04―黒の城の住人たち その1 大きな帽子の女の子
狭まる奇怪樹たちを縫うようにして、森を抜けた亜莉栖の視界が突然開けた。
目の前に広がる風景は、まるでヨーロッパの格式高い貴族の所有地そのものだ。
そしてまず目に付いたのは鉄門だ。高さ五メートルもある格子状のそれは、錆や欠けの見当たらないほど綺麗な造りで全てが黒塗りだった。
グリムは無言のまま門へ近づいていくと、門は自動に両開き、青年を敷地内へと受け入れる。
亜莉栖はその場に立ち尽くし、キョロキョロと見渡し、まるで小学校の修学旅行生のようにガーゴイルの像やその他珍しいものを見学していると、
「なにしてるんだ、さっさと入れ」
手招きされ、黒いうさ耳に急ぐようにと促される。
まだ自由行動ではないことを悟ると、亜莉栖は一歩ずつ前へと踏み出し、
「おじゃま、します……」
自分はいささか場違いなんじゃないかと、少し遠慮がちに黒塗りの門をくぐり抜け、敷地内へと足を踏み入れる。
――瞬間、感じたのは匂いだ。明らかに先ほどまでの外の空気とはまるで違う。ここには、死臭がない。
かと言って特別なんの匂いがするわけでもないが、血生臭さがすっかり消えたことに亜莉栖は安堵のため息をつく。
亜莉栖が庭へ入ると同時、グリムは踵を返して歩き出した。
それに続く亜莉栖は好奇心旺盛な瞳で庭を見物する。
庭園に花はなく、殺風景かと思いきや。丁寧に刈り取られた芝生はまるでチェスボードのようになっており、白黒市松のボードの上には亜莉栖の背丈以上もある数々の駒が配置されている。しかしおかしな光景だ。どこにも白のキングが見当たらない。変わりにあるのは、真っ赤なクイーンと、その他の駒だけ。
しかもよくよく見てみると、ゲームはすでに勝敗を決しているようだった。
クイーンをキングとして捉えるならば、赤のクイーンに対し、黒のポーンがチェックをかけている。恐らくはクイーンにプロモーションしているだろうが……。
一国のトップが、ナイトならまだしも、プロモーションしているとはいえポーンにチェックをかけられるなんて……ちょっと情けない。と亜莉栖は微妙な顔をして、ゲームセットした盤上を見つめていた。
その他に庭で目に付くといえば、中央の噴水だろうか。これまた吹き上がる水以外透明なものはなく、その全てが黒い石造り。
そして視線を正面へと投げた亜莉栖は、先ほど黒うさぎが言っていた通りの外観の城に、納得したように頷いた。
ブラック・キャッスルの名が示すとおり、その外装全部を黒一色に統一された、五つの尖塔を持つ城が目に飛び込んできたのだ。
「本当に黒いのね……」
呟くように発した声に、背中越しの声が届く。
「まあな。ここは黒の王国だから、たいていの物が黒いんだ」
「黒の王国?」
「ああ」
「じゃあ、白の王国もあるの?」
黒があるなら白だろうと、小学生並みの発想力で訊ねると、
「白は……消滅した」
途端に暗くなったグリムの声音。思いつめたような表情は、背中を向けられている亜莉栖に分かるはずもない。
「消滅? じゃああんたたちは、一体なにと闘ってるわけ? あの変な怪物たち?」
「……赤の王国……」
長い庭をひた歩き、ようやく着いた城の入口。
トランプのスペードを象った紋章が描かれた巨大な鉄扉は、門と同様、グリムの姿を認識すると、独りでに押し開くかのようにして開放された。
黒うさぎはその目の前で立ち止まると、急に執事然として亜莉栖に振り向き、
「オレたちの城へようこそアリス」
謡うように言いながら、今までの慇懃無礼な態度からは想像もつかないほどの丁寧なお辞儀をしてみせた。
それはまるで、華やかな社交界へと足を踏み入れたんじゃないかと勘違いしてしまいそうなほど、人を惹きつけてやまない魅力を振りまいている礼だった。
◆◆◆◆◆◆
先に場内へと通された亜莉栖は、その内装に驚きを隠せない。
「うわぁ……」
煌びやかなエントランスは黒一色かと思いきや、高価そうな像の数々や絵画などの美術品で飾られており、外からの見た目ほど黒を強調したものではない。
