亜莉栖は円形をした低いお立ち台の上へ。
そして一人がメジャーを持ち、二人が片腕ずつを上げる。
先のメイドは冷静を装いつつも多少鼻息を荒くし、おもむろに亜莉栖の背後へ。
あまりにも一瞬のこと過ぎて、亜莉栖は思考が追いついてこない。
茫然自失と立ち尽くす亜莉栖へ、怪しい笑みを浮かべたメイド長は、ゆっくりと魔手を胸へと近づける。
そして――――、ふよん。
大きくはないが形のいい亜莉栖の乳房に触れた。
「え? ……え?」
感触に気づいた亜莉栖は視線を下へと落とす。すると自身の胸を揉みしだく卑猥な手つきの女性の両手を双眸がキャッチした。
「ちょ、ちょっと! なんでおっぱい揉んでんのよ!」
「アリス様、これも歴としたサイズ測定なので我慢なさってください」
「ていうか、あんたメジャー持ってないじゃない!」
メイドはニヨニヨした顔をして……しかし目つきは真剣に鋭く、黙々と胸を揉み続ける。
「いや、あの、ちょっ、ん……」
「アリス様、変なお声を出さないで下さい、気が散ってしまいます」
「そうですよアリス様。あなたにぴったりなドレスを仕立て上げるためですので」
「我慢なさってください」
「そうです、我慢ですよアリス様」
皆一様に笑みを浮かべながら勝手なことばかり言う。周囲にいたメイドたちも我慢の限界なのか、それぞれが腰やヒップに手を伸ばし始める。
アリスは顔を赤らめながらも、しばしの間、羞恥な身体測定に唇を甘く噛みながら、必死に耐えるのであった。
……それからおよそ二十分。
ぐったりした様子の亜莉栖は床に横たえられている。……全裸のまま、タオルを掛けられた状態で。
文字通り頭からつま先まで、妙な手技を交えた身体測定が行われたことに、亜莉栖は疲労困憊してしまったのだ。
賑やかだった室内にメイドは一人。亜莉栖をここまで連れてきたメイド長だけになっていた。
くすくす笑いながら彼女は、肩で息をする亜莉栖に向かって温かい視線を投げる。満足そうな笑みを口元に称えて。
……亜莉栖が起き上がるちょうどその頃、部屋にはさっきまでいたメイドたちが次々に部屋へと戻ってきた。それぞれの手には衣装が携えられている。
ある者はドレス、ある者はヘッドドレス、ある者はエプロンと、六人揃うとメイド長は声を上げた。
「さあアリス様……お召し替えのお時間です」
「え……? ってそれに着替えるの?!」
「もちろんです。さあ、お立ち台の上へお上がりください」
無理やり立たせられ、再び亜莉栖はお立ち台の上へ。
まず着付けられたのは下着だった。本人ですら身に着けたことのない大人っぽい黒レースの下着。
続いて穿かせられたのは黒のストッキングだった。ガーターベルトと繋げられたニーハイ丈のもの。左右の腿の辺りには何かを差し込むベルトが付けられている。
上からかぶせられた黒のお仕着せはミニスカートで、その上には純白のエプロンを着させられる。
栗色の長い髪を両サイドで縛られ、最後にヘッドドレスを被せられた亜莉栖。
黒の編み上げブーツを用意されそれに足を通し、手首にはフリルがあしらわれたカフス付き長手袋を着用した。
サササッ――と姿見の前まで移動させられると、あまりの衣装の可愛さに、思わず亜莉栖は目を瞠る。
「これ、わたしなの?」
「もちろんですよ。素材がいいから苦労しませんねー。いえ、アリス様の為なら苦労なんて惜しみませんけど」
メイド長の言葉もそこそこに、亜莉栖は体を左右に捻って、いつの間にかメイクまで終わっている自分の姿を確認する。
どこぞのお嬢さんがいるのかと、本人なのにあまり自覚がないようだ。
亜莉栖は年頃の女の子にもかかわらず、普段から衣服やメイクに気を使ったことがない。
元がいいんだから、メイクにもっと気を配ればモテるのに……。とは友人談だ。
衣装が気に入ったのか、先ほどまでの羞恥心が嘘のように晴れ晴れとした顔つきでメイド長を見返すと、
「ありがとうメイドさん!」
両の手をがっしりと掴みブンブンと大きな動作で握手を交わす。
恍惚とした表情を浮かべ熱い吐息を洩らしながら、メイド長はしばしの間時を忘れた。――が、
「あ、アリス様、グリム様とマティ様……それと、変態公爵様がお待ちですので謁見の間へお急ぎください。こちらです」
公爵はついでと言わんばかりに嫌な顔をすると、メイド長は亜莉栖の手をとって駆け出した。
亜莉栖は振り向き様に室内に残っていたほかのメイドたちに礼を述べると、メイドたちは遠のく亜莉栖の背中を指を咥えて羨ましそうにジッと眺めていた。