03―奇怪樹の森を抜けて
「立てるか?」
青年に問われ、亜莉栖は頷くことで返事とした。
少し休み不快な気分は幾分かマシになりはしたものの、しかし辺りに立ち込める血臭はいまだ晴れず、亜莉栖は嫌そうに顔を顰めて青年を見返す。
「ねえ、ところでさっきの怪物はなんだったの?」
「気になるのか?」
「当たり前じゃない。訳もわからず襲われて、危うく殺されそうになったんだから」
「……まあ、それもそうだな」
「もしかして、あれがさっき言ってた、わたしを『ストーキング』するやつ?」
怯えた表情で訊ねる亜莉栖に、青年はこくりと頷いた。
「その一つに過ぎないが……。さっきのヤツは“ジャバウォック”と言って――」
「えっ……あれが、ジャバウォックなの?」
「ん? なんだ、知ってるのか?」
意外そうな顔をして青年は問い返す。
亜莉栖はそれに愕然と頷くと、しばしの間、思考に入る――――。
それは幼き日に、耳にたこが出来るほどよく読み聞かせられた、童話に登場する名前だった。
亜莉栖の両親は大のルイス=キャロルファンで、それは娘に童話の主人公である「アリス」と同じ名前をつけた所からも垣間見えるだろう。
本当は「アリス」とカナ表記にしたかったようだが、生粋の日本人なのにそれは少しおかしいだろうと思い直し、亜莉栖が生まれる直前になって、急遽漢字表記に変更したそうだ。
という話を、亜莉栖は小学生のころに母親から聞かされた。
そしてジャバウォックは、その童話の一つ、『鏡の国のアリス』にその名が登場する。
「ジャバウォックの詩」
この詩では、ジャバウォックと呼ばれる正体不明の怪物が、名もない勇者によって打ち倒されるという事件が、かばん語と呼ばれる多数のナンセンスな単語による叙事詩という形で描写されている。
ジョン・テニエルによる挿絵では、ジャバウォックに立ち向かう名のない勇者は少女の姿をしており、一般的にそれがアリスであるという解釈もなされている。
そういえば似たようなモンスターが、「アリス・イン・デスゲーム」にも出てきたな、と亜莉栖は記憶の断片から思い起こす。しかしそのゲームでは味方だったのだが……。
おかしいな、と思いながら、熱でも発しそうなくらい熟考する亜莉栖に、黒うさぎは横から言葉を付け足した。
「といっても、ヤツは影なんだがな」
「……影?」
言葉に振り向き、亜莉栖は小首を傾げる。
たしかにほぼ霧状で、時たま実体とはなっていたが、それらしい実体ではなかった。
「どういうこと?」
「それは……。というか、お前平気なのか?」
「なにが?」
突然問われた言葉の意味が分からずに、亜莉栖はキョトン顔で青年に聞き返す。
「いや、ヤツの血の臭いだよ」
「……あー、そう言えば……。うん、大分慣れてきたみたい」
先ほどは不快でしょうがなかった場の臭いも、長考したおかげか、はたまた嗅覚がイカれたのか、そこまで気にならなくなってきていた。
しかしそんなアリスに怪訝な視線を投げかけるのは他でもない、訊ねた黒うさぎだった。
……普通の人間が――しかもここへ来たばかりの“アリス”が――これだけの短時間であの臭いに慣れる筈がない。これはもしかすると――。
不思議そうな顔をして自分を見返すまだあどけなさを残す少女に、青年はある一つの可能性を見出した。
「まあいい。次が来る前にここを離れよう」
「えっ、もう行くの」
「休んで楽になったんだろう? ヤツらは血を回収する習性があるんだ。チンタラしてると、囲まれるぞ。それにだ――」
「え?」
黒うさぎは亜莉栖の姿を指差した。
「その格好どうにかしろ」
言われて自身の姿を確認すると、今まで混乱していたため格好など気にしていなかったが、半袖の白ティーシャツに下は黒ジャージという出で立ちだったことに初めて気づく。
しかも今までの行動により、原色を留めていないほどに泥に塗れてしまっていた。
脳裏を掠めた記憶。
それにより意識がなくなる前に、ゲームをやっていた時のままの格好であることを気づかされる。
そしてふと思い出す。最近読んだ小説に、異世界トリップという言葉があったことを……。
それは何かの拍子に、自分がいた世界とはまるで違うパラレルワールドに迷い込んだり、はたまた何者かに召喚されたり、偶発的に飛ばされたりする現象だ。
「不思議の国のアリス」も、たぶんそうなんだろうなー。と暢気に考えていたのも束の間――。
ハッとした亜莉栖は泥だらけの手で掴みかからんとする勢いのまま、青年に激しく詰め寄った。