一階の左右からは階段が伸び、緩やかなアーチを描きながら二階へと上る。さらに一階の奥には薄暗く狭い回廊が目に付いた。
庭園のチェスボードと同じく、白と黒の大理石が敷き詰められた市松の床を踏みながら、数歩前へ進んだ亜莉栖。
見上げれば大きなシャンデリアがキラキラと煌く。本当に現実なのか判断がつかなくなるほど、一般家庭で育った亜莉栖からしてみれば、その様は見ていてとても現実離れしたものだった。
ある意味亜莉栖の家も、現実的ではないとも言えるが。
「不思議の国のアリス」、そして「鏡の国のアリス」の大ファンである両親は、家中グッズで溢れかえさせるほどのコレクターだ。
その余波は亜莉栖の部屋にまで押し寄せ、結果、亜莉栖の自室もワンダーランドじみるまでに変貌してしまった。
ボウとしてうつつを抜かしていると、不意にどこからともなく少女らしき声が聞こえる。
「なんだうさぎ、もう帰ってきたのか?」
声のした方へ振り向くと、亜莉栖の眼下には大きなシルクハットが……。
だばだばな黒のローブの上に男物のジャケットを羽織り、そして目立つほど大きな左手は、機械のようなグローブ型をしている。
さらに帽子のサイドには、挿絵で見たことのある、10/6(10シリング6ペンス)と書かれた札が添えられていた。
「黒をつけろ黒を。それじゃどっちか分かんねえだろうが」
帽子から発せられたと思われる物言いに対し、グリムはさも当然のように意見する。
そんなやりとりを見ていた亜莉栖はハッとして、
「……片やうさぎに片や帽子にって……あ、もしかしてあなたマッドハッターね!」
「違う、あんなアホと一緒にするな小娘。ミンチにされたいか」
間断なく返ってきた言葉は、おおよそ少女の発するには相応しくない単語だった。
それに対して亜莉栖は不快な表情を顕にする。
「小娘って……あなたの方が小さいじゃない!」
まるで子供同士の喧嘩だ。
未だに顔を見せないシルクハットの下、身長の低い少女はグリムに問うた。
「おいうさぎ、まさかこいつが新しいアリスか?」
「だから黒を付けろと……ぐっ……」
少女と付き合いの長い黒うさぎは、これ以上の反論は無意味であることを理解している。だから素直に頷くことにした。
「……そうだ」
黒うさぎの返事を耳にした少女は、落胆の色を多量に含むため息を一つ。そして首を左右に振る。
「なんてことだ。こんなのがアリスだと? またウチらの負けじゃないか。女王を喜ばすだけだぞ……」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ」
こんなの呼ばわりされ気に触ったのか、意味不明なことを口走る少女に対し、亜莉栖は食ってかかった。
「あんたね、名も名乗らないで訳分かんない事言ってんじゃないわよ! 大体わたしだって、こんな所に来たくて来たわけじゃないのに!」
「ほぅ、今回のは多少威勢がいいようだな」
「まあな。オレにも食ってかかってきてたさ」
「まあ、お前はなめられてもしかたないだろう?」
「なんだと? まあ、肝が多少据わってるのはいいことだな。ヤツらを見ても泣き出さなかっただけ今までよりもマシだ」
自分を他所に話し出す二人に苛立ちを覚え、亜莉栖は会話に割り込んだ。
「ちょっとわたしのはな――」
「それにそれだけじゃない。ヤツらの血液に対する免疫まで持ってる」
が、すぐさま言葉は遮られ、
「ほぅ! 来たばかりの“アリス”がか!?」
尊大不遜な態度をとっていた少女は、グリムの一言で感心したように顔を上げた。
「……あ、可愛い」
帽子に隠れて見えなかったその顔は、十歳くらいの少女に見える。
肌は透き通るように白く、唇は瑞々しさ、柔らかさが伝わるほどぽってりとしていた。
お人形さんみたいなあまりの可愛らしさに、なにに対して怒っていたのか亜莉栖自身忘れてしまうほどだ。
くりくりの瞳は純粋な赤色で、好奇に満ちた眼差しで亜莉栖を見上げていたが、
「誰が可愛いだ小娘、ミンチにされたいのか?」
外見を褒められるのが嫌いなのだろうか。亜莉栖の言葉を聞いた瞬間、メンチを切る少女。
その威圧感は黒うさぎをもたじろがせるものだったのだが、
「――って、褒めてるのにそれはな……」
「いいから落ち着け、このままじゃ話が進まない」
あまり少女を怒らせると後が怖いことを知っているグリムは、火種を摘み取るために咄嗟に亜莉栖の口を塞いだ。
口を封じられた亜莉栖の声は、くぐもりながら喉奥へ。
「まあ、それもそうだな。アリスいじりはこれからも出来ることだし、これでしばらくは退屈しのぎに困ることはないか……」
「んもぅもぅう~~~~?!(あんたはあたしをどうするつもりだ!!)」
「おおっとすまない。これじゃゲームが始まる前にゲームオーバーだな」
気づけば口と鼻を塞いでいた手をパッと離し、グリムは少女の隣に立つ。
すると帽子の少女は顔を上げ、亜莉栖を見ながら口を開いた。
「しょうがない、不本意だが教えてやる」
「違うだろ、遅れたのをまず詫びろ」
「うるさいうさぎ! 変なところで執事面するな!」
ポンと頭を叩かれた少女は、そのまま振り向きざまにグリムの脛へ蹴りを放った。身長が低いため、ちょうどその蹴りは弁慶を直撃。
おおぅ、と呻きながら前かがみになり、黒うさぎは涙目で蹲る。
ふんっ、と鼻を鳴らすと、少女は続けた。
「……仕方がないから詫びてやる。紹介が遅れたなアリス、ウチはアンダーテイカーのマティ=ツェッペリンだ」
「アンダー、テイカー? そんなのいたっけ?」
痛そうに脛を摩る黒うさぎを他所に、亜莉栖は聞いたこともない言葉に疑問を呈した。
すると無理をした風にすっくと立ち上がる黒うさぎは、それに端的に答える。
「墓堀人だ……。まあ、正確には葬儀屋なんだが――」
「なんだ、もう少し寝てろよ、うさぎ」
「馬鹿言え。このくらいでくたばってたら、これから先こいつを守れないだろうが……」
疑問の答えにはまるでなっておらず、楽しげに会話し出す二人についていけない亜莉栖は、一人取り残される形となった。
……それから数分後……。
「そうだ、公爵のやつはどこだ?」
思い出したように発せられた青年の声に、呆然としていた亜莉栖は瞬時に反応を示した。
「ちょっとちょっと、公爵って、執事のあんたより遥かに位が高い貴族なんじゃ……」
「ん? それがどうかしたのか?」
「どうかしたのか? じゃなくて、仕える側の人間がそんな言葉遣いして大丈夫なのかってことよ」
どこで誰が聞いているかも分からない城内で、亜莉栖は自然にヒソヒソ声になる。
「ああ、そんなことか……。それなら大丈夫だろ、お前もその内分かる」
それが当たり前のような口振りに、亜莉栖は怪訝な表情を浮かべた。
小さく息を吐くと、がっかりした様子で、
「わたし、執事ってもっと慇懃なのかと思ってた……。けど、幻想だったみたい……」
「はは、グリムにそんなこと期待しても無駄だ。こいつは少し変わってるからな。なんせあのみ――」
「オホン!」
マティが何かを言おうとした瞬間、黒うさぎは殺人鬼も吃驚なほどの鬼の形相で少女を睨むと、一つわざとらしく咳をした。
大層驚いた様子のマティは、帽子を押し下げ、無言の威圧感から逃れようと身を縮ませる。
(……この二人の関係って、どっちが上なのかしら)
亜莉栖はそんな事を思いながら、二人を不思議そうに交互に見比べた。
「……さて、ところで、公爵はどこ行った?」
グリムの声がいつも通りの口調であることを確認すると、少女は帽子を上げながら言った。
「やつなら厨房だ。今頃食ってる最中なんじゃないか?」
「なんだまたなのか」
「しょうがないだろ。やつの暇つぶしって言えば、それくらいしかなかったんだからな」
「それもそうだがな」
「だが、これからは安心だろう? あいつの楽しみが“戻って”きたんだから」
「……それも、そう、だけどな」
グリムとマティは揃って亜莉栖を見やる。その視線はどこか同情しているようにも見え……。
「な、なによ」
「頼んだぞ」
言われ、黒うさぎに肩を叩かれる亜莉栖。
「なにが?」
「さて、では厨房に行こうか、アリス」
疑問符の浮かぶほど首を傾げた亜莉栖は、そのまま背中を押され、厨房へと連行されていった。