「うぉっ?! なんだよ汚ねえな。泥がつくだろうが、はな――」
「ねえ! これって、夢じゃないの」
「あ? だからさっきからそう言ってるだろう」
途端、亜莉栖の動きが硬直する。
黒うさぎはそんな亜莉栖を余所に、服が汚れないようそれとなく離れた。
「な、なんてことなの……まさか、本当に異世界トリップ? わたしが、しちゃったっていうの……?」
訳の分からないことをぶつぶつと口にしながら震えるアリスを、青年はジッと眺めている。
その眼差しはどこか品定めしているようにも見え、しかし亜莉栖はその視線に気づく様子もない。
「あんた、さっきからわたしのこと、“アリス”って呼ぶけど……。もしかして、アリスってあのアリス?」
「? 何を言いたいのかいまいちよく解らんが、アリスは“アリス”しかないだろう」
「……それで、さっきのがジャバウォックって事は……ここが、まさかワンダーランド……?」
「比べればなかなか物分りがいいな。今までのやつらはそれを理解する前にたいてい死んだのにな」
「……えっ? それってどういう――」
「ほら、話は公爵のところへ戻ってからだ。さっさと森を抜けるぞ」
疑問の言葉は途中で遮られ、再び手を握られる。
あれだけ近づくのを躊躇っていたにもかかわらず、黒うさぎは泥に塗れた亜莉栖の手をしっかりと握り締めた。
疑問はひとまず胸の奥にしまい込み、再び走り出した青年に手を引かれながら、血臭の濃くなる怪しい森を、亜莉栖は二人で駆け抜けた。
◆◆◆◆◆◆
しばらく走り、今度は違う森に入ったことを亜莉栖は自ずと認識する。
「なに、この気持ちの悪いところ」
亜莉栖の目の前に広がる光景。
それは、樹皮にまるで人面を彫りこんだような奇怪な木々の生い茂る、気色の悪い低木林だった。
「ここは奇怪樹の森だ」
「……って、そのまんまじゃない」
「それ以外に名づけようがないだろう?」
「……まあ、それもそうだけど」
「ここまで来れば血を回収しに来たヤツに見つかることはないしな、普通に歩いていくか」
ちょうど森の中ほどに差し掛かったところだろうか。
亜莉栖に振り向いた黒うさぎは、安全を確認すると繋いでいた手をそっと離した。
見返す亜莉栖は瞳に不安を宿しながら、
「本当に大丈夫なの?」
訊ねると、至って冷静に青年は答える。
「ジャバウォックは鼻がよくないからな」
付き添うようにして歩いていく森の中、亜莉栖はふと思い出す。
(……そういえば、まだこいつの名前知らなかった……)
「ねえ――」
少し見上げながら隣の男に声をかけると、
「なんだ、腹でも減ったのか。もう少し待ってろ、ここを抜ければ公爵の城だからな。なんならそこらに生えてるキノコでも食えばいい」
「――って、なに一人で勝手に解釈してんのよ!」
「腹が減ったんじゃないのか?」
「違うわよ! ただ、あんたの名前を聞きそびれてたから聞こうと思っただけでしょ」
お腹を空かせてる子、という不名誉なレッテルを勝手に貼られそうになり、亜莉栖は不機嫌極まりないといった風にむくれっ面を顕にする。
そんな亜莉栖に対し、黒うさぎは一瞬、フッと笑みを零した。それは出会ってから初めて見せた、青年の“優しさ”だったのかもしれない。
子供のように不貞腐れる亜莉栖を横目で一瞥すると、青年は静かに口を開いた。
「オレの名前は、グリム・フォン=シュヴァルツだ。自己紹介が大分遅れたが、黒の公爵の城であるブラック・キャッスルで、とりあえず不本意ながら執事をしている」
「グリムね! あ、わたしは黒崎亜莉栖、よろしく」
そう言って握手をしようと青年に手を差し出すと、青年はその歩みを止めた。
「……」
「え、なに、どうしたの?」
手を差し出す亜莉栖を見返し、黒うさぎは軽く首を振る。
「お前と馴れ合うつもりはない。だが、お前はオレたちが守る。……なんとしてでもな」
その表情から決意の色が見て取れるほど、青年は真面目な顔つきで声を発した。
何も言えなくなるような厳かな雰囲気に、亜莉栖はそれ以上口を開くことが出来なかった。
「さあ、オレたちの城はすぐそこだ。いくぞ」
立ちすくむ亜莉栖に背を向けて、黒いうさぎは歩き出す。
見つめる背中はどこまでも黒く、同時に、ほんの少しの哀愁を感じさせた。
先を行く青年の背を考え深げに見つめながら、亜莉栖は後ろをついて行く。
その先で、絶望の現実と、幻想の希望を知らされるとも知らずに――。